前田俊一郎著『墓制の民俗学』

評者:岩田重則
「日本民俗学」265(2011.2)

   一

 評者の考えるところの、本書の最大の意義を述べることからはじめたい。
 本書は東日本、特に、著者の出身地でもある山梨県を主なフィールドとして、そこに存在する墓制、なかんずく、従来の民俗学で「両墓制」と呼ばれてきた墓制に注目し、その墓制の形成と現在進行形の変容のありようを、墓制研究として明らかにしたことにある。それは当然であると指摘されるかもしれないが、民俗学の墓制研究は、そもそも墓制研究として行なわれてこなかったという研究史上の欠陥があり、著者はそれを理解した上で、墓制研究を墓制研究そのものとして行なうという、行なわれるべきであった本来の墓制研究を行なっている。本書のような、墓制研究そのものを豊富なフィールドワークによって構成している研究はあんがい少ない。このあと指摘するような、墓制研究が知らず知らずのうちに陥ってきた墓制研究の陥穽からのがれ、緻密かつ確実な墓制研究を行なったことに、本書の最大の意義があるといってよいだろう。

 民俗学の墓制研究は、伊波普猷「南島古代の葬儀」(『民族』第二巻第五号・第六号、一九二七)を承けた柳田国男「葬制の沿革について」(『人類学雑誌』第四四巻第六号、一九二九)にはじまる。「葬制の沿革について」は沖縄・南西諸島の墓制を、「空葬」(柳田は風葬を「空葬」と呼んだ)から亀甲墓などにおける遺体の二次的処置(洗骨・改葬)への展開を基準として、それを本土の墓制にあてはめ、本土でも「空葬」から同様の展開があることを説こうとしていた。「葬制の沿革について」ではいまだ「両墓制」用語は使われてはいないものの、二次的処置が行なわれる沖縄・南西諸島の墓制をヒントにして、墓制研究が開始されていた。そのために、「葬制の沿革について」だけではなく、柳田国男『葬送習俗語彙』(一九三七、民間伝承の会)、そして、「両墓制」用語をはじめて使った大間知篤三「両墓制の資料」(『山村生活調査第二回報告』一九三六、非売品)をひもとくと、「第一次墓地」=「葬地」と「第二次墓地」=「祭地」(柳田『葬送習俗語彙』)、「第一墓地」と「第二墓地」(大間知「両墓制の資料」)などの用語を使い、墓域の移行を重視することにより、その過程のなかに霊魂観を抽出しようとする傾向が強い。柳田国男『先祖の話』(一九四六、筑摩書房)はそれをもっとも顕著に示しており、『先祖の話』が墓制をとりあげるとき、それはあくまで柳田の霊魂観研究、先祖祭祀研究のための傍証としてであった。
 これらの墓制研究を継承している最上孝敬『詣り墓』(一九五六、古今書院)も同様で、その後一般的に使われることになった「埋墓」「詣墓」用語によって「両墓制」を表現することにより、たとえば、「埋墓の汚らわしさの故に、そこをすてて別に聖らかな祭の場所を求めるにいたった」が、「その前に霊魂の肉体からの分離が考えられており、霊魂の依る所、あらわれる所というものも定っており、その場所で霊魂をまつるため詣墓がもうけられたのが、むしろ両墓制のはじまりではないか」(四八頁)という。このような最上の指摘をもってしても明らかであるが、「両墓制」研究とは、墓制研究としてではなく、墓制を素材とした霊魂観研究としての性格を持ちはじめられていた。また、こうした研究史の起点を言い換えれば、「両墓制」用語とは墓制研究を行なうために設定された用語ではなく、柳田民俗学および柳田系民俗学において、その霊魂観研究を目的として設定された用語であったと考えることもできる。

 研究史の起点は、その後の研究を知らず知らずに規定しまうことがある。おおむね一九九〇年代までは、墓制研究といえば「両墓制」、「両墓制」といえば霊魂観研究、そうした傾向が続いてきた。もちろん、墓制研究を通しての霊魂観研究じたいを否定するのではない。それがイコール墓制研究であるかのような錯覚に陥ってしまったことに問題があった。墓制研究が墓制研究として本格的に展開するようになったのは、ようやく二〇〇〇年代に入ってからであるといってよいだろう。著作としては、福田アジオ『寺・墓・先祖の民俗学』(二〇〇四、大河書房)、評者の『墓の民俗学』(二〇〇三、吉川弘文館)・『「お墓」の誕生』(二〇〇六、岩波新書)などをあげることができる。もっとも、「両墓制」用語を否定しそれを使わない評者のような例もあれば、本書の著者や福田のように、「両墓制」用語をそのまま使っている例もあり、用語の使用については違いもあるが、このように、墓制研究そのものとしてまとめられたことに、本書の最大の意義があるといってよいだろう。

   二

 次に、本書の内容に即して、その意義を大きく二点に分けて指摘してみよう。
 第一の意義は、本書が現在見ることのできる墓制を、近代化過程での形成として緻密なフィールドワークのなかから論証したことである。特に、著者が重視するのは、近代国家の政策であり、第一章「国家政策と葬制・墓制」の第一節「動揺する葬制・墓制」・第二節「神葬祭になった村」・第三節「死者の共葬化と墓制慣行」、第二章「両墓制と近代」の第一節「近代に成立した両墓制の問題」、第四章「近代以降の墓制の動態」の第一節「村の墓制の変遷」・第二節「墓制の重層的構造」などでそれが具体的に論述されている。墓制の変容を政策との関係のなかでフィールドに即して構成し、「屋敷墓」から共同墓地へ、「単墓制」から「両墓制」へ、仏教式墓制から神道式墓制へ、といった指標により、現代墓制の形成を近代化過程のなかで跡づけている。
 本書が主なフィールドとする山梨県を含めて、関東地方・長野県・静岡県などは、典型的な「屋敷墓」地域である。といっても、正確にいえば、「屋敷墓」という用語の言葉通りに家の屋敷地内に墓域を設けている例は多くはない。むしろ、屋敷続きの田畑のなか、その家の所有する田畑の一角に、家ごとの墓域を設定している例の方が圧倒的に多い。こうした例も含めて、こうした墓域パターンをいちおう「屋敷墓」としておくが、これらの地域では、「屋敷墓」がムラごと檀家ごとによる共同墓地と併存しているばあいが多い。これも正確にいえば、現在では「屋敷墓」を使用していないばあいもあり、「屋敷墓」はかつての使用が残存するだけで(あるいは廃棄されたたまま)、現在の使用は共同墓地となっているばあいもある。こうした「屋敷墓」から共同墓地への移行を、著者は「共葬化」という用語をもって表現し、それを近代国家の政策と近現代社会の形成として論証している。

 「両墓制」といえば、前述のような研究史の影響もあろう、あたかも古い″墓制であるかのような認識がなされてきたが、著者がフィールドワークのなかから重視するのは「近代に成立した両墓制」である。それが例外的事例にとどまらず、複数の事例をもってして正確に提示された以上、「両墓制」用語で呼ばれてきた墓制とはそもそも何か、そうした課題を著者はつきつけているといってもよい。それだけではなく、著者が本書でフィールドとする山梨県のばあい、もともとあった「屋敷墓」形式をとる「単墓制」が、「両墓制」へと近代になってから移行してきたことが論証され、これについても、著者は葬送・墓制における「個」から「共葬」への移行としている。著者は、近代国家の政策の影響による「共葬化」のなかで、「近代に成立した両墓制」の意味を位置づけているといってよいだろう。そのような意味でいえば、著者は、「単墓制」から「両墓制」への移行と「屋敷墓」から共同墓地への移行、それらを、近現代「共葬化」の展開として整理しているともいえる。フィールドに即した著者のおける墓制史の論述といってもよいかもしれない。

 もっとも、「近代に成立した両墓制」を「共葬化」のなかでとらえたときに、今後、それをよりいっそう広域のフィールドのなかで論証するべき課題も出てくる。というのは、豊富なフィールドワークをこなしてきた著者であるので気づいていることと思うが、たとえば、評者の経験でも、栃木県・千葉県などの「両墓制」は、「共葬化」のなかでの「両墓制」というよりも、「両墓制」をとっている事例がある特定の家や同族団だけで「共葬化」に向かっているわけではない。本書が主なフィールドとする山梨県と同じ東日本の「両墓制」のすべてが、「共葬化」として存在としているわけではないのである。そうした事実を考慮に入れたとき、東日本の「両墓制」の全体像を解明するべき課題が生じてくるとともに、いっぽうで、なぜ山梨県の「両墓制」が、「屋敷墓」としての「単墓制」からの移行として「共葬化」された「近代に成立した両墓制」であったのか、その地域的特徴をより広域のフィールドのなかから抽出することが課題となってくるだろう。また、本書のなかで、著者は「近代に成立した両墓制」形成の最大の要因を近代国家の政策に置くが、この地域に即したときにはそれは適切な指摘であるとしても、近代以前に形成された「両墓制」が、特に西日本では多いことを考慮に入れたときに、西日本をも含めて「両墓制」形成の全体像が、著者の豊富なフィールドワークのなかから解明されることを期待したいと思う。

   三

 第二の意義は、本書が緻密な現代同族団・同族祭祀研究あるいは現代村落構造研究としての性格を持つことである。タイトルが『墓制の民俗学−死者儀礼の近代−』であるためもあろう、本書は墓制研究としてのみ扱われる可能性があるが、近現代「共葬化」を重視するがゆえであろう、本書には著者がおのずと明らかにすることになった同族団・村落構造の現代とでもいうべき性格がある。本書全体の基調にそれは流れており、特に、第三章「社会集団と墓・先祖祭祀」の第一節「近代の墓制変化と同族祭祀の再編」・第二節「共同祭祀と同族結合」が積極的にそれを論じている。鳴沢村大田和における同族団(イッケ・イッケシ)が、愛宕講として再編成され、その講が墓域での同族祭祀を行なうようになる経過、足和田村大嵐・根場における同族団が同族祭祀を行なう小祠を持つとともに、同族団単位で先祖祭祀を行なう経過が解明されている。その際、本書が解明している重要な点は、墓域を舞台として先祖祭祀の形態をとっている同族祭祀の形成が、比較的近年であるばあいが多いことを紹介していることで、「近代に成立した両墓制」だけではなく、墓地を利用する先祖祭祀の形成が、近現代の形成、あるいは、再編成であることを具体的なフィールドのなかから論証していることであろう。

 著者が引用する同族祭祀研究の先行研究を含めて、同族祭祀研究には、あんがい近現代の再編成を分析の視点とする論考は少ない。評者の知る限りでは、長野県佐久地方をフィールドとした上杉妙子『位牌分け』(二〇〇一、第一書房)がカロウト墓地の形成として論じているくらいであろうか。もっとも、上杉の著作も位牌分け研究として位置づけられているためにそうした視点からの評価がないようにも思われるが、そのフィールドワークの内容は同族祭祀の近現代でもある。評者には、本書が、位牌分け研究の上杉の著作と同じように、墓制研究としてのみ評価されるのではなく、現在のありのままをフィールドの対象とするがゆえに解明することとなった同族祭祀の近現代であることを、本書の第二の意義として指摘したいと思う。

 同族祭祀といえば、それはおのずと先祖祭祀の解明となる。かつて、柳田民俗学および柳田系民俗学ではそれを「固有信仰」として最大のテーマともしていた。しかし、近年、現在的現象を皮相に対象とする研究が増えるなかで、こうした古典的テーマを同時代に即して、ありのままにフィールドのなかから解明しょうとする研究を見ることが少ない。そうした意味で、本書をして、現代の先祖祭祀研究の一書であると指摘しておきたいと思う。本書の終章「本書のまとめと今後の研究に向けて」の二「墓制研究考」のなかで、著者が「地域社会の現在進行形の問題として墓制の現在を主題化する研究がもっとあってもよいのでないか」(三九四頁)と主張するが、それは、その同族祭祀および先祖祭祀研究においてもあてはまるといってよいだろう。

   四

 豊富なフィールドワークによって構成された本書は、継続性をともなわず無責任で一過性の放言ともとれる単なる課題の提唱、そうした文章とは明らかに一線を画する。責任を持ったフィールドワークののち構成された議論をもとに、近現代、そして、現在進行形の民俗事象の分析を提唱している。論拠のある提唱である。先行研究の検討についても、手前味噌になりがちな先行研究への言及ではなく、分野をこえためくばりの広さを本書は持っている。また、資料収集と操作の点でも、文献資料・参与観察・聞き書きをミックスさせた再構成は緻密であり、近年少なくなった丁寧なフィールドワークの積み重ねによる議論の構成という意味でも、著者のフィールドに対する誠実さを感じる。

 そうした読みとり方をさせてもらった上で、最後に、評者から著者への希望を述べさせてもらい終わりにしたいと思う。本書での著者の中心的関心は、なんといっても、現代進行形の民俗事象の抽出にあると思われる。そうであるがゆえに、本書のような現在と向きあった墓制研究および同族祭祀研究が完成されたものと思われるが、一定程度、日本列島全域を俯瞰した上での、墓制の全体像の抽出を、今後期待できないものだろうか。評者自身は「両墓制」用語の使用とカテゴライズじたいに疑問を持つが、仮に、著者のいう「両墓制」だけでもよい、一度、東日本のフィールドからさらに大きく列島全域の「両墓制」を見渡し、「両墓制」とは何か、著者の豊富なフィールドワークのなかから解明することはできないものだろうか。仮説でもよいから、日本の墓制とはどのようなものか、あるいは、「両墓制」とは何か、そうした議論を期待したいと思う。あくまでこれは評者の希望であるが、歴史的な近現代に集中させるだけではなく、ほんらい、民俗学がもってきたあいまいな時代感覚、よくもわるくもずさんな歴史認識のなかで、日本列島の墓制研究の解明をも期待したいと思う。



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