石塚尊俊著『出雲国神社史の研究』
評者・川上迪彦 掲載誌・日本民俗学224(2000.11)


 民俗学の権威であり、学恩ある著者の大著に、浅学の評者如きがコメントなどおこがましいことであり、評すれば的はずれのそれになろう。せいぜい感想ぐらいにしかならないことを、あらかじめお断わりしておく。

 本書は、書名通りの著者の生国である出雲国における古代から近世に至る神社の変遷の歴史と、その神社に伝わる特殊神事についての研究書である。序文によれば、著者の神社史研究の論文・報告・解説を総集したものとある。本書のような内容を含む類書を評者は寡聞にして知らないので、興味深く読んだ。通読して、本書は民俗学の書であると同時にいやそれ以上に史書であり、古代史学・文献史学・国語学・宗教学、就中、神道学の側からこそ活発なる評が寄せられるべき書だと思った。
 本書は『記』『紀』『出雲風土記』を読み込み、神道に精しく、神社祭祀に通曉し、古文書が読め、その上出雲国の地形が隅々まで分っていないと書けなかった書で、著者にして初めて成った書である。書名から受ける硬さとは異なり、文体は伸びやかで説明は分かりやすく、論証は堅実で付け入る隙がない。読みながら何度か推理小説でも読むような肌の粟立つ快感を味わった。写真・図表も適切で文を助けている。
 まずは目次によって本書の構成を紹介する。
(目次省略)
 I〜V編は出雲国における聖域と神社の変遷史であり、W編では古社で執り行なわれる神事を解明する。以下、編ごとに見ていく。

 T編は、七三三年(天平五)成立の『出雲風土記』を基に、同時代成立の『記』『紀』を援用しながら、出雲国成立以前の出雲(プレ出雲)の状況を想い、そこから古代出雲国の姿を推定し、そこでの聖域はどこか、神々はどういう場所に祀られたのか、神社のあり方を推理説明した編である。
 その方法は、従来の風土記研究では見落とされていた文中の片言隻語に注意を払って、厳密に読み直し、また地名伝承などを分析して「(風土記)そのものにより、これをいわば篩にかけることによって、その中からより古いものを捜そうとする」(本書二五頁)方法である。その上に先行する郷土人による関係論考をも吟味・考察した上で古代の出雲を復元する。その推論過程は快刀乱麻を断つあざやかさで小気味よい。
 新鮮に感じた推論の二・三を挙げれば、一つは朝山郷六山の考察部分である。著者は六山の内、陰(カゲ)山の読みを『紀』などの表記を典拠に、カゲならば蔭と表記する。陰はカゲとし読むが普通はホトと読まれている。陰山をホト山と読むならば、隣山の杵山、稲山と合わせ、東南アジアに残る母稲・父稲・子稲から成る素朴な穀霊信仰の影がここに残存しているのでは、と説かれる。著書の「納戸神をめぐる問題」以来の研究テーマにつながる鋭く説得力ある推論である。現在では著者もいわれるようにまだ幻想の段階だが、周辺の地名の研究が進めば実証される日も遠くはないと思わる。
 その二は神名火山のことで。神名火のビには「火」「備」の二様に表記され、両者とも同音で読むが意味するところは違うと著者は思っておられること。神名火山は山峯を結べば四角型になるよう配置されたらしいこと。その意味は『礼記』の祭法にありはしないかと推定されていること。などを興味深く読んだ。風土記の残らない国々で、勝手に神名火山を称する所があるやに聞くが、前述の推論は、各国の神名火山を推定する手がかりになろう。
 その三は、後世には婚姻習俗の一つとして「夜這い」が語られるが、『記』『紀』などに書かれた神々のそれは領土征服、勢力拡大の意、との折口説によって『風土記』を読み通し、古代出雲の推定に至る過程も新鮮な論であった。
 聖域の一つである「美保の御崎」は、場所といい、祭神といい漁の神社だが、この社がなぜ農民にも厚く信仰される神社になったのか。恵比寿神の神威の多儀性からだろうか、それだけとは思えない。聞きたい点である。
 またプレ出雲・古代出雲の状況がここまで推定されると、世俗的な興味もあってお聞きしたいことがある。それは、先年出雲国から出土した圧倒的な量の銅剣と銅鐸のことである。これらは祭紀に係わって埋納されたとの説が強いが、著者の見解はどうだろうか。出土品の時代と古代出雲の時代では時代が離れすぎており、またあまりにも世俗的で推論を避けられたであろうが、お聞きしたい点である。

 U編は、主に九二七年(延長五)成立の『延喜式神名帳記載神社』いわゆる式内社の内、出雲国の式内社についての論考である。
 出雲国の式内社は一八七社という多さである。それだけに藩政期以来いろいろな意味で問題になった神社も多い。この問題社を中心に論究された編である。この編でも、近世以来の出雲国式内社についての諸説に対する著者の鋭い切り込みと、胸のすくような論旨が展開されている。
 まず取り上げられているのは、延喜式が記述する「同社坐」と「同社」の違いについてである。近世以来の研究者はこの表記の違いについて意識せず、同義とみなしてこれを「相殿(合殿)の意」と解釈していた。著者は「明らかに遣い分けがなされているからには、そこにやはりそれなりの違いがあったとしなければならない」と説き、この違いを「同社」は同名の独立した神社、「同社坐」は同一神社に祀る社、の意であると論断された。ここにも著者の一字一句をゆるがせにしない厳しい姿勢が読みとれる論考である。
 次に所在不明の神社の比定に係わる考察が興味をひく。『風土記』の神社書上げ順は社格順だが、『延喜式』の神社書上げ順は地形上の道順と合致するとの推定に基づいて、地名を精査し神社を比定する論考で、地名の大切さを知らされる興味津々の論考である。式内社の神社記載順は道順であるならば、これによって各地の未比定の式内社の探索に、大きな手掛かりを与えられたことになる。
 出雲神社の問題も興味深い問題だった。それに関連して「風土記と式記載の社名との間に合致し難いものがでてきた場合、よほど用心してかからねばならない」(本書一四○頁)ので、風土記でいう斐提(ヒデ)社を式内社の斐代(ヒシロ)社に比定するは無理、と論じ、別の神社か、さもなくば誤写か、と推理されている。音韻変化に疎い評者だが、あえて弁ずれば、仮りに斐代をヒダイと読んだ時期があったとすれば、『風土記』でいう斐提(ヒデ)社が、ヒデ→ヒディ→ヒダイと音韻が変化し、ヒダイの音によって斐代の字を当て、その後になって今度は文字からヒシロと読まれるようになった、と推理するのは無理だろうか。
 本編を読みながら評者の脳裏を去来していたことは、出雲国には一八七社という式内社があるのに対し、隣国伯耆にも古社が多くあったろうにわずかに六社とは、式内社はどういう規準で、だれが、どのように選考したのだろうか、ということだった。

 V編は、一七一七年(享保二)松江藩の儒者黒沢石斉のまとめた『雲陽誌』を基に、中・近世出雲国に勧請された神社についての論考である。著者は先年「明治以前における村氏神の地域差― 近世地誌による中国十二か国の比較―」(『中国地方における民俗の地域性』所収・山陰民俗学会・平成十一年刊)という論文を発表された。その論文は、近世中国十二国内の村氏神の系譜を、地域差に主眼を置いて精述された優れた論文だった。この論文の延長線上にこの編はあり、ここでは出雲国に限っての勧請神について詳述されている。今まで一国内の勧請神社の消長など、ほとんど研究されなかった未開拓の分野と思われるので、この編は注目される。
 まず出雲国内の村氏神以上の神社の中で、外から勧請された神社の数の多い順に、八幡宮・賀茂明神・熊野権現・蔵王権現・日吉山王権現・祇園牛頭天王・貴船明神・松尾明神・三輪明神・石上明神・春日明神・住吉明神・多賀明神・伊勢大神宮・諏訪明神・鹿島・香取明神・白山権現・羽黒権現・厳島明神・吉備津明神・八上明神・日御崎明神・潜戸明神・金屋子神社・妙見社、計二五社を取り上げ、それぞれの勧請神の本社の歴史的概略を記し、次に勧請社に残る文献・棟札・伝承を博捜して勧請時期とその次第を述べ、勧請社の祭神名・祭日・社殿の規模・信仰の消長、と続く。
 次に、在来神社に勧請された神がどのように地元に定着していったのかを、塩冶神社(八幡宮)、宇美神社(熊野権現)、由来八幡宮を例に説いて、この編は終わっている。
 本編によって勧請社であっても純粋なる信仰心による勧請ばかりでなく、権力者の政治的思惑によるそれであったり、本社側も教線伸長、経済的増収の機と捉え、積極的に働きかけている実態を知らされるし、場合によっては地元有力者によって祭神さえも変更され、社史さえゆがめたりすると知り驚く。
 著名な勧請神社の消長の表もあって、分かりやすい。
 時代が下るにつれ、勧請社建立から御師配札へと形をかえ、それはまた神徳強い有名な神から、より具体的なお蔭を施す小さな神へと信仰の主体が移る様子が伺えておもしろい。
 神を勧請する因は何か、勧請神を迎え入れた村人の心情はどうだったか、勧請社の消長の波は何によるのか、本書により大凡は分かるが、より詳しくは風俗史・近世史に係わる部分でもあり、今後の研究に委ねられた部分であろう。
 本編は、勧請社を村氏神社までとして論が進められているので無理な願望だが、実は村氏神社以下の小祠・叢祠にこそ庶民の願いが表出されていると思うので、今後はそこに視点を置いて追求して行かねばなるまい。その手懸りの一つとして、旧家の屋根裏などに残る近世期・御師によって配られた守札の調査なども価値あるものであろう。
 在来神社に勧請神を迎え入れた場合、勧請を推進した在地有力者は満足であろうが、在来神を信仰して来た多くの住民はどうだったろうか、初めは軒を借して、終には母屋を盗られる状態だったろうから、動揺も大きかったろうことは想像に難しくない。その辺の分かる伝承や文書が残ってはいないものだろうか。
 また、出雲には伊勢参宮の記録が一例しか残っていないことも、著者もいわれる通り不思議なことで、これも今後の研究に託された分野である。
 『雲陽誌』という一冊の地誌からここまで勧請社の歴史が分かるのは驚きだか、しかし一冊は一冊で一面を写したのみだから、今一冊、年代と眼を変えた地誌があれば別の一面が見え、より立体的に各勧請社の盛衰が写し出されただろう、と想像しながら本編を読み終えた。

 W編は、出雲国における特別の古社と、その古社が伝えている神事、一つ一つの意味などについて解明した編である。
 まず、現在行なわれている神事の実態を説明した上で、文献によって少しずつその神事の古型を遡り、原初の神事にたどりつき、その神事の意味するところを丁寧に説いてある。原初の神事が姿を変えてはいるものの、現代まで受け継がれており、それが祖型にまで遡れるということにまず驚かされる。
 祖型復元によって我々は、例えば美保神社の青柴垣神事が擬死と再生を現す神事であり、諸手船神事が古い魂を送り新魂を迎える魂の送迎神事であったことを知る。
 熊野大社での鑚火祭には、かつては悪口を言い合う悪態祭もあったか、と推定されているのも興味深かった。
 出雲国造の火継式の様子も、神秘の扉を開けて見せてもらった感がした。書中の近世文書の一節に、世継ぎの火がなかなか点火しないので、慌てて種々に策をろうする様が刻明に書かれていて、この人達も人間だったと何やらホッとし、微笑ましくさえ感じた。
 出雲へ全国の神々が集わられるという伝承は、中世の出雲や熊野系の神人による教宣の結果で、それが十一月であるのは、大宝令以前の新嘗祭の月に合わせたからでは、と推測されている。
 全国の神々を迎えて神有祭を行う六神社が、いずれも神名火山麓や海辺に鎮座するのは、神々の去来が山頂や海彼であったりするからでは、と考察される。ここに神の去来の水平方向と垂直方向の考え方が混在しているが、この混在は許容されるものだろうか。

 終わりに、これは多くの論文集成本に共通していえることだが、各論文の初出時期が異なる為、前後の論文間に重複がある。評者のような忘れ易い者にとっては、この重複は記憶を戻し復習してから新説に向かえるので有難かったが、頭脳明せきな読者には、いささか煩わしく思う者もあるかもしれない。
 通読して思うことは、出雲国は幸いにも風土記のほぼ完本が残っていたから、古代・中世・近世と年代を追って精しい神社の変遷がたどれ、本書が成ったのだが、風土記の残らなかった国であっても、時代による政情も庶民の心情も出雲国と大差はなかっただろうから、本書によって、それぞれの国の古代・中・近世の神社の姿をうかがい知ることができよう。とすれば、本書は『出雲国神社史の研究』とはいい条、それは日本の国の神社史の研究でもあろう、ということである。
 著者は傘寿を過ぎられた。掲載稿解説によると、本書の主題の一つで全頁の四分一を占める「V 勧請神社の研究」は新稿とある。失礼ながらこの年齢でこの論考である。本書は学術書として優れた書であるばかりでなく、怠惰なる若き学徒に奮起を促す書としても読んだ。
それにしても一三○○年前に書かれた『風土記』を片手に外に出れば、そこに記述された通りの風景が、今に眼前に拡がっているとは、最近物議をかもした人のことばではないが、まこと「出雲はわけても神々の国であ」(小泉八雲)ることを実感させられた大著であった。
(〒683-0802 鳥取県米子市東福原4-5-8)
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