森弘子著『宝満山の環境歴史学的研究』

評者:長野 覺
「山岳修験」45(2010.3)

 著者の宝満山研究歴は凡そ四十年に及ぶ。この間に文化的・社会的要職を遂行し、家族を育くみながら、忍耐強く研究に取り組み、その成果を、九州大学大学院人間環境学府(博士後期課程)に社会人入学し、関一敏教授ゼミで更に研鑽・集成し、博士号を授与された論文が本書である。そして平成二十一年度の日本山岳修験学会賞の受賞著書でもある。
 著者は近年、宝満山麓の開発が急進し、それに伴う考古学調査報告が相次ぐ一方で、自然や遺跡が失われ行く現状を憂慮し、「緒言」の中で次のように述べている。
 「未来永劫に宝満山が緑豊かな堂々とした山容を保ち、人々に仰がれ続け、親しまれ続けるにはどうしたらよいのか。そのようなことを探求できる学問を考えるようになった」。
 この思を捉えたのが「環境歴史学」(飯沼賢司・一九九六、橋本政良・二〇〇二)であった。それは人間社会と自然環境の関係を認識する総合史であり、歴史遺産をどう未来に生かすかを探求するということから、思いに叶う学問であると考え論題にしたという。
 別冊『宝満山関係史料集』森弘子編・太宰府古文書を読む会(A5版、八五頁)は、論文で使用した未刊の古文書十点を常用漢字で書き下し、解題している。
 まず論文の全体像を目次で紹介し、評者が特に関心を引かれたことを取り上げさせていただくことにした。なお目次では、四部構成の各部毎にある首尾の「概観」と「小結」、および各章の「小節」は割愛させていただいた。

 発刊の辞 太宰府天満宮宮司・西高辻信之
 序文 日本山岳修験学会会長・宮家 準
 緒言 
 序章
第T部 宝満山の原風景−縁起・遺跡・絵図などをもとに−
 第一章 三つの山名をもつ霊峰 
 第二章 宝満山の縁起 
 第三章 宝満山の遺跡−考古学的成果から 
 第四章 宝満山の絵図・地誌
第U部 宝満山の宗教的環境史
 第一章 大宰府鎮護の山 
 第二章 鎮西の比叡山 
 第三章 宝満修験の成立 
 第四章 武士の世の宝満山 
 第五章 宝満修験の展開 
 第六章 神仏分離と官幣小社竈門神社の成立
第V部 山の自然と修行
 第一章 先行研究と概説 
 第二章 宝満山の秋峰修行〔大峰〕 
 第三章 宝満山の春峰修行〔葛城峯〕 
 第四章 夏行〔大巡行〕
第W部 山の環境と生活・人間
 第一章 宝満山を取り巻く人々 
 第二章 宝満山の山林 
 第三章 山の自然と自己解放−登る山・眺める山−
 第四章 宝満山の現在・未来
 結語 宝満山年表 あとがき 索引

 第T部 宝満山の原風景−縁起・遺跡・絵図などをもとに−

 宝満山の歴史的・宗教的原風景を、縁起・地誌・地名・絵図などと、考古学資料を物証に考察されている。第一章の御笠山→竈門山→宝満山への山名三遷の由来を、著者が提起した新説に注目したい。

 最古の「御笠山」の従来説は、『日本書紀』(巻第九気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと))に、神功皇后が熊鷲討伐の途次、飄風(つむじかぜ)で笠が飛び落ちた土地を、御笠と称したことから、郡名や山名になったという神話起源の山名伝承である。
 それに対して著者は、万葉時代の官人も愛でた蘆城(あしき)川(宝満川)流域の、蘆城野から眺める美しい笠状(円錐(コニーデ)型)の山容に注目する。そして法相僧の心蓮が、天武天皇二年(六七三)に、御笠山の主神として、皇統と民を守る玉依姫を山中の修行で感得し、上宮を創建して祀ったとされているが、その伝承以前から、大小の田を神格化した大田明神・小田明神がセットで御笠山の地主神であることから(「竈門山宝満宮伝記」)、大小の田を潤す蘆城川水源の、美しい笠状の水分山として崇拝された山名ではないかという。山頂(上宮)の祭祀遺跡からは皇朝銭をはじめ八世紀以降の奉賽品の多いことが調査されており(小田富士雄編『宝満山の地宝』一九八二)、それ以前からの古い山名が御笠山であるという。

 次に「竈門山」は、古代から近代まで最も永く使用され、山名起源も諸説がある。
 北方の博多湾・玄界灘と南方の有明海から、湿潤な気流が宝満山に突き当たり、雲霧が深く覆い、竈の煙が常に絶えない有様に由来(『筑前国続風土記』)。また諸縁起類に神功皇后が誉田別(ほんだわけ)尊(応神天皇)御出産の産湯の竈を御笠山に造ったことに因むともいう。
 史実の定かでない伝承に対して、中野幡能は主に文献・史料から(『筑前国宝満山信仰史の研究』一九八〇)、小田富士雄は山上の祭祀遺跡調査(『宝満山の地宝』)などから、白村江の敗戦(六六三)により唐・新羅に対する国防拠点として、天智天皇三年(六六四)の大宰府設置との関連を次のように指摘する。
 中国道教で、一家の守護神とする竈神を、大陸に近い九州の御笠山に勧請し、国家的祭祀として大宰府の鬼門鎮護・国家の繁栄・遣唐使の往来安全などを祈ったことから、竈門山になったと推察している。
 しかし著者は、鬼門思想は陰陽道の浸透する平安時代以後のことではないか。それ以前は、平城京の四方を護る四禽(四神)相応を重視した。それに何故「竈山」ではなく「竈門、山」なのか。確かな竈門、山の古記録は、最澄が延暦二十二年(八〇三)渡海の平安を竈門、山寺で祈願したり(扶桑略記・他)、承和七年(八四〇)に竈門、神は従五位上に叙された当時から、既に竈門、山であったことを指摘している(続日本後紀・他)。
 著者は竈門山名の由来を、宝満山九合目の竈門岩に求める。神功皇后出産に因む産湯をわかした大竈の象徴という高さ約二米の自然石三躰が鼎立し、そこからは上宮を眼前に望む。参道は竈門岩の間を通過するから、石門・神門と解釈し、竈門、が山名になった。そしてこの三躰の巨石は、三輪山や、宇佐八幡の元宮とされる御許山(おもとやま)(馬城峰(まきのみね))の磐座と同類という。しかしそれらは禁足地であるのに、竈門山は自由に通行できるのは何故だろうか。敢て通過させることで竈神の神霊を憑依させるシステムではないだろうか。

 「宝満山」の山名は鎌倉時代から現われるが、一般化したのは、意外にも明治以後という。
著者は鎌倉初期の成立と考える現存最古の縁起『竈門山宝満大菩薩記 九国二嶋惣鎮守』(金沢文庫)との出合いや、八幡信仰史の考察から、「宝満山」は八幡神と菩薩の神仏習合により、竈門山の主神玉依姫命を宝満大菩薩と称えたことで、「宝満山」の山名が誕生したと推察している。この背景に宇佐宮・竈門宮・筥崎宮は、同一の三神=三菩薩を祀り、八幡護国思想と法華一乗の法力で、九国二嶋の鎮守と衆生済度を意図したと指摘する。
 「宝満」の称号については第U部で考察されているが、山名についてはここで記すことにする。著者は『性空上人伝記遺続集』の記事を紹介し、補陀落観音浄土である南方の仏国土を「宝満」に準えたのではないかという。また読誦することで災から護られると説く『仁王波羅密護国経(仁王経)受持品第七』の冒頭、「釈迦牟尼仏が無量神力を現したとき、千華台上に見じた〈宝満仏〉によるのではないだろうか」。そしてこれに注目したのは、白河天皇・藤原師道と親密であった竈門山大山寺別当を十一世紀後半に長期務めた頼清と推察している。
 宝満山で特に「仁王経」を重視したことは、時代は隔るが江戸時代に存在した宝満派修験二五坊の各々が、旧、訳、仁王経を所蔵し、神仏分離に際しても竈門神社に残し置かれたと著者は指摘する。宝満山史で山名三遷の新説を提起したことは画期的である。
 ところで著者は、何故か中・近世を通して、一般的な山名は「竈門山」で、「宝満山」は普及しなかったが、中世以来の修験道儀軌に屡々現われるという。そのことで評者は次のように推察する。修験道は師資相承の秘儀が多く、他言を許されなかった為、明治維新の神仏分離まで、「宝満」の山名は修験道の中に封じられ、俗世間に普及しにくかったのではないか。因みに宝満派修験の三季峰入の実態は、明治四十二年(一九〇六)の「福岡日日新聞」に、竹林庵が三五回連載した「山の秘密」で初めて明らかにされた。

 第U部 宝満山の宗教的環境史

 古代から近代までの宝満山通史の中に展開する山に寄せられた祈りと期待や、山城化した政争の実態を、豊富な史・資料と近年の考古学調査成果を網羅した論述である。

 「遠の朝廷」と敬称された古代大宰府の鎮山として、異国に対する鎮護国家祭祀の山であったと位置づけている。玄界灘を望む山中の辛野(からしの)遺跡は、七世紀後半−九世紀の祭祀遺跡で、新羅を指すと考えられる「蕃」の墨書土器が複数出土しており、辺境防衛の祈願がなされた証という。
 竈門上宮の祭神玉依姫は、記紀神話で神武天皇の母であったが、その後に神功皇后の姉=応神天皇の伯母に変化する。その玉依姫(宝満大菩薩)・神功皇后(聖母大菩薩)・応神天皇(八幡大菩薩)の三神・三菩薩の神仏習合は、八幡護国思想によってセットされたものと論考している。
 平安時代は、竈門山寺で延暦二十二年(八〇三)に最澄が入唐求法の成就を祈願して薬師仏を彫ったり、最澄の遺記に基づく「鎮国利民」を願う全国六所宝塔の一塔が、承平三年(九三三)に造立され、嘉承元年(一一〇六)に竈門神は正一位に昇格するなど、天台仏教の展開と共に神威は高揚した。
 応徳二年(一〇八五)、九州総鎮守の官符による竈門山神領八十庄は、日宋貿易の港で栄えた博多湾に接していたことを、宝満社の分布や社伝などから推察している。
 十一世紀から十二世紀の宝満山繁栄期は、石清水八幡別当が、竈門山大山寺の別当を兼務して一山を統轄していたが、竈門山寺が大山寺になったのか、或は別個のものか明確ではないという。

 中世の宝満山最盛期は、衆徒方三〇〇坊、行者方七〇坊が存在したという(『筑前国続風土記』)。行者方は大峯山や、胎蔵界彦山と金剛界宝満を峰入によって交流する中で、修験道宝満派を形成するが、その契機は文永・弘安(一二七四・八一)の蒙古襲来にあるのではないかとの指摘は注目される。当時、博多湾岸の戦場で総指揮をとった大宰少弐・鎮西奉行の少弐氏の本城は、宝満山の有智山(うちやま)城であった。そして元寇以後も外敵の再来に備えて、より強力な験力が求められた時代であり、鎌倉後期に宝満山八合目の中宮付近は、山伏修行の中心的道場として開かれたことを、磨崖梵字の年代銘「文保二 戊午九月上旬」「法眼幸栄十六度」(入峯)などが示すという。
 戦国時代まで山中・山麓は少弐氏の有智山城として、群雄割拠の中で争奪の的となり、その戦火で宝満山は衰退する。ところが修験のみが最後まで山に残ったのは、厳しい修行に耐え、山の地理に精通したことから、全山城塞化による武装勢力として配置されたのではないかと著者はいう。

 一時断絶した峰入も、江戸時代を通して、宝満山は二十五坊の修験が残って春秋の峰入を継承した。その実態は第V部として改めて詳しく考察されている。
 慶長十八年(一六一三)の修験道法度で、天台系本山派は聖護院、真言系当山派は醍醐三宝院による全国的な修験の組織化が進行した。その過程で聖護院の末山化に抵抗した彦山は幕府に訴訟し、元禄九年(一六九六)に「天台修験別山」と公認された一件は、評者も既に発表している(『山岳修験』一九八五創刊号・一九九一第七号)。しかし中世以来、彦山胎蔵界・宝満金剛界の相互峰入の伝統を有し、両山対等と認識する宝満山を、彦山が末山と主張した本末争論の詳細は明確ではなかった。
 著者は聖護院・彦山・宝満山・福岡藩等の記録を渉猟し、宝満修験は聖護院の末山となる一方で、福岡藩の斡旋もあって元禄九年に彦山との和解が成立し、金胎両部の理念から、彦山と対等の宝満修験を維持した経緯を明らかにしている。但し伝記ではあるが、文永二年(一二六五)に彦山伝燈二十四代大僧都尊良と彦山金剛直質山伏讃岐房豪忠が、宝満山九人先達に職位や当道の軌則を聴許したことや(「彦山修験最秘印信口決集」『増訂日本大蔵経九五巻』)、天正十九年(一五九一)に彦山大先達正覚坊真純が、宝満山新房長照に「無明法性山伏之口伝」を授与した印信の存在(永福院=旧宝満山南坊文書)など、近世初頭までの宝満山の行者方は、彦山派と見做される可能性も検討課題であろう。

 平安後期の入末法による社会不安から、広く民衆に信仰されるようになった地蔵菩薩の根本霊場は、竈門山(宝満山)であったとする論考も注目される。
 『今昔物語・新猿楽記・大山寺縁起』などにより、地蔵菩薩の垂迹・大智明権現を祀る伯耆大山から、修験者が各地に伝播したと従来は考察されていた(田中久夫・一九八二)。しかし前記の古典等に加えて、古来の伝承を取り入れた『岩船山地蔵菩薩縁起』などによって、筑前竈戸(門)山大山寺からの伝播説が提起された(杉本良巳・一九九五)。
 著者は先学の論説に加えて、宝満山の平安時代以来の地蔵信仰遺産などを検証し、杉本説を補強している。そして(伯耆)『大山寺縁起』では、竈門山と伯耆大山や下野岩船山との地蔵信仰交流に全く触れていないのは、伯耆大山こそ地蔵信仰の根本霊場と強調するため、「故意に省かれたのではないか」という。
 その背景には、竈門山大山寺は平安後期から鎌倉時代にかけて繁栄し、以後の消息は不明であるのに対し、伯耆大山は室町時代以後も地蔵信仰の山として発展し、現在まで法燈を持続する天台宗別本山である。このような推移から『入唐求法巡礼行記』にある円仁の竈門山大山寺での業績が、伯耆大山に置換られたり、下野岩船山への地蔵信仰の伝播は、伯耆大山から直接なされたとする誤説を生じたという。
 著者は西国の竈門山(宝満山)大山寺と、東国の岩船山に地蔵信仰の拠点霊場が成立した歴史・宗教的環境の類似性として、奈良時代に設置された日本三戒壇は、中央の東大寺、西国は竈門山に近い大宰府観世音寺、東国は岩船山に近い下野薬師寺であった。また最澄の遺記による鎮国利民を願う全国六所宝塔のうち、竈門山に安西宝塔、岩船山がある下野国都賀郡大慈院に安北宝塔が造立された。竈門山と岩船山は、辺境の西国と東国の宗教文化中心地域であり、地蔵信仰の交流もなされたと推察している。
 詮索的ではあるが、評者は竈門山大山寺や伯耆大山の「大山(だいせん)」は、当時の識者が地蔵菩薩の居所である「●(人へん+去)羅提耶山(こらだやせん)」の略、「提山(だいせん)」を、「大山(だいせん)」に宛がった可能性を考える。そして竈門山は寺名であったから寺の衰退と共に忘れ去られた。しかし大神嶽(『出雲国風土記』)を改称した伯耆大山は寺名と山名にしたことで、地蔵菩薩の居所として喧伝効果が大きくなったのではないか。

 第V部 山の自然と修行

 宝満山修験道の峰入(入峯)は、江戸時代に獅子流と称し、役行者の開峰伝承による宝満山から彦山への「秋峰」(大峯)、宝満山から孔大寺山への「春峰」(葛城峯)と、開山僧の心蓮の遺法とも、天台の行法ともいわれる宝満山中の「夏行」(大巡行)が論述されている。何れも秘行のため記録は少ないが、著者は既に昭和五十年(一九七五)に『宝満山歴史散歩』(葦書房)で概要を発表している。
 それ以後は更に宝満山の旧坊家や、聖護院にも史料を求め、峰入道を踏査し、北部九州の山岳に布衍(ふえん)した金胎両部の曼荼羅を行場とする峰入の実態にアプローチしている。

 中世宝満山の行者方七〇坊を主体にしたと考えられる峰入は、「鎮西竈門入峯伝記」(天保十二年六月東院坊幸雅書写、永福院文書)によれば、「秋峰(大峯)」は、永禄−天正の頃、戦乱で中断するまでは、子辰申歳に実施された。しかし文禄三年(一五九四)、三十九年目に再開した以後は、五−十年前後に一度、七月中旬から八月中旬まで実施された。その山岳抖◆(手へん+数。以下同じ)は、「金剛界峰中三十七尊」を配置し祀る宝満山(八三〇m)・古処山・馬見山などを経て、「中台理智冥合」の深山宿(しんせんじゅく)(福岡県朝倉郡東峰村小石原)に至り、「胎蔵界峰中八葉九尊曼荼羅」の大日岳・釈迦岳などを経て英彦山(一二〇〇m)まで、往路の約七〇qは、紀伊半島の「大峯」の霊場に準えた。帰路は「胎蔵界峯中外金剛部十二天之峰」とした里道の民衆を済度しながら、約六〇qの道程を帰山した。この往復一三〇qには、六〇余か所に仏・菩薩・神々と、その垂迹童子や、要所に峰入の行者を守護するという八大童子が祀られており、その総てを巡拝した。それらを集約した一覧表と曼荼羅図が提示されている。江戸時代の秋峰では五十名前後の山伏集団で遂行された。

 江戸時代の宝満山秋峰と彦山春峰は、何れも「大峯」と称し、両山を結ぶほゞ同じ山岳抖◆路(峰入道)であったから、双方の史料と踏査で実態が明らかになった。しかし宝満山春峰(葛城峯)は天文二十三年(一五五四)以来、元禄十二年(一六九九)の再興まで一四六年間断絶したとされ(「鎮西竈門山入峯伝記」)、再興後の詳細は本書で初めて明らかとなった。しかし信憑性のある中世の春峰記録が見当たらないため、再興ではなく、彦山修験道からの独立をアピールする新規の峰入ではないか、との提言は注目される。
 春峰は宝満座主一世に一度の座主職位を授与される潅頂と、玉体安全・天長地久を祈願した。特別に藩主の為に執行することもある。総勢百名前後の山伏集団であった。
 峰入初参加の「新客」は、一月初旬から毎日、山内で厳しい前行として、「垢離の法」と「初夜」「後夜」の礼拝・読誦などを課せられる。三月初旬から山中の獅子の宿で本行に入ると、一日の食糧は片手一合の米と生味噌・梅干で、四月中旬までの山岳抖◆を遂行した。
 風格のある大先達を峰入のリーダーとし、疲労困憊した新客は、度衆(強力)に支えられて随行する姿などが、カラーでリアルに描かれた明和四年(一七六七)・文化九年(一八一二)の「宝満派入峯絵巻」五種類(太宰府天満宮蔵・他)を著者は比較検討し、峰入の山伏組織なども考察している。

 宝満山春峰(葛城峯)で巡拝し籠山勤行する山岳は、まず「金剛界九会曼荼羅」として、宝満山中の西院宿から、太祖嶽(若杉山)・白石嶽(山伏谷)などを経て、首羅嶽(白山)までの九札所。
 次は秘境の犬鳴嶽(五八四m)を中心に熊野嶽・鉾之峰を、葛城峯中の「三部(仏・蓮華・金剛)四重(中台・八葉九尊等・文殊院等・釈迦院等)の大曼荼羅」としている。
 犬鳴嶽(山)は和泉葛城峯中の犬鳴山と類似の山名起源伝承があり、和泉葛城峯に準えた宝満山春峰の一端を物語っている。
 次は「胎蔵界九尊の峯」として、不動嶽・靡(なびき)嶽・戸田嶽などを経て孔大寺山(こだいじさん)(四九九m)に至る。当山は玄界灘から望む「山あて」の神体山として、古くから漁師・航海者に崇拝された。また文禄三年(一五九四)に宗像大宮司以下、社家二十八人が法華経二十八品を、各人一品づつ写経し奉納した記録があるという(『宗像神社史上巻』)。春峰の孔大寺大権現は「法華の道場」と記された由緒を物語る。
 「外金剛部法華二十八品の峯」は、孔大寺山を下り、玄界灘に突出した鐘岬の織幡宮に法華二十八品の「序品山」を充てたほか、二十八宿印明の「角宿童子」、妙法法華経の「序品第一」の札所として勤行する。以下二十八の札所まで順次、二十八品、二十八宿までを充て、田島宮(宗像大社)、岳越山、香椎宮、筥崎宮の里道では農民から、博多市中では町民の接待を受け、福岡城内では藩主の面前で採燈護摩を焚き、春日宮、太宰府五条などを経て竈門下宮から山中の大田社、白蛇窟まで、帰路の二十八札所の巡行で春峰を終えた。以上の山岳曼荼羅を通して、秋峰と同様に各札所で仏・菩薩・神々や垂迹童子、要所の七大童子など、現在地とも比定された一覧表と胎蔵界曼荼羅図が提示されている。また踏査した春峰の全ルートを、五万分の一地形図上に復元(縮小)している。
 著者は宝満山春峰(葛城峯)について、「修験者に対する尊崇やその験力によせる期待の…(略)一大デモンストレーションでもあった。葛城峯の復興こそ、彦山派修験の範疇から独立し、古代の輝かしい宝満山への回帰を志向した、宝満山伏のアイデンティティの確立だったと言えないだろうか。」と結んでいる。

 夏行の大巡行(おおめぐりぎょう)は、江戸時代の記録では東院谷の薬師堂を道場として、数名の山伏が一夏九旬の間、深夜に宝満山中の聖地に、櫁を供え巡拝・勤行する秘行とされた。
 著者は比叡山の回峰行や、彦山に永徳三年(一三八三)の記録がある「霊仙寺境内大廻行」とも比較検討している。
 宝満山「南坊高橋賢俊一代記」の「安政四年(一八五七)如法経大巡行潅頂修行」によれば、賢俊は十八歳から毎年三月十五日より五月三十日まで七年間修行し、慶応元年(一八六五)に「両部阿闍梨」の称号を開号したという。
 古来の行法混乱を統一したとする「安政四年改定大巡行法」では、昼は樒を規定により花籠に詰め、夜戌時(午後八時)から神楽堂で懺法・釈迦讃・心経・慈赦呪などを諷経(ふうぎん)し、堂内に祀られた松尾・白山大行事にも勤行する。深夜丑三ツ時(午前二時)から花籠と酒水器を荷って上宮に至り、読誦・秘法に続いて山中の巡行となる。年代によって巡行コースに変動もあるが、心蓮上人の菩提寺とされる仏頂山の東尾寺から、八大童子、獅子滝へ下り、法城窟、中院、大南から尾根に上り、神楽殿へ戻る。暗夜の山中で初入の行者は松明、他は薄明りの提灯であったという。
 著者は「大巡行法」(永福院文書)、「宝満山山中絵図」『筑前国続風土記附録』などによって、「大巡行道華上所」一〇四か所の一覧表を作成している。その華供対象の神仏名・形状は、仏堂・社・石祠・窟・瓶(陶龕)・山(遥拝)・岩・石・泉など多様である。遥拝の中には彦山三所権現・熊野十二社・宇佐八幡・宇美八幡・高良大社・太祖権現・志賀明神・大田・小田二社明神、護摩壇では大先達・初先達・庶衆・新客へ、山中の水流や虫にまで華供する所もあった。
 大巡行が終ると記念に長さ一丈二尺五寸(約二m)の碑伝木を本社三神の梵字岩前(竈門嶽入口)に建てた。翌日は盂蘭盆である。山中の二十五坊を廻って施餓鬼供養をしている。
 大巡行を七年間修行した南坊高橋賢俊は、明治二年(一八六九)の春峰で大先達を勤め、その後も宝満山修験道の再興に尽力したことを著者は指摘している。

 第W部 山の環境と生活・人間

 宝満山の歴史的環境が変遷しても、一貫して神仏の山として命脈を保って来た。それは時の政治・宗教・経済の権力者の所願を受容した存在だけではなく、地域の民衆が、山と、山の人によせた信仰があったと著者はいう。
 宝満山周辺の農村地域では、男女十六歳になると、宝満山上宮に登拝する「十六詣り」がある。近年まで女子は久留米絣の短着に赤腰巻などを新調し、登拝後は宝満の神霊・穀霊の憑依を信じて洗濯もせずに保存し、田植の早乙女となって着用したという。宝満山や英彦山の登拝は、江戸時代には女人解禁であった。
 新年元旦の竈門神社「作だめし(宝満だめし)」は、五穀類の豊凶や年間の天候などを予想した御札を現在も配布している。
 本社三神の本地仏種字の下に、「大宰府馬場 宝満講衆等 建武四年八月十日 勧進阿闍梨顕威」の刻銘は、近世に村々で結縁され諸国に普及した大峯講や御嶽講など、同類であれば、年代的に画期的なことゝ著者はいう。評者は『彦山流記』にある「衆徒方」と思われる「講衆一一〇人」と同類で、中世宝満山の「衆徒方三〇〇坊」の集団を、「宝満講衆」と称したのではないかと考えたい。
 寛文十二年(一六七二)の「竈門山水帳」(井本文書)によれば、宝満山各坊の土地所有や山林管理規制などが記され、最後に起請文で、違反しないことを約束させている。水帳に対応した地図もあり、上宮を中心とした「神地」には現在もブナの原生林が残っているという。
 著者はまた近世の宝満登山で、必ずしも信仰重視の登拝ではなく、文芸・美術等対象として、また民衆の物見遊山での登山が、江戸時代後期から多くなったことを指摘する。これは現在も宝満山が九州一の登山者数を集めていることに繋がっているという。日本各地の著名霊山の信仰と観光開発の課題も、具体的で簡明に紹介されている。

 「結語」で著者は次のように述べている。

 本論で述べてきたように、宝満山の峰入り道筋や山麓の集落北谷には、為政者が替わろうとも、戦乱に巻き込まれようとも、寺院はなくなろうとも、村人の信仰を受け、村人に護られ、村の生活の中心にある平安仏が、一〇〇〇年の時を超えて驚くほど多く存在しているのである。人々が信仰心を持って接している限りは、決しておろそかに扱われることはなく、仏も光を失わないのである。しかし、こうした状況もかつてないほど危機に直面している。それは世代が替われば、信仰心をもつ人、ムラのしきたりや伝統を大切にしようという人が極端に少なくなるということである。…(略)…森羅万象に神を観、自然への畏怖を忘れなかった神道、「山川草木悉有仏性」とあらゆるものに仏を観た天台の本覚思想、自然への繊細で審美的な感受性。日本の山にまつわる様々な思想は環境問題の解決に大きなヒントを与えてくれるであろう。…(略)…宝満山をはじめ日本の霊山が未来にわたった人々の心のふるさとでありつづけ、人々に恵みを与え続けることができる根本であると考えるのである。

 長年にわたる宝満山研究の成果を、本書に託した著者の思いが、「結語」によく表現されている。関連史・資料を網羅して、重厚に研究された宝満山は、日本の霊山研究のサンプルになると思われる。著者の益々のご活躍を期待いたします。


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