福澤昭司著『民俗と地域社会』
評者・飯島康夫 掲載誌・日本民俗学224(2000.11)


 一
 本書は、自らを「地方」在住の民俗学研究者として位置づけ、「在地」で民俗を研究することの意味を真撃に問い続けてきた著者が、これまでさまざまな場で発表した論考をひとつにまとめたものである。「地域で地域を研究すること」を提言し実践し続ける著者の研究姿勢は明確であるが、個々の論文(各節)のテーマは多彩である。すべてを論評することは評者の能力に余るので、ここでは地域に対する研究者の姿勢と、分析にあたっての地域把握という二つの問題を中心に考えてみたい。はじめに本書の構成を掲げておく。
(目次省略)

 二
 第一編を中心とした前半部は、民俗学研究者と地域との関わりについて述べており、地域研究に携わる者の姿勢を問うたものといえる。
 著者は、柳田國男が唱えた「学問救世」の志や民俗学が「自己内部の省察」の学であることについては肯定しつつも、あるいはそれゆえにこそ、「郷土で日本を研究するといって、断片として各地の事例を集積し、自らの存在する地域をその断片の中に解消してしまうこと」(七四頁)、すなわち地域を単なる資料採集の一地点、仮説検証の場としてしか位置づけない研究に対して異議を唱える。大正期から昭和にかけて、柳田國男の頻繁な講演会開催と『東筑摩郡誌別編』編纂への関わりをきっかけに長野県で盛り上がった民俗学研究(当時は郷土研究)がその後衰えてしまったのは、在地の研究者の問題意識と実践の欠落に一因があるとしながらも、当時の民俗学が学問としての体裁を整えるに急なあまり民俗資料とその母体となる郷土とを乖離させ、地域の問題解決に無力だったことが原因だったとする(第一編第一章第三節)。
 一方で、著者は向山雅重を「在地」の民俗学研究者として高く評価する。それは向山が「地域社会の抱える痛みを共有しようとする志をも」ち、地域の問題を解決したいという強く暖かい思いを持っていたからである(第一編第一章第二節)。この「志」すなわち地域に対する「思い」が「地域在住」の研究者と「中央」の研究者では異なるというのが著者の考えである。調査者(研究者)が被調査者と同じ地域在住者の場合、共通の生活感覚を有し、調査という相互作用を通してお互いの痛みを共感しながら、なおかつ「民俗」を客体として対象化することができる。しかも、話者を対象とすることは自己を対象とすることにもつながらざるをえない。したがって著者によれば、地域在住者であることは経世済民の学、内省の学たらんとする民俗学の初期の「志」を実現するのに極めて近い位置にいることになるのである。
 著者のいうように調査地域に対する研究者の「志」の有無は問われるべきだと思う。しかし、生活感覚の共有といったところで、それが観念的なものではなく実体として可能になる地域の範囲はごく狭く限られているのではなかろうか。であるならば、地方在住の研究者の自覚を促し主体性を回復させるという著者の思惑を別にすれば、ことさら中央か地方かという区別を強調することはこの学問にとって必ずしも有益とはいえないであろう。むしろ、著者が求める研究者の「志」=地域に向かう姿勢の問題は、民俗学に携わり民俗調査を行おうとする者すべてに突きつけられているといえよう。

 三
 第二編は著者の個別の地域研究の成果である。その視点と方法については序章において述べられている。著者のいう地域研究は「地域にあって地域をあるまとまりとして研究すること」であり、「個別の事例を積み重ねるのではなく、個別具体的な地域の姿を通して、地域を統合する原理を探り出すこと」であるとする(七四頁)。地域の統合原理は、「地域性」とも言い換えられている。ある指標によって他と区別されるまとまりを持つ地表の広がりを地域とすれば、その範囲は可変的であり、指標の取り方によってその内容は異なってくる。「地域研究」といったときの「地域」はいかに規定され設定されるのかが問題になるのである。研究方法によって地域設定の仕方は異なるであろうし、逆に異なる地域概念のもとでは方法もまた異ならざるをえないと考えられる。本書では「地域研究」の方法として三つの具体的方法が提示されている。
 第一は、習俗自体の分析と、習俗が地域社会の中で果たしてきた役割を分析することによって、その地域社会の統合原理を明らかにするというものである。第二は、「目的は同じでありながら具体的行為が異なる習俗、あるいは部分的行為が同じ複数の習俗と重ねてみることで、それらの習俗が総体として意味するところを明らかにする」方法である。第三は、地域社会の人々が内在化させてきた負の「歴史」、現実の裏側に見てきた暗闇を対象化しようというものである。方法というよりも、よりよい地域社会を築くという実践的な課題に応えるための研究対象を示したものといえ、方法とすれば第一のものに近い。
 分析にあたってどの方法を主にするかによって著者の地域概念にも差が認められる。以下ではそれぞれの方法(視点)ごとに評者なりに整理して概要を述べてみたい。

 四
 第一の方法に対応して地域統合のあり方を分析しているのは、第一章第二節、第三節、第二章第二節、第三節である。
 第一章第二節は、自然条件や生業を指標にしてマチとサトとヤマに分類される地域(集落)がいかなる特徴を持ち、相互にどのように関係して、より上位の松本市という地域を構成しているかを考察したものである。そこでは交易等を媒介にした三つの地域間に、非日常的な機会を中心とするマチとサト、日常生活に強く結びつくマチとヤマという機能的結合がみられ、ムラとヤマの関係は希薄であったことが指摘される。さらに金銭的な経済力の有無と土地(耕地)の有無を指標にして三つの地域を位置づける。そしてお互いの地域に対する主観的な価値づけを分析し、マチのヤマに対する一方的な差別の存在とその背景を鋭く指摘する。
 第三節では同じく松本市のマチを対象地域とし、鳶がそこで果たす役割、特にマチの祭りにおける役割について考察している。個々の店への帰属意識が強く、日頃連帯感や一体感に乏しいマチという地域社会が、町内の住民でもない鳶という外部のエネルギーを導入した祭りによって統合されてきたことを明らかにしている。
 第二章第二節は、両墓制の墓を集落の空間的配置に位置づけ、儀礼と祭祀空間の分析から二つの地域における住民の世界観のモデルを構築しようとした試みである。結論としてムラ人の深層意識の中には、ムラの内側=人間界と外側=他界との区別があり、その境界は空間的に川や溝で表現され、他界は山や原野につながるということ、両墓制の埋葬地は他界に配置され、それに対して石塔は他界(埋葬地)に行くことのできない生者が人間界に立てた死者の身代わりであることなどが述べられる。最後の点については、盆の墓詣りから見ると埋葬地の方が石塔よりも重きが置かれており、その矛盾に対して「深層意識的に」埋葬地は近づきがたい場所であったとする解釈はやや説得力に欠けるように思う。
第三節も同じく両墓制と村落空間との関連を扱った論考である。ここでは一つのマケ(同族)だけが両墓制をとり、他のマケは単墓制である地域を対象に、二つの墓制の併存が奇異とされない意味を考察している。そして葬送儀礼には死者を穢れとする一方、位牌祭祀のように死者の霊を個性化して恒常的に祭祀しようとする矛盾した行為が認められ、両墓制をとるマケにおいてはそれが埋葬地とは別に石塔を建てる行為として表れているとし、両者に共通する心意をみている。
これらの論文における「地域」は、住民が生活上何らかの機能的なつながりを有している範囲として捉えられている。それは地域社会という用語で示されていることが多い。山本質素の規定によれば、地域社会とは「より大きな社会の一部として、自律的な社会運営機構を持ち、一定の地理的空間をその領域として占有している『単位社会』」である〔山本 一九九三 二四四〕。湯川洋司のいう「住民が日常生活を営む現実の地域社会」もこれに近い概念である〔湯川 一九九三 一九三〕。著者が「習俗が当該地域社会の中で果たしている役割」(七六頁)といったときに想定しているのはこの意味の「地域」であろう。

 五
 第三の「方法」による第三章各節の論文における「地域」の概念も、第一の方法にみられる地域概念と同様のものと理解される。第三章では地域社会の深層に潜むヤミ(闇)について考察されている。地域社会は生活に危機をもたらす病気や災害などの説明しがたい事態に対して、それを解釈可能な体系の中に位置づけ秩序化をはかるための説明装置として、伝説、憑き物などさまざまなものを生み出してきた。著者は人間社会を襲う病気や災害をヤミ(闇)として捉える一方、人々が生み出した説明装置の中に見え隠れする社会的抑圧や嫉妬、差別、恐れなどをも人間の側の「闇」として見据えている。
 第一節では、倉科氏伝説が、史実としての倉科氏殺害という過去の事件の記憶をもとにしながらも、その後地域で起こる説明しがたい現象を「祟り」という因果関係で解釈するための装置として再解釈されて機能していると分析している。伝説の地域社会における役割を指摘したものである。しかし、倉科氏殺害を「史実」とする点については、その根拠となる安藤茂良の論文〔安藤 一九七六〕に使われている史料自体が後世のものであり、安藤自身によっても十分吟味されていない点でやや疑問は残る。
 第二節は、通常の倫理では許されない盗みや殺しが大師講の儀礼の由来として語られる伝説についての論考である。その中では、殺しや盗みは通常の倫理と異なる意味を担わされているとし、特に特定の地域で大師講の殺人が「歴史」として繰り返し語られる底流には、儀礼的死とそれによる新しい年の生命の再生=豊穣を認める人々の気持ちがあるとする。
 第三節、第四節では憑き物、異類、異界、さらに呪い、祈祷師、明かりなど、地域社会における「闇」に関わる事例が列挙される。ここでの「地域」も、説明装置としての伝説や異界が意味を持ち機能する個別具体的な地域社会が想定されている。

 六
 第二の方法における地域の概念は第一、第三の方法におけるものとは異なっている。長野県あるいはその中の一地方、さらに特定の民俗事象の分布する範囲が基本的には分析対象の「地域」として設定されていると考えられる。この地域概念に関わる論文は、第一章第一節、第四節、第二章第一節である。
 第一章一節は、長野県内の各地で見られる月見の晩に行われる儀礼的盗みや道祖神盗みの意味を、盗む側と盗まれる側の関係の構築という視点から考察している。そして月見の晩の儀礼的盗みは、「盗み」が餅(供物)の交換であると考えることによって、ムラ内部の家々の間にそれを媒介にした関係の連鎖を作り出すという意味を持つとする。また、道祖神盗みは道祖神を嫁にみたてた婚礼とのアナロジーによって二つのムラを強引に結びつけたものであるという、いずれも独創的な結論を導き出している。
 このうち儀礼的盗みの分析においては、長野県あるいはその中の儀礼的盗みが行われる範囲が「地域」として設定されているようである。しかし、月見の晩の儀礼的盗みの事象自体は広く長野県以外にも見られるものである。長野県という「地域」の統合性は、儀礼的盗みとの関わりでは見出せない。習俗の意味はともかく、そこから著者のいう「地域の統合原理」を抽出することは困難である。また、ここでは事例の伝承地点として表示される個々のムラという地域社会によって様々に意味づけされている「儀礼的盗み」の事例を重ね合わせることで、その共通する意味と機能を抽出するという方法がとられている。しかし、これは特定の民俗事象を地域から切り離して数多く収集し、比較検討していくという著者が厳しく批判した方法と変わらないのではなかろうか。
 第一章第四節についても同様なことがいえる。民具の名称だけの調査では正確な調査にはならず、必ずそれに対応する実物の調査が必要であり「言葉とモノの対応関係を常に確認していくことによって、本当の民俗の姿というものが見えてくる」(一二九頁)という著者の指摘はその通りである。しかし、背負い梯と背中当ての二種類の背負い具の名称の長野県内における分布のみから、背負い具の伝播と名称の変遷を推論するのは、その結論の当否はともかく、著者が批判する資料を断片化して扱う方法とどこが異なるのか評者には分からない。著者の主張からすれば、用具を受容した個々の地域社会の生活体系や受容過程が考察されなければならないだろう。さらにいえば、著者が想定している背負い具の伝播や変遷は、長野県という行政的な区画の中だけでは収まりきらない。「長野県」という地域範囲の設定はその点で有意性を失うのである。
 第二章第一節も副題にあるとおり「長野県内」を地域として設定している。しかし、その中でも「自然的・文化的に一つのまとまりとして」把握できる北信地方と東信地方が対象となっている。習俗の意味を間う場合に有効な地域範囲の条件を具体的に示している点で、前の二論文よりも明確である。方法的には長野県内の麦粒腫という特定の病気の治療のために行われる複数の呪いの比較から、そのいずれもが「この世と他界との境界で媒介機能を有する物を用いて、身体の内部から外部への病の移行を演ずる行為」であり、その根底に「体外に排出された病は、境界の場を通じて他界へと送り出される」という共通の病気観・治療観の存在を導き出している(一六八頁)。興味深いのは、この結論にいたる過程で、もう一つの「地域」概念、すなわち住民自身が社会的まとまりと認識し、生活上何らかの機能的つながりを有している個別の地域社会としての「地域」が登場する点である。例えば長野県小県郡真田町真田という同一「地域」に複数の異なる呪法が併存していることに着目し、それを可能とする思考特性を抽出しようとする場合などである。この具体的な生活連関をもつ地域社会での民俗事象のあり方を問うことこそ、著者のいう地域研究の目的にふさわしい方法と地域概念なのではないだろうか。

 七
これまでみてきたように、本書には大きく分けて二通りの地域概念を見ることが可能である。それに対応した方法もまた異なる。「個別具体的な地域のあり方を通して、地域を統合する原理を探り出すこと」が地域研究であるとするなら、著者のいう第三の視点を含めた第一の方法の深化によってその目的が達成できるように評者は考える。第二の方法をとるにしても第一の方法による分析が前提となるのではなかろうか。著者がそうした方向性を持っていることは、特定地域における異なる視点からの継続的な民俗誌作成を提言していることによってもわかる(第一編第一章第三節)。それは著者のような地域に対する強いこだわりがあってはじめて可能なのだと思う。著者の地域研究のさらなる展開を期待するものである。
《参考文献》
安藤良茂 一九七六 「『倉科様』伝説の史実を追って」『木昔』一〇
山本質素 一九九三 「日本民俗学における『地域差』と『地域性』概念について」『国  
  立歴史民俗博物館研究報告』五二集
湯川洋司 一九九三 「民俗の地域差はなにを語るのか−変動する地域社会とふるさと
  意識の形成−」『国立歴史民俗博物館研究報告』五二集
(〒370-3107 群馬県群馬郡箕郷町矢原卜神九五二−五)
詳細へ 注文へ 戻る