江戸東京近郊地域史研究会編『地域史・江戸東京』 |
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評者:北原 進 | |||||
「日本歴史」749(2010.10) |
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「江戸・東京研究は、これまで都市史として(政治・経済・文化等の)諸側面から研究が積み重ねられてきた。また(近年は)江戸学・東京学として、歴史的な分析にとどまらず、考古学や民俗(など諸分野)からの視点など総合学としてのひろがりを見せている」(( )内は北原の補筆)。 第一編 中近世の信仰と社会 野尻氏の論文は、荒川区南千住より出土した、応永二十八年(一四二二)「鏡圓禅門」の銘をもつ宝篋印塔の残欠に詳細な検討を加えられ、鏡円禅門が熊野那智大社文書中の文安五年(一四四八)豊島年貢目録にみえる「小塚原鏡円」と同一人物らしいこと、そして小塚原飛鳥権現社が、熊野系の神社であることを明らかにしたものである。紀州熊野・出羽三山あるいは関東をとりまく修験の峰々との関わりには、筆者は本論文でほとんど触れずに慎んでいる。論述への思いが込められた文章である。 赤澤氏の論文は「牛頭山千住院行元寺と牛込流江戸氏・大胡系牛込氏」と副題が付されている。牛込郷は十四、五世紀には江戸氏、その後は小田原北条氏に属した大胡氏が牛込氏を名乗って領有した。鎮守に赤城明神と行元寺があり、文安元年赤城社に奉納された大般若経が、牛込流江戸氏とその被官らを参加させ、行元寺を介して行われたものであること、そして江戸を引き継いだ大胡系牛込氏が破却されていた行元寺を再建したことを明らかにして、鎮守の両寺社と二領主が果たした、地域支配と地域秩序の維持の役割とを論じている。 斉藤氏の論文は、江戸市民の行楽参詣地として名高い小梅村の三囲稲荷社の運営・経営と、三井越後屋の信仰と経済的関係について論じたものである。三囲稲荷は神主不在の村社で、別当寺が浅草寺末の延命寺であるが、享保期には京都吉田家より正一位を、三井家の援助により獲得している。また開帳や主夜神勧請などについても三井家の奉納・寄進や、時には人員の派遣協力も行っている。やがては別当寺の住職の進退にも関わるようになる。近世の寺院経営が、財政面で特定の商家に依存する度合が大きくなった実態が明らかにされている。 吉田氏の論文は「江戸八百八講」と呼ばれるほど流行した富士講をとりあげ、具体例に上下板橋宿の永田講と山万講を対象とする。享保以後の富士信仰は身禄派を中心とし、江戸の西北地域を拠点とする傾向があること、板橋宿周辺の富士講の受容が、江戸都市部の爆発的展開と同時期で、連動性が想定しうると指摘されている。 中野氏の論文は、近世都市に多くみられた捨子問題について、特に江戸の大名屋敷に捨てられた捨子の対処、武家屋敷のこの問題に果した社会的機能について分析された。具体的には毛利家屋敷の事例から、大名屋敷に置かれた捨子の貰い受けを望む町人に、養育料の名目で銀札・米などを添え、養子として門札を下付して遣わされた。門札は捨子(養子)に対するものであったが、養育を申し出た町人には屋敷出入りが認められるという形で、新しい社会関係が形成されたとされている。 亀川氏の論文は、江戸社会を彩る祭礼の度に出版される番付の、出版人・読売り人である森屋治兵衛に焦点をあて、今日も数多く残る一枚刷、絵本型横帳の出版・配布・廃棄・伝存について考証されている。森屋と他の地本問屋の消長、番付の出版に至る手続き、値段と販売・贈答などについても、非常に詳細な検討をされ、一種の祭礼資料学となっている。 保垣氏の論文は、古くから寺社領の一部なのか、年貢を公納することを免除された境内地なのかといった議論がなされてきた寺社の「除地」について、上練馬村の場合を例として、幕府の除地認織に検討を加えたものである。初期検地帳への記載の異同から、幕府の諸役賦課体制の変化により除地のもつ意味も変容していくことを明らかにした。かかる検証は、他の都市地域についても事例が紹介される必要がある。近世における所領、貢租と土地という基本的問題の議論の火種となることを期待したい。 小泉氏の論文は、小名木川の中川番所の川船改めの主務が、江戸向け物資の流通の把握のためか、軍事的警察的性格をもった関所機能を重視したものかを検討され、その上で幕末の国産改所への移行方針を問題とされた。番所機能は幕末においても形骸化しなかったが、政治状況の変動が、中川番所の機能の変容を余儀なくしつつ終焉を迎えること、そして国産会所は、本来長期的展望をもって実質的機能をもちうるものなのに、慶応期の余りに急激な政治動向は、それを許さなかった。「京都で成立した慶喜政権は政治と経済の時間軸、江戸と京都の地域軸の溝を最後まで埋めることができなかった」とは、小泉氏の含蓄のこもった示唆である。 伊藤氏の論文は、近代の鉄道発達史において、敷設計画が立てられた段階での地域状況の検討が必要であるとされて、旧豊島郡域を取りあげる。明治中期の鉄道ブームの中で、いずれも電気鉄道・馬車鉄道の名称で出願された九件の敷設について検討を加え、とくに王子地域の工業地化と人口増、旧来の観光地の性格が見込まれていたこと、しかし日本鉄道豊島線敷設後は、小石川周辺の地価が騰貴し、土地買収などに影響を与えたとされている。 奥原氏の論文は、武蔵野鉄道と旧西武鉄道(太平洋戦後直ちに合併)の、大正末から昭和前期にいたる沿線開発の競合関係を検討されたもの。主として両社の沿線案内図を資料として、両線が東京・埼玉の西部を並行し、多くの主要行楽地が重複し、経営上の対立から、やがて一方への吸収合併を招く原因となったと結論された。 最初に触れたように、本書は江戸東京の市域を囲む城付き地・地廻り、さらには近郊・首都圏など範囲の定かでない言葉に、いちいちとらわれず、「東京」を広く掴んでその成立ちや構造、役割などを解明しようと試みた論文集である。一〇人の執筆者がそれぞれの専攻を持ちながら、ほほ同じ問題関心をもって論文を寄せられている。そのもとになったのは、平成二年に始まった板橋区史編纂のための調査研究報告会である。大勢の多様な研究を、地道に重ねてこられた成果であるが、編纂の主旨は他の諸都市と近郊の場合にもあてはまり、その意味でも各地で同様な問題視角での研究が進められることを、大いに期待したい。 (きたはら・すすむ 立正大学名誉教授) |
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