松下正和・河野未央編『水損史料を救う』

評者:大石三紗子
「記録と史料」20(2010.3)

 2004年10月に日本を通過した台風23号は全国各地に被害をもたらしたが、関西地方は特に大きな被害を受けている(2)。1、2章の内容は、歴史資料ネットワークが兵庫県と京都府の被災地城で行った水損史料救出活動の報告である。歴史資料ネットワークの活動は、実際に両府県の被災地域に赴いて史料の被災状況を調査し、被災程度によって史料保全の対処を行うものであった。被害甚大な史料については救出活動を行い、大学機関などで修復作業を行っている。その修復作業とは、陰干しやペーパータオルによる吸水などの乾燥処置である。また、汚損状況が甚大なものや技術的な問題で即座に修復できなかった史料は、凍結保存の処置を施している。
 救出活動では、地元住民・行政・大学の三者連携が重視された。被災地域での史料救出活動は、常に地元住民の心情を念頭に置いて行う必要があり、歴史資料ネットワークは、被災地域に村して相当な配慮を払っている。被災地の巡回調査では、マスコミや行政などの関係団体に協力を要請し、地元との連携をはかった上で、被害状況の確認、史料保全の呼び掛け、そして救出と段階的に村応している。また、史料修復後に開催した地元への返却式では、救出史料の説明会を同時に行い、歴史資料に対する理解を広めることにも努めている。水損史料の救出活動は、史料の所有者である地元住民の理解を第一に、被災史料への対処方法を提供する大学、そしてその仲介にあたる行政の三者が連携することによって初めて成り立ち得たのだ。
 一方で、活動の課題は救助された史料の修復作業にあった。それは作業方法と作業にあたる人員の問題である。水分を吸収した史料はカビが発生しやすく、迅速な対応を取らなければならない。しかし、歴史資料ネットワークが採用したペーパータオルでの吸水方法は時間がかかり、カビの発生に完全に対処することはできなかった。また、多くの作業員が必要であり、現場の統制が取りにくくなってしまったことも課題として挙げられている。

 修復活動における人員問題の対策として、歴史資料ネットワークはボランティアを統制するリーダーを育てるために、水損史料修復の講習会を開催した。さらに、この講習会を発展させて、学生や社会人を対象とした水損史料修復ワークショップを行い、水損史料に対する応急措置方法を普及することによって、水損史料の即廃棄を防ぐ活動を行っている。3章は、このワークショップの実施状況を報告したものだ。この章では、ワークショップに参加した学生の感想も掲載されているが、応急措置が誰にでもできる簡単な作業として理解され、被災史料に対する積極的な意見が述べられていることは興味深い。
 さて、これらの歴史資料ネットワークの活動は、全てが歴史研究者などのボランティアによって行われている。このボランティアという活動体制に、自らの経験を通して疑問を投じているのが4章の加藤宏文氏の論稿である。加藤氏は、2004年台風23号の水損史料救出活動に、歴史資料ネットワークの運営委員という立場で参加した。この章は、活動に携わった者の視点から、水損史料救出活動の体制を検討したものである。
 筆者は当時、大学院博士後期課程単位取得退学後、自治体史編纂事務局等の非常勤職員を務めており、自身のキャリア形成も想定して歴史資料ネットワークの活動に参加していた。しかし、結果として活動の経験に直結する歴史資料関係の仕事には就職できず、歴史資料ネットワークの活動はキャリアとして認められなかったと記している。
 この経験から、「ボランティア再考」として改めてボランティア本来の意義を考察し、ボランティアを自己満足ではなく、存在によって社会的な担い手不足という矛盾を訴えていく手段であることを言及している。筆者は、ボランティア活動に対して誤った期待をしていたことを自戒し、現在歴史資料ネットワークの活動に参加している若手世代に対して注意を促している。また、ボランティアの限界から、歴史資料ネットワークの活動を起業として捉えられないか、その方向性を検討することを提案している。

 第U部は、2005年6月18日に開催されたシンポジウム「風水害から歴史資料を守る」の内容を活字化したものである。このシンポジウムでは、歴史資料ネットワークの活動の他、福井史料ネットワークによる2004年福井豪雨の際の水損史料救出活動が報告されているが、ほとんどは第T部の内容と重複しているため、詳細を述べることは省略する。第T部との違いは、活動報告に対するコメントとして、地元の歴史研究会や教育委員会の立場からの発言が記されていることだ。それによると、救出活動のノウハウがなく、生活復興に追われる地元においては、歴史資料ネットワークのような活動が大いに求められていることがわかる。なお、最後の討論においては、被災史料救出のための日常的な対策や修復作業の技術的な課題などが議論されている。
 最後に、本書のまとめといえる「水損史料保全活動をめぐる現状と課題」では、日常の防災対策と活動におけるネットワークの重要性が指摘され、人員不足や資金難の課題が挙げられている。

 本書が扱っている水損史料の救出活動は全国的にも先例のない活動であり、本書が今後の水害対策を考える指南書として果たす役割は大きいといえる。巻末に参考資料として掲載された作業マニュアルや活動の協力を依頼する際に使われたFAXなども、災害に直面した際に大いに役立つだろう。しかし、本書は決して単なるハウツー本に終わるものではなく、各章において繰り返し述べられている課題の背景には、水損史料の救出活動だけでなく、歴史研究界にかかわる大きな問題が潜んでいる。
 本書には水損史料を救出する際のさまざまな注意事項が挙げられているが、中でも一番重要なことは、水損史料は劣化が早く、迅速に対応しなければ史料を損失する可能性が高くなることである。そのため、水害に備えての事前調査や計画、地元住民や関係機関との連携が大きな鍵となってくる。本書で紹介されている歴史資料ネットワークの活動は、地元住民や関係機関との連携がうまくいった好例といえるだろう。ただし、一つ見方を変えれば、その連携はかなり危うい状況で成り立っていたともいえる。
 本書のT部4章でも述べられているように、歴史資料ネットワークは、若手歴史研究者のボランティアによって支えられている団体であり、その若手歴史研究者とは、大学院生やオーバードクター、博物館等の非常勤職員など経済的に不安定な者がほとんどである。ボランティア活動にどのように携わるかは最終的には個人の問題であるが、彼らにボランティア活動を主とする生活を求めることは酷であろう。本書で紹介されている救出活動は、たまたま活動に従事できる人材がいたという、ある意味での善意と偶然性によって成り立ち得ていた感は否めない。
 さらに述べれば、U部のシンポジウムからは、地元の歴史研究会や教育委員会では水損史料に対処できず、歴史資料ネットワークが存在しなければ救出活動が実現しなかった可能性も浮き彫りになっている。地域史研究の衰退や行政における文化財担当者の人員削減が騒がれている中、この傾向は今後ますます顕著になるだろう。連携という言葉で表せばいいように聞こえるが、事実上は、本来担うべき組織の脆弱化によるボランティアへの転嫁といっても過言ではない。

 それでは、水損史料の救出活動は、本業として行うことができる活動なのだろうか。それは、現状の社会認識ではかなり難しいといえる。水害自体が突発的な事象であり、常時人員を必要としない活動である限り、本業とすることは現実的ではない。本書で述べられているように、日常的な所在調査の重要性などが認識されれば、常時一定の人員を必要とする活動として社会的需要はあるかもしれないが、そのような社会が実現するには、まだ時間がかかるだろう。現状では、歴史資料ネットワークの水損史料修復ワークショップの活動のように、いざとなった時に水損史料に対処できる人材を一人でも多く育てることが、水損史料救出の近道といえる。
 歴史資料ネットワークは水損史料救出活動を通して確かに歴史資料の損失を防ぎ、その活動は称賛されるべきものである。しかし、今まで述べてきたように、ボランティア団体としての現界もあり、その点で修復作業の技術的な妥協も多くあったようだ。この事実を考慮したとき、本書は歴史資料ネットワークの活動参加者による見解を主として構成されているが、できれば修復技術の指導者による技術的な見解も構成に含まれていればよかった。多方面からの見解は、今後検討を重ねていく上での参考材料になるためである。この点を、本書に村する唯一の注文としたい。
 災害はいつどこで発生するかわからない。本書は、水損史料が発生するという現実、そしてその現実に社会がどのように対応できるのかを考えさせる一冊である。

 1)歴史資料ネットワーク発行『史料ネット News Letter』第1〜60号、1995年3月〜2009年11月、歴史資料ネットワークホームページ(http://www.1it.kobe-u.ac.jp/~macchan/、2010年1月4日現在)を参照。
 2)国土交通省ホームページ、過去の災害情報(http: //www.mlit.go.jp/saigai/mokuji.html、2010年1月4日現在)
〔埼玉県立文書館〕



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