井上寛司著『日本中世国家と諸国一宮制』

評者:畠山 聡
「歴史評論」723(2010.7)

   はじめに

 黒田俊雄氏が顕密体制論を提唱して以来、寺院史や仏教史、宗教史研究は長足の発展を遂げてきた。ところが黒田氏が顕密体制論において王法と仏法とを取り結ぶ機能を果たしたと考える神社史の研究は、著しく立ち遅れたままである。著者は、永年にわたって諸国一宮制の研究を中心に中世神社史の解明に取り組んできた。その論考の一部はすでに『日本の神社と「神道」』(校倉書房、二〇〇六年)にまとめられている。本書は、中世諸国一宮制研究会の全国的な調査によって得られたデータを基に、新たに執筆した論考をあわせて一書としたものである。

   一 本書の構成と内容

 それでは、最初に本書の構成をあげよう。

序章
第一章 中世諸国一宮制の成立
 はじめに
 第一節 研究史の概要と特徴
 第二節 中世諸国一宮制の基本的性格
 第三節 中世諸国一宮制の成立過程
 むすび
第二章 中世諸国一宮別の構造と特質
 はじめに
 第一節 社官組織
 第二節 社領構成
 第三節 造営形態
 第四節 祭礼構造
第三章 中世諸国一宮制の変質
 はじめに
 第一節 中世後期(南北朝・室町期)一宮の類型区分
 第二節 中世後期一宮の諸形態
 第三節 中世諸国一宮制の変質と形骸化
 むすび
第四章 中世諸国一宮制の解体
 はじめに
 第一節 戦国期一宮の諸形態
 第二節 戦国期一宮の類型区分と中世諸国一宮制の解体
 むすび
結章

 続いて、章立てにしたがって簡単に内容を紹介していこう。

 第一章では、一一世妃半ばから鎌倉時代後期にかけて、成立し、確立していく一宮制の基本的性格と成立過程について分析している。
 第一節では、先行研究の多くが中世社会論、国家論の観点を欠如しているとして、二十二社の研究や中央と地方との関係を視点に据えた中世的「国家的神社制度としての二十二社・一宮制」の重要性を指摘している。
 第二節では、大神宝便が発遣されるような、中央政府から見て各国を代表する絶対的な神社が国鎮守として「一宮」に選定され、一つに絞り切れない場合のみ二宮以下が設定されたこと、中央の二十二社で王城鎮守として日常的な奉幣が行われ、地方の一宮で国鎮守として国衙祭祀が行われ、それら全体を通じて日本の秩序と安定が保たれていたと論じている。
 第三節では、一一世紀半ばから同末にかけて「一宮」の呼称を持たない諸国で一宮制が成立し、一一世紀末から一二世紀初頭にかけて「一宮」の呼称が成立、一二世紀半ばまでに全国的な規模で一宮制が成立し、そして一二世紀末から一三世紀初頭にかけて再編・整備が行われ、その過程で「三宮」以下が登場したと論じている。

 第二章では、成立・確立期の一宮制の特徴をより明確にするため、社官組織、社領構成、造営形態、祭礼構造の四点について分析している。
 第一節では、すべての一宮には神宮寺や別当寺、本寺と称される仏教施設が存在していたこと、社官の構成が神官と僧侶であることから、公的・国家的な神社は「神仏隔離」原則を踏まえた「神仏習合」の理念の上になりたっていたと指摘している。
 第二節では、一宮の社領構成は原則的に一円的所領と散在所領(免田・祭礼料田)との組み合わせであったこと、本家・領家を仰ぐ形で社領を中央の権門勢家へ寄進したのは、一宮が有利な形で国衙との関係を構築維持するために権門勢家との直接的な結合関係が必要であったからだと論じている。
 第三節では、一宮の造営には一国平均役や国衙領への国役賦課、社家に国務を付すもの、荘園領主の指揮の下で造営料所を定めるもの、通常の一宮領によって行うものの五つの形態があり、そのなかの一国平均役は、国衙の判断で一宮との協力・共同作業のもとで行われたと論じている。
 第四節では、一宮の祭礼は国司や在庁宮人が「参列」する場合と、国司や在庁宮人が神官や供僧とともに共同で行う場合があり、前者が基本的な形態であったこと、また祭礼費用は、祭礼料田を寄進する形で国衙が調達し、あるいは保障していたことから、造営同様に「国衙・社家相共」の原則が確認できたと論じている。

 第三章では、鎌倉時代末から室町時代にかけて、一宮制がどのように変質していったのかについて分析している。
 第一節では、当該期の一宮を四つの類型に分けた上、国衙(後期は守護)に対して相対的な自立性をもつ第一〜第三類型について分析を行い、中世後期になり守護が国衙に取って代わって「国衙・社家相共」から「守護・社家相共」へと変化した後も、相互の補完的な関係を通して「国」支配秩序が維持されていたと論じている。
 第二節は、第二類型の長門国と出雲国について詳細な分析を行い、国衙や守護と一宮が、相互の自立性を踏まえた補完的な関係を通して「国」支配秩序が維持されたと改めて強調している。
 第三節では、第四類型の一宮を分析し、第一節と第二節で明らかとなったことを踏まえ、中世後期の一宮制の基本的な枠組みは依然として存続し、機能しているが、実態としては中世前期に比べると多様化、形骸化の進展が広範に見られ、すでに一宮(国鎮守)としての実体を失っていたと論じている。

 第四章では、戦国時代に一宮制がどのような過程を経て解体していったのかを分析している。
 第一節では、甲斐や安房、出雲、長門などを具体的に分析し、一宮制の解体は中世国家権力構造の解体と表裏一体の関係にあったと論じている。
 第二節では、戦国期の一宮制の全体構造とその解体過程について検討し、戦国大名が領国支配を強化したことで、中世以来の一国的秩序が解体して一宮制が空洞化するとともに、一宮の世俗権力への従属のさらなる進展にともない、社官組織の再編や伝統的な祭礼の退転があったが、一国の統治を視覚化する際に効果的ということで、造営については戦国大名が積極的に関与したと論じている。

   二 本書の内容をめぐって

 まず、本書の特長について述べておこう。第一は、世俗権力である国衙(後期は守護)と宗教勢力である一宮との関係を示す「国衙・社家相共」に視点を据えて類型分類をし、その類型ごとに分析している点である。一宮は、成立時より国ごとの状況を受けて多様であったが、時代が下るにつれてその多様性は増幅していった。著者は、類型分類をすることで、多様な一宮を全体的に把握しようと努めている。第二は、一宮制が成立する院政期から解体する戦国期までを通して考察の対象としている点である。個別研究を除くと、一宮に関する先行研究の多くは、成立から確立期にあたる院政期および中世前期を対象とするもので、後期以降についてはほとんど検討されていない。寺院史や仏教史の研究でも活況なのは中世前期であって、後期については現在に至っても全体をどのように把捉するか模索している状況である。したがって、本書は、神社史研究を一気に寺院史や仏教史の研究水準まで到達させる道筋を示すものと評価することができる。
 それでは、次に本書を読んでの疑問をあげていこう。

 第一の疑問は、「二十二社・一宮制」に関する問題である。著者の説明によると、天皇の即位に際し、中央・地方の有力神社へ大神宝使を発遣する大神宝使制の成立を受けて、地方で国司初任神拝が始まり、やがて一一世紀末に一宮制が整えられていった。一方、同じ頃に中央では大神宝使発遣対象の神社を中心に王城鎮守としての二十二社制が確立した。この一宮と二十二社は、相互に連動しながら、中央政府の安泰を祈念する役割を果したことから、「二十二社・一宮制」が中世的国家神社制度そのものであったという(六六頁)。
 これに対し、上島享氏は、一宮で修される仁王会や最勝講などの法会は、中央で修されている法会を国司が持ち込んだものなので、一宮を頂点とする国内の宗教秩序形成は国司の主導により進められたとしている(『新しい歴史学のために』二四二・三合併号、二〇〇一年七月。『国史学』一八二号、二〇〇四年)。また、岡田荘司氏は、一宮制は国ごとの体制に応じて成立したもので、中央から下向する国司と在庁との双方向的な関係を通して確立、機能したのに対し、二十二社制は畿内三ヵ国に限定した自己完結的な祭祀体制であり、両者を一括した国家的神社体制とすることはできないとしている(一宮研究会編『中世一宮制の歴史的展開 下』岩田書院、二〇〇四年。前出『国史学』)。
 著者は、このような両者に対し、各国は中央政府の中間支配機関に過ぎず、中央政府や他国との連携は不可欠である。国鎮守といっても当該国内だけでなく、国境を越えた地域にあって日本国の維持・安定に寄与している。そして国鎮守の地位獲得は、古来よりの祭神を天皇神話と結び付く祭神へ転換するなどの努力を通して達成されるのだ、と反論している(六六頁)。つまり、一宮は中央政府や他国との連携があってはじめて機能したのであり、国内のみで完結することではない、というのであろう。しかし、評者には、著者が反論するように、上島氏がすべて国内で完結していたと述べているとは読み取れない。
 また、著者は、大神宝使が一宮制の成立と密接な関係にあったと強調しているが、全国の一宮のうち発遣対象の神社であったのは三〇社だけで、半分余は対象外の神社であった。したがって、全国的に等しく一宮制が成立していくためには、大神宝使の関与よりも、中央政府の命か、国司らの活発な活動が前提にあったと考える方が自然であろう。ところが、著者は、一宮制は中央政府の命に基づいて統一的に成立したのではなく、ましてや当時の中央政府は全国へ統一的に法令を実施する構造となっていなかったのだと、中央政府による一元的な関与を否定している(六八頁)。ということは、一宮制は、岡田氏や上島氏が考えるように、京都から下向してくる国司と在庁官人との双方向的な関係を通して成立したということになるのではないか。

 第二の疑問は、一宮制の形成期から変質期へ転じる転換期の問題である。著者は、鎌倉時代末期から南北朝にかけた一四世紀は、国衙と一宮の関係から守護と一宮との関係へと変化した、一宮制にとっての転換期だとしている(一八七頁)。確かに、従来の研究では、南北朝期は、鎌倉時代より権限を付与された守護が内乱を通じて、国衙の権限を吸収しながら領域支配を進展させたと考えられていた。しかし、近年になり、南北朝期の守護による領域支配は限定的で、守護が国衙を直接掌握し、その行政機能を吸収することはなかったことが、小原嘉記氏によって指摘されている(『日本史研究』五三九号、二〇〇七年)。また川岡勉氏は、守護が自立的な領域支配を確立するのは一五世紀半ばであるとしている(『室町幕府と守護権力』吉川弘文館、二〇〇二年)。これらの研究の成果に従うならば、南北朝期を一宮制の転換期とすることは再検討が必要となるであろう。
 それならば形成期から変質期への転換期はいつであろうか。海津一朗氏や井原今朝男氏、伊藤邦彦氏は、弘安七(一二八四)年に二度のモンゴルの襲来を受けて幕府が発した異国降伏祈?や一宮・国分寺興行令が一宮制にとって重要だと指摘している(海津『中世の変革と徳政』吉川弘文館、一九九四年。前出『中世一宮制の歴史的展開 下』)。これについて、著者は、鎌倉幕府による一宮制維持・存続のための施策の一環として理解すべき、と評価をしていない(一八二頁)。しかし、同じ弘安七年には幕府が九州宗像社の神領興行法を発し、翌弘安八年には公家政権が府中惣社興行令を発している。幕府は、その後も鎌倉時代末期にかけて異国降伏祈祷や神領興行法を繰り返して発している。幕府が先行し、公家政権がその後を追随する形ではあるが、公武両政権が一体となって神社興行を推進していたことがわかる。また、この時期は、それにともない全国規模で「神国」意識が高揚した時期でもある。このように、中世の神社制度にとって重要な時期であるので、評者はむしろ弘安七・八年から鎌倉時代末を一宮制の転換期とすべきではないかと考えている。

 最後の疑問は、一宮制が中世の国家的神社制度なのかという問題である。周知のように、国家的神社制度をめぐって岡田氏との間で意見が大きく分かれている。評者が見るところ、二人のあいだで意見が分かれるのは、国家的神社制度の「国家的」を岡田氏が「国家による」と理解しているのに対し、著者は「国家規模の」と理解しているからであろう。『日本国語大辞典』によると、「国家的」には「国をあげて行なう事柄」とか「国を代表するような物事に関するさま」などの意味があり、著者の理解に近いことがわかる。著者の理解が評者の推測どおりならば、一宮制は国家的神社制度の一つとすることができよう。
 しかし、本書で国家的神社制度としての一宮制が王法と仏法とを取り結ぶ機能を果たしていたことを証明したことにはならないであろう。というのは、著者は常に「神仏習合」を念頭においているが、一宮で修された法会などの仏教活動について全く言及がなされていないからである。また、一宮と国衙との関係、あるいは一宮と守護との関係については詳細な分析がなされているが、王権とを結びつける国家祈?などの神祇活動についても分析が不十分であろう。さらに、中世後期の王権とは朝廷なのか、それとも幕府なのかといった点についても全く言及がなされていない。つまり、著者は、分析対象を絞ることで一宮制をよりわかりやすくすることに努められたと考えられるが、そのために本来の目的である顕密体制のなかでの位置づけが不明瞭となってしまったのではないか。著者の持論が理解されにくいとするならば、要因の一つにこのことがあったと言ってよかろう。

   おわりに

 以上、本書を一読して気になったことを指摘してきた。ここで指摘してきたことは、評者を含めて神社史を研究する者が今後解明しなければならない課題なのである。著者は本書を本格的な中世諸国一宮制研究を軌道に載せるための中間的総括だとされているが、本書は、一宮制だけにとどまらず、神社史を研究する際の必読書となることは間違いなかろう。なお、評者の力不足から誤読や深読みなど、著者の真意を十分に汲み取れずの指摘であったことをお詫びし、著者のご海容を乞う次第である。
(はたけやま さとし)


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