松下正和・河野未央編『水損史料を救う』

評者:大橋幸泰
「LINK 地域・大学・文化」2(2010.8) 神戸大学地域連携センター

 最初に個人的な経験を述べることをお許しいただきたい。二〇〇四年七月、私の自宅は被災した。床上浸水による水害である。新潟県中越地方を襲った集中豪雨により信濃川の支流五十嵐川の堤防が決壊し、三条市の嵐南(五十嵐川の南の意)地域が水浸しになったのである。もっとも、私は当時も今も生活の基盤を東京に置いているので、家が水に浸かったときに私自身が現場にいて直接恐い思いをしたわけではない。被災した自宅というのは私が高校生まで生活していた家で、被災当時、私の両親と祖母が暮らしていた。新潟県中越地方に集中豪雨が発生して、特に中之島町・三条市に被害が出ていることを伝える報道を見た私は、早速三条の自宅に連絡を取ろうとしたが、しばらく電話が通じなかった。家族はどこかに避難しているのではないかと思ったが、果たして翌日、被害のほとんどなかった嵐北の小学校に避難している旨、両親のほうから連絡が入った。後日聞いたところによると、堤防の決壊から水が押し寄せてくるまでの時間はたいへん短かったらしく、両親は近所の人と連れ立って文字通り着の身着のまま避難したとのことであった。当時、九十一歳であった祖母はほとんど寝たきりの状態であったが、たまたま被災したその日は福祉施設のデイサービスの日で在宅していなかった。もし祖母が在宅中であったら、両親は逃げ遅れた可能性が高い。不幸中の幸いというべきだろう。
 水が引いた後、自宅の片付けを手伝うため私も三条に入った。生活排水を含む川の水に浸かった品物は悪臭を放つため、多くの場合ごみになる。事実、町中そのような大量の廃棄物であふれた。被災当事者にとって最優先されるのは、当然のことながら生活の復興である。したがって水害時、水に浸かって悪臭を放つ品物が廃棄物となるかどうかは、ここが分水嶺となる。
 自宅はごく普通の民家に過ぎないが、被災品を片付けているなかで大正期や昭和初期のものが出てきた。なかでも私が目を見張ったのは、私の生まれるずっと前に亡くなった祖父ゆかりのものであった。祖父が集めていたらしい古銭と、びっしり細かい字で書かれてあった手帳が出てきたのである。もちろんたっぷり泥水に浸かっていたので、ごみとして処理するという選択肢はあった。しかし私は、この古銭と手帳は祖父が確かにここで生活していた証しだと思った。この品物そのものに史料的価値はほとんどないだろうが、それでもその時代を思わせるものではあったし、なによりも今は亡き顔も知らない祖父が手にしていたものだと思ったら、疎略に扱っては申し訳ないという気持ちになった。当時、キッチンペーパーを使って水損史料の水分をとる方法を知らなかったが、できるだけ早く乾燥させるべきだと思い、風通しのよいところに広げて乾かした。乾燥したら手帳は膨張して形態が変わってしまったが、祖父の痕跡を失わずに済んだ。

 私のささいな経験から改めて思うのは、史料とは何となく自然に後世に伝わるものではない、ということである。それを残そうとする意志、大事にしようという気持ちがないと、いつでも簡単に廃棄されてしまう状態にさらされているのが史料というものである。このことは、一九九五年の阪神・淡路大震災を契機に結成された、歴史資料ネットワーク(史料ネット)の一連の活動のなかで明らかにされたことであるが、二〇〇四年の新潟・福井の集中豪雨や台風二三号による風水害で被災した史料のレスキュー活動により、いっそうそのような認識を深めていくことが重要であることが示された。二〇〇九年五月に岩田書院から刊行された松下正和・河野未央編『水損史料を救う−風水害からの歴史資料保全』の意義は、この二〇〇四年の史料レスキュー活動の記録に留まらず、そうした活動を通じて工夫されていった水損史料の応急処置の方法と、史料保存とはだれもが担い手になることができるし、なるべきであることを、多くの人に伝えようとすることにある。
 紙幅の関係もあるので詳細な目次の紹介は省略するが、本書は二〇〇四年の風水害で被災した史料の救出活動の記録である第T部(執筆者=河野未央・松下正和・木村修二・加藤宏文)と、そうした経験をもとに史料を風水害から守るためには今後どのような課題があるのかを議論したシンポジウムの記録である第U部(報告=多仁照廣・木村修二・河野未央、コメント=前田喜一・小寺誠・加藤晃・吉岡博之)、およびレスキュー活動の際に配布したビラや応急処置のためのマニュアルからなる参考資料によって構成されている。本書から学ぶものはたくさんあるが、本書を読んで私が考えたことを以下に三点に絞って述べてみたい。

 第一は、今さらながらの感もないわけではないが、歴史学は市民とともになければならないということである。歴史学は過去の人びとの営みを知ろうとする学問であるから、その痕跡である史料なくして成り立たない。その際、何を史料と認識するかは歴史学関係者と市民との間に大きなズレがあることは、史料ネットの活動のなかでしばしば指摘されてきた。国宝・重要文化財、自治体指定の文化財などの指定文化財だけが史料なのではなく、過去の人びとの営為を復元できるものであれば何でも史料になりうる。そうした認識が歴史学関係者と市民との間に共有されてこそ、はじめて災害から史料を守ることができる。これまで史料ネットが市民講座を積極的に企画してきたのは、史料に対する認識の共有という点で歴史学と市民との距離を縮める必要があると考えたからであり、史料ネットの活動に限らず今後も常に市民との接点が模索されるべきだろう。
 もとより歴史研究者のための史料保存運動であってはならず、身近な史料を活用した研究成果が市民の歴史認識の構築におおいに貢献するような歴史研究でなければならない。その点で、地元の研究会や、そこで活動している郷土史家・歴史愛好家と歴史学関係者との連携はますます重要性を帯びてくるだろう。本書でも指摘されているが、市民向けの歴史関係の展覧会・講演会や古文書を読む会などに多くの人が集まる一方で、それが必ずしも地域史研究の深化に結びついたり、歴史学関係者と市民の史料に対する認識の共有が進んでいるとはいえない状況にある。歴史学関係者と市民との間には歴史認識のズレがあるとの指摘は、近年様ざまなところから聞こえてくることであるが、この間のギャップを埋めるにはどうしたらよいか、歴史学関係者は常に意識するべきだろう。

 本書を読んで考えた第二の点は、右のことに関わって歴史の教員養成の課題についてである。現在、私は私学の教育学部に勤務しているが、歴史学関係者と市民の間をつなぐ有効な一つの回路として、学校における歴史教育も重要だと考えている。そうした認識から、教員養成のための教職科目の授業のなかに史料保存運動の意義を組み込んだり、教員免許更新講習のテーマとして取り上げたりしている。昨年三月、史料ネットの奥村弘代表とともに本書編者のお二人を私の勤務校にお招きし、水損史料修復ワークショップを開催して、教員免許更新講習のオンデマンド講座を制作した。これは、歴史教員の社会的役割の一つとして史料保存運動の一端を担うことが期待されていると思うからこそなのであるが、高校地理歴史科や中学校社会科の教員免許を取得しようという学生、あるいはその免許をもって教壇に立っている教員は、歴史学を専門的に学んできた者ばかりではない。実際、私が担当している教職科目には、地理歴史科の教員免許取得を認められている学部ならどの学部からも授業を受けに来る。
 現在の日本史の学習指導要領は、史料を使って授業を組み立てることを促すものになっているが、現在の教員養成プログラムでは、史料とは何かとか、史料の扱い方など史料をめぐる問題について必ずしも学ばなくても歴史の教員になることができる。史料を重視する学習指導要領のあり方と、専門性を軽視している今の仕組みは明らかに矛盾している。史学科や歴史専修などの歴史学を専門とするコースでない学生が、史料についての基礎知識がないなかで史料保存の重要性についてどれだけ理解できるかははなはだ心許ない。私の経験でも、たとえば慶安の触書に関する近年の緻密な実証研究を紹介しても、なぜそのような細かいところに気をつかうのか、というような感想をもらした学生がいた。あるいは、歴史教育の現場では史料を使うことは必ずしも必要ないのではないか、との意見が出たこともある。こうした認識では、歴史の教員が史料保存運動の一端を担うなど思いもよらないことであろう。史料保存運動の一端を担うことが、歴史の教員の社会的責務として認識されるようになるにはどうしたらよいのかが、歴史の教員養成に関わっている現在の私の課題である。

 最後に、史料保存活動は今後どうあるべきか、というのが第三の問題である。史料ネットをはじめ、こうした史料保存活動はおもにボランティアによって担われてきたが、本書所収の加藤宏文「史料ネットにおける「ボランティア」再考」はこのあり方に再考を迫る重要な論考である。
 特定の家に伝わる私文書であっても、そうした史料から過去の人びとの営為を復元して私たちの未来を展望するという歴史学の使命からすれば、史料と史料保存はそれ自体公共性を帯びている。それが文書館学やアーカイブズ学の精神であり、本来、公共性を帯びている史料保存運動が無償のボランティアによって担われるというのでよいかどうか。
 このような史料保存の問題に限らず、ボランティアで賄われていることの多くは本来公共事業として行われなければならないものを、市民の奉仕活動という美名を纏って肩代わりさせられているというのが実際のところである。国・自治体による税金の無駄遣いが問題視され、政治の世界では「事業仕分け」なるパフォーマンスも行われているが、史料保存こそ公的資金が投入されるべき文化事業であり、これによって「食える」歴史研究者の登場が求められるべきである。加藤氏の論考を読んで、史料ネットの活動が究極的に追求しているのはこのことなのだということに気づかされた。それを実現可能にするのもやはり市民の支持があってこそだろう。だとすれば、歴史学と市民の間の距離を少しでも接近させなければならないが、歴史学関係者はこれまでどれほどこのことに努力を注いできたか。
 本書は、歴史学関係者が自己の狭い研究活動に埋没することなく、積極的に歴史研究の社会還元のための活動や科学運動に取り組むことが求められている、ということを改めて喚起する本である。本書が多くの人に読まれ、歴史学関係者と市民との、史料をめぐる認識の共有化が進むことを心から期待する。


詳細 注文へ 戻る