滝口正哉著『江戸の社会と御免富』

評者:池田治司
「日本歴史」748(2010.9)

 富は落語「御慶」「富久」などで知られ、つとに人口に膾炙しているものの、その体系的な歴史や興行構造の実態は未解明の部分が多かった。
 本書はその中でも江戸の御免富をテーマに、その形成・展開・衰退を系統立てて考察すると同時に、御免富のシステムを幕府側・寺社側・庶民側という三者の角度から客観的な分析を加えて全体像を描き出すことによって、これを江戸趣味の範疇から、歴史学研究における近世都市江戸解明の一つの切り口として昇華させている。
 序章からの各章ごとの概略については、終章で簡潔にまとめられているので、ここではその構成に沿って、部単位で、できるだけ本書の主要な成果についての紹介に紙面を費やすことにしたい。

 序章は前記のような本書執筆の趣旨も含めて、富突・御免富の研究史を概観しているが、各業績に的確な検証を加えている点が参考になる。
 たとえば、従来各地の博物館の展示会で無批判に引用されてきた荒木豊三郎氏の『富札考』(一九六二年)について、網羅的な業績として評価する一方で、御免富か否かの検証がないことや、あるいは発行寺社と興行場所の錯誤が見受けられることに注意を促している。
 また、特にこれまでの先行研究は、その良質さゆえに江戸三富の一つ谷中天王寺(感応寺)の史料に依存する傾向が強く、これをもって直接的に江戸御免富の解明としてしまうことに危倶を唱え、本書では、他史料との包括的な検討を行っている。

 第一部「御免富システムの成立と展開」は御免富の歴史的動向を論じたものである。
 まず、富突の起源を十七世紀中頃に箕面瀧安寺の修正会から派生した富法会に求め、それとほどなく創始された鞍馬寺の「毘沙門天富突」も箱の中の木札を突く同様の手法を用いた宗教行事として行われ、これを原初的形態として、福神を媒介とした富突が、寺社助成策として江戸で定着していったと説明する。
 これが明和〜天明期に入ると商品経済の浸透を背景に、御免富が当初の宗教行事から逸脱し、安定的な寺社助成の実現を目的に、興行場所の定数・年回数・興行年数の規格化や、出張興行を行う寺社はより集客力の高い興行場所を求めて移動し、また場所の選定や興行などに不慣れな寺社は、安定的な収入を確保するために、「富師」「金主」「世話人」などの請負人に興行を委託する構造を明らかにしていく。こうした機能的な変化は、富興行の「境内完結の原則」に象徴される幕府が固持してきた御免富の論理を破綻に導いていくことになる。
 さらに、文化・文政〜天保期には江戸の御免富の最盛期を迎える。寛政の改革による一時的な富興行の中断を経たこの時期には、日光山輪王寺・東叡山寛永寺両山救済の名のもとに、寛永寺を本山とする江戸三富が初めて成立する。そして幕府は、より多くの寺社への助成を趣旨として、興行枠を拡大した。著者は、落語や川柳で見られる御免富の盛況は、このごく限られた時期に見られた文化現象と位置づける。この盛況は、富札屋を通じた富札の市中への大量流出を引き起こし、やがて江戸では富札の飽和状態が生まれ、天保十三年(一八四二)の禁令を待つまでもなく、江戸の御免富のシステムは終焉を迎える。
 この第一部では、町触を中心とした独自の分析手法を取り入れて、江戸の御免富の歴史的推移をこのように体系的に説明した点に著者の新たな成果が窺える。

 第二部「興行場所と請負構造」は第一部の歴史的推移をベースにして、実施側面からみた富興行の構造分析を試みている。特に、ここでは安定的な興行を目的とした興行場所の条件要素の検討と、幕府の助成意図から逸脱していく請負構造の機能化の実態の解明が論点となっている。
 まずここで、@古参二寺院(宝泉寺・感応寺)のみの享保十五年(一七三〇)以前、A門跡寺院(仁和寺・興福寺)の興行受け入れが行われるようになつた享保末期、B門跡寺院の業績不振により古参二寺院のみの興行に戻った元文〜宝暦期、C商品経済の浸透と興行枠の規格化により御免富が定着した明和〜天明期、D寛政改革の影響で一時的な中断ののち、感応寺の興行のみが存続し、その後日光山輪王寺・東叡山寛永寺の「両山御救富」を契機に「江戸三富」の成立を見る寛政〜文政三年(一八二〇)、E御免富の適用範囲の拡大により最盛期を迎え、札余り現象など飽和状態の中で天保改革により禁令が出された文政四年〜天保十三年、F禁令以後、という江戸の御免富の七期の時代区分を明示したことは本書の大きな業績であり、全体の論理展開の基本的な指針となる。
 その上で、C期E期の御免富の繁栄期における興行場所の条件として、興行許可の得やすい門跡寺院や東叡山寛永寺の影響のもとに、その収益構造の中で興行される場合が多いことや、隅田川や街道沿いの繁華な地を興行場所に選ぶケースが多いことを指摘している。
 さらに、請負構造としては、主に興行許可までの根回し資金の援助をする金主や、興行の段取りを請け負う世話人、富札の売捌を請け負う取捌人など様々な利権構造を明らかにした。
 その結果、集客力のある限られた寺社に興行が集中したため、文政四年の助成枠の規制緩和による、請負業者に依存した地方寺社の新規参入と相俟って、競争の激化が興行成績の不振と興行秩序の破綻を生み出していく展開を浮き彫りにしている。
 またその反面で、江戸における御免富の文化としての定着も、この時期の御免富の利権に関わる複雑な請負構造の影響によるものであるとしている。

 第三部「御免富の受容社会」では、富札購買者の視点から、御免富の受容構造を分析している。
 特に、この部において注目されるのは、天保十三年の禁令以降の展開を視野に入れて考察を行っていることである。つまり、講の名目による富突の地方への波及である。これには地方領主が個別に認可・黙認した実態があったとしている。また、撹拌性の高い富箱や木札から振籤への移行によって、天保の禁令以降、公然とした富突きを粉飾する手法が盛んに用いられるようになった。現在「富くじ」の用語が通用化しているにもかかわらず、近世にはその使用例がないのは、明治以降の禁令でこの振鼓を捉えて「富くじ」という用語が生み出されたことによる、と考える著者の説は説得力が高い。
 また、大坂の富札屋は店先に縮緬や天鵞絨製の派手な幟を立てるなど比較的派手な販売形態を特徴としている点に将軍膝下の江戸との相違があり、江戸は取締の目が厳しかったという見方は、興行仕法にも通じる部分があり興味深い。
 さらに、寛政改革の中断期を経て寛政十年(一七九八)に感応寺のみで御免富が再開され、民衆の待望に応えるかたちで影富が派生した経緯を論じ、文化末年にこれをさらに簡略化した第附が登場したとする一連の解説も、今までの業績を前進させる成果であろう。

(いけだ・はるじ 大阪商業大学商業史博物館学芸員)



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