本書は、本会の会員である植野加代子氏が、これまでの研究成果をまとめた論文集である。妙見菩薩は「妙見さん」と呼称され、大勢の人々から親しまれているが、本書では、北極星や北斗七星を神格化したといわれる「妙見信仰」を中心に考察されている。本書の構成は、次のとおりである。
まえがき
第一章 海上・河川交通と信仰
第一節 夜に船を出すこと
はじめに
一 『土佐日記』における夜の船出
二 『万葉集』の夜の船出と航路について
おわりに
第二節 津田川を考える−行基の開発と近木川との関わりの中で−
はじめに
一 津田川左岸
二 津田川右岸
三 近木川沿いの伝承
四 永寿池と水利権
おわりに
第三節 葛城修験の一考察−序品の地をめぐって−
はじめに
一 日本人が知らなかった夜の世界
二 加太荘の重要性
三 友ケ島
四 犬鳴山七宝瀧寺
おわりに
第四節 海上交通と犬鳴山燈明ケ嶽−尊星王妙見大菩薩との関わりの中で−
はじめに
一 縁起類に見られる犬嶋山
二 廻船問屋が信仰する犬鳴山の不動
二 漁民と廻船問屋と燈明ケ嶽
おわりに
第二章 妙見信仰と秦氏の水上交通
第一節 妙見信仰と秦氏の水上交通
はじめに
一 『日本霊異記』を中心として
二 妙見信仰と秦氏
三 秦氏が妙見菩薩を信仰した理由
おわりに
第二節 木上山海印寺の妙見信仰−木津川の河川交通をめぐって−
はじめに
一 平安初期の海印寺
二 道雄と秦氏のつながり
三 木上山の妙見信仰
四 秦氏と水上交通
五 木津川の航行と秦氏
おわりに
第三節 長岡京への物資輸送と運搬経路−妙見信仰との関わりの中で−
はじめに
一 木上山海印寺
二 長岡京遷都と水運
三 長岡京の荷揚げ地
四 妙見山古墳
おわりに
第三章 能勢妙見と河川流通
第一節 能勢妙見と秦氏−猪名川の水上交通との関わりの中で−
はじめに
一 能勢妙見
二 元妙見
三 能勢の地と秦氏
四 秦氏と源満仲
五 妙見菩薩と摂津国豊島郡秦上・秦下郷
六 猪名川付近の秦氏
おわりに
第二節 秦氏にとっての猪名川の役割−摂津国能勢郡の山林との関わりの中で−
はじめに
一 猪名川とは
二 猪名川と秦氏
三 猪名川での交通の要衝
四 庄本氏と秦氏
おわりに
第三節 アヤハ・クレハ伝承と水上交通−兵庫県西宮市松原町の伝承を中心に−
はじめに
一 武庫の水門とは
二 武庫の水門の範囲
三 謡曲「呉服」の舞台
おわりに
第四章 平安貴族社会と妙見信仰
第一節 妙見菩薩の像容−平安時代後期から室町時代の図像を中心に−
はじめに
一 妙見菩薩像のはじまり
二 妙見菩薩の図像
おわりに
第二節 尊星王法と僧侶たち−十一世紀の三井寺を中心に−
はじめに
一 尊星王とは
二 尊星王法の祈願目的
三 尊星王法を修した僧侶たち
二 尊星王法と五壇法
おわりに
あとがき
第一章では、古代から近世までの舟運を取り上げる。そして、氏族や集団などの航海権を考え、修験や妙見を信仰する人々がどのような理由で妙見を信仰していたかを検討している。
一章第一節では、夜の船出は、古代においては潮流、月明かり、風向き、天候などに大きく影響されたことを論じている。夜に船出することは、『土佐日記』であれば、海賊の難を避けるための特別な行為であったと指摘されている。そして、奈良時代から平安初期には、異国の人の中でも特に秦氏が、水上交通の拠点の場所として利用していた周辺に妙見菩薩を祀っていたのではないかと指摘されている。
第二節では、大阪府貝塚市の津田川と近木川の二つの河川をとりあげる。両河川の伝承や古代の水上交通から、川や津には同族氏族や同集団だけしか利用することができない権利のようなものがあると指摘されている。
第三節では、葛城修験の最初の地である序品の地が、室町時代に加太の「阿布利寺」から友ケ島に移動した背景について検討されている。
第四節では、葛城修験の奥の院ともいわれている、大阪府泉佐野市大木の犬鳴山七宝瀧寺の燈明ケ嶽に焦点をあてる。
第二章では、古代の妙見信仰と秦氏の関わりについて提示し、水上交通を中心とした物資運搬経路を検討されている。そして、畿内を中心に、妙見信仰が分布する地域の特色を紹介されている。
第二章第一節では、妙見菩薩の信仰が「ハタ」という地名と関係する事例があることを指摘している。
第二節では、長岡京造営に深く関係した秦氏と、木上山海印寺寂照院の妙見信仰の関係について検討する。
第三節では、河内国茨田郡幡多郷から長岡京市の妙見菩薩の地である木上山に向かい、長岡の地でどのように物資輸送したかを考える。
第三章では、兵庫県の東に位置する猪名川沿いに秦氏の伝承が点在する理由を通して、秦氏の活動の跡を検討する。
第一節・第二節では、能勢の妙見信仰と猪名川の役割について考察する。猪名川は材木を流す河川であり、かつ秦氏と関わりの深い河川であったと論じている。
第三節では、西宮市と池田市の「アヤハ・クレハ」伝承を比較することで、武庫の水門が西宮市の今津周辺であると指摘している。
最後に第四章では、平安時代から鎌倉時代にかけての妙見に関する図像や修法を中心に、貴族社会での妙見信仰とは如何なるものであったのか検討する。
第四章第一節では、妙見は「妙見菩薩」「北辰妙見菩薩」「妙見尊星王」などと名称も様々であり、その像容や図像も統一性がなく多種多様であることに注目されている。
第二節では、平安時代の貴族社会で「妙見」「尊星王」の修法がどのような僧によって行われていたか、具体的な例をあげて検討されている。
本書は、さまざまな角度から秦氏と妙見信仰について検討されている。秦氏がどのような理由で、妙見菩薩を祀る必要があったのか、大変興味深い一冊である。ぜひ、多くの方に読んで頂きたい一冊である。
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