森田悌著『日本古代の駅伝と交通』
評者・永田英明 掲載誌・国史研究109(2000.10)

 本書の著者森田悌氏といえば、その著作の多さと守備範囲の広さにおいて、他者の追随を許さない。現在までその著書は二○冊以上に及び、平安時代史研究や古代法研究、長屋王木簡などテーマもバラエティに富んでいる。
 交通史についても、すでに一九七○年代より少なからぬ論考を世に出されており、それらは折に触れ著書の中に収められてきた。しかしこのテーマで一書をまとめられたのは、一九九四年に自費出版で刊行された『日本古代交通社会史考』が最初であろう。本書はこの前著に収められている論考も含め、近年の研究成果を、交通史というテーマを核に編集したものである。再録された論考の中には大幅な改訂が加えられているものもある。古代交通研究の盛行が指摘されて久しいが、文献史学の立場からの著作は少なく、本書が刊行されたことの意義はその意味でも大きい。
内容は、「駅伝制」・「駅路」・「北辺の交通」・「海外交渉」の四章と二篇の付論から構成されている。以下きわめて雑駁ではあるが、本書の内容について順を追い紹介し、若干の批評を試みたい。

 一
 駅伝馬制や駅路に関する制度的考察である第一章「駅伝制」は、内容的には駅子論(一節)と伝馬制論(二〜四節)からなる。第一節「駅戸・駅子の員数」(初出一九九五年)は、大山誠一氏の「令制の駅戸数について」(一九九五)に対する反批判として執筆されたもの。両氏の論争は実は一九七○年代にさかのぼり、天平十一年「遠江国浜名郡輸租帳」の郷名不詳郷を猪鼻駅の駅戸集団に比定し令制当初駅馬数分の中戸が駅戸とされていたと主張する大山説と、八世紀後半以降の史料にみえる駅子教を根拠に駅子法定数の存在を主張し、駅戸集団の規模は実際には駅子数によって規制されていたとする著者の説とが対立していた。この論文で著者は、大山氏が駅戸集団とした輸租帳の該当部分を大神神戸に比定し、また集解諸説の駅子交替に関する問答によって法定駅子数の存在について再論している。もっとも著者は大山氏の説のうち駅戸法定数の存在自体については承認し、駅子数と駅戸戸数の二つの基準が併存していたと見る。編戸制や里制等に関する従来の研究成果から見ても、これはおおむね首肯できる見解であり、具体的な駅子・駅戸数はともかく、駅戸と駅子どちらが重要かという二者択一的な意味での「駅戸論争」は一応止揚されたと言って良いであろう。
 もっとも評者の問題関心から見た場合、この議論は歴史的な視点からもう少し深める余地があるように思う。すなわち、駅子という色役の成立が兵士役や雑徭等の力役制度と同様浄御原令以降と考えられるのに対し、駅家経営の人的基盤を「駅戸」という形で設定すること自体は、それ以前から行われていたのではないか。この段階における駅戸集団の規模は、木簡等にみえる「五十戸」表記等も参考にすれぱ、やはり戸数の論理で把握されていた可能性が高く、その意味で、駅戸と駅子はなお歴史的な関係として把握することが可能ではなかろうか。
 一方二〜四節の伝馬制論は、特に「伝馬のみち」をどのように考えるか、という問題意識に基づいて組み立てられている。「駅路」「駅道」と異なる伝馬制独自の道の存在については、伝馬が本来全国すべての郡に置かれたとする前提に立って、国府と郡家や郡家同志を結ぶみちを「伝馬のみち」と表現した青木和夫氏等の研究(「古代の交通」一九六五)があり、また伝馬が配備された郡家と駅路の実際の位置関係や文献の解釈から、駅路に並行し郡家間を結ぶ「伝路」の存在を主張した佐々木虔一氏らの研究(「律令駅伝制の再検討」一九八四など)がある。これに対し著者は、伝馬は基本的に駅道上において運用された、という立場から自説を展開する。まず第二節「伝馬考」(初出一九九三 原題「伝馬制の考察」)では、伝符の保管形態や明法家の伝馬認識等をもとに伝馬が部内巡行など「国内用」の交通制度とは考えがたいことを論じ、次いで伝馬が駅道上に配された「伝馬所」に置かれていたとの見解を提示して駅路に並行する「伝路」の存在を否定する。著者の伝馬制観の基本的枠組みを示したものと言えよう。第三節「伝馬と駅路」(初出一九九七 原題「伝馬小考」)は、この「伝馬所」論の延長として、赴任国司など伝馬の利用者が駅家を宿泊施設として利用したことを論じたもので、その他郡家を含め官寺・軍団等駅道沿いの様々な施設に伝馬が適度な間隔で配されたと述べる。伝馬制は郡家、駅制は駅家という固定観念に対し、柔軟な発想が必要なことを示唆した興味深い指摘である。
 これに対して第四節「伝馬の利用者とその変質」(初出一九九八 原題「伝馬補考」)はやや異なり、本来すべての郡に伝馬が置かれるはずであったとの前提から「駅道に沿わない伝馬」の利用形態について検討したものである。実は著者は、第二節の原論文においてもこの問題を検討し、駅道における送迎役を補完するため駅道から離れた郡の伝馬が動員されたという、一種の助郷的な役割を想定している。四節はこの見解を全面的に改めて執筆したもので、これにあわせ第二節では原論文の該当部分が削除されている。著者の結論は、「駅道に沿わない伝馬」が本来巡察使など郡部に入って国内巡行を行う中央政府の使者用として存在したが、平安期に地方攻治が国司に委任されるようになった結果これら駅道に沿わない郡の需要が低下し廃止されていった、というものである。
 さて、伝符の所在等からみて伝馬の機能を「国内用」と見なしがたい点、文献史料の解釈からは駅路と並行する「伝路」の存在が導き出せず、基本的には伝馬も駅路上で運用されたと考える方が自然であること等は、評者もかつて論じたことがあり(「律令国家における伝馬制の機能」一九九二、「七道制と駅馬・伝馬」一九九七)、著者の伝馬観には基本的には賛同できる部分が多い。しかしこうした立場に立つと、(一)想定駅路と郡家比定地が離れている場合をどう考えるか、(二)駅路が通過しない郡における伝馬の存在意義をどのように捉えるか、という二点について説明が必要となってくる。著者の伝馬制論は、この点をも周到に網羅した点に特徴がある。
 二点ほど疑問点を述べておく。まず一つは、「伝馬所」について。著者は「伝馬所」すなわち各郡五疋の伝馬の配置場所が実際には郡家・駅家・軍団等多岐にわたり、かつ一郡内の数ヵ所に適度な間隔で分置されていたとする。たしかに延喜兵部式では「郡」以外に「駅」にも伝馬が配備されている例が知られ、少なくとも平安期には伝馬の配備が郡家に限定さていなかったと見て良かろう。しかし同式での伝馬設置単位が「駅」「郡」のみに限られるのも事実である。著者はこの「郡」を領域的な意味での「郡」と理解し一郡内での分置を想定するが、「駅」と対置される「郡」は、やはり五疋の伝馬を備えた特定の施設(地点)としての「郡」を指していると考えるべきではないか。その場合、郡家以外の施設を「郡」と表記する事は少々考え難いのではないか。
 もう一つは、「駅道から離れた郡」における伝馬の機能について。著者はこれを巡察使等の郡部巡行用とするが、この結論は伝馬が国府―郡家や郡家同志の間で機能するシステムではないことを明確に否定した第二節の結論とはややそぐわない。また、著者は平安期の地方政治の変化を「駅道に沿わない郡」の伝馬廃止の原因とするが、天平期の税帳などを見ると、すでにこの段階で、巡察使は伝馬制ではなく駅制を利用して諸国に至っている(天平十年度(七一二八)周防国正税帳)。巡察使が国内巡行時のみ伝馬を利用したとも考えにくく、こうした状況が天平期にすでに見られることからも、「駅道から離れた郡の伝馬」の問題を巡察使等の「国内巡行」に結びつけるには今少し問題があるように思う。
 しかし何よりも、このような形で体系的な伝馬制論が提示されたこと自体画期的なことであり、これらの論考が研究史上持つ意味は小さくない。

 二
 制度を対象とした第一章に対し、第二章「駅路」は、具体的な交通路に対する検討である。このうち第一節「武蔵・下総間の駅路」(初出一九九五)は、武蔵・下総間ルートを中心に南関東の駅路変遷を論じたもので、「武蔵国乗瀦駅について」(一九九○)、「東国駅道の再検討」(一九九一)等と一連の研究である。内容は多岐にわたるが、論点は以下のように要約できる。
 @『続日本紀』神護景雲二年(七六八)三月乙巳条(A)で「山海両路を承け、使命繁多なり」という理由で駅馬を増置された下総国井上、浮島、河曲、武蔵国乗瀦、豊島の五駅を結ぶルートは、『続日本紀』宝亀二年(七七一)十月己卯条(B)にみえる、「相模国夷参駅」から四駅を経て「下総国」に達する「東海道」ルートに重なる。
 A当時の東海道本道は、相模から東京湾沿いに武蔵を通過し、下総国府から葛飾郡・相馬郡経由で常陸に抜けるルートに相当し、@の諸駅もこのルート上に存在する。
 B坂本太郎氏(「乗潴駅の所在について」一九五四)が武蔵国府―下総国府間の駅として杉並区天沼に比定した武蔵国乗潴駅は、東京湾岸沿いの大田区・品川区に比定すべきである。また下総国府―上総国府間に比定されている浮島・河曲駅は、井上駅と共に葛飾郡内にあり、武蔵国境と下総国府を結ぶルート上に比定すべきである。その場合駅間距離が極端に短くなるが、それはこのルートが住田川・太日川等河川が集中する難所であったからである。
 C吉田東伍氏が指摘した(『大日本地名辞書』)、墨田区墨田―江東区小岩付近を結ぶ古道痕跡は、古代官道としてはやや低地にすぎ、武蔵・下総間の官道はもう少し北を迂回し松戸付近を通過していたと考えられる。
 このうち@〜Bはすでに「東国駅道の再検討」などでも述べられた点であるが、これは坂本太郎氏の研究以降定説化しつつある理解と大きく異なり、その後いくつか批判が出された。特に葛飾郡に三駅を比定する点については、山路直充氏が詳細な批判をされており(「下総国井上駅について」一九九二)、著者はその反批判として改めて自説を再論している。
 一見大胆と思える説であるが、それを支える論理は周到かつ明快である。評者の見たところ、結局この問題は、やはり『続紀』の二つの記事の理解に帰結するのではないか。かつて坂本氏が乗潴駅を武蔵国府―下総国府の間の駅とみなし杉並区に比定した前提には、史料Aを東海・東山道連絡路、・史料Bを東梅道の一部(相模―上総経由の旧東海道に対する、新しい東海道)に関するものと、二つの駅路を全く異なるものとして区別する、文献自身の解釈から導き出された結論があった。一方著者の説は、A・Bを同じルートとみることを出発点にしている。本書では坂本説について「東海道と東山道を連絡する必要があったとすれば、相模国府より北上して容易に府中へ向かう官路を開くことができたはずである。」など地理的な視点から批判が加えられる。しかし坂本説の克服のためには、A・Bを同一ルートと見なさざるを得ないことを史料自身の解釈からもう少し詳論する必要があるのではなかろうか。
 第二節「上野国内の東山道」(初出一九九六)は、考古学的な成果がめざましい群馬県内の道路遺構について、著者の見解を提示したものである。坂爪久純氏らの総括によれば、群馬県内では「牛堀・矢ノ原ルート」と呼ばれる、境町や新田町等で検出された幅一二メートル程度の東西道と、「国府ルート」と呼ばれる高崎市から前橋市にかけて検出された交通路の存在が考古学的に指摘されている。そして前者の年代観が八世紀後半以前、後者が九世紀後半以降とおおまかに把握できることから、前者から後者へという東山道ルートの変遷が仮説として提示されている。これに対し著者は、先述の年代観が絶対的なものではないとして、前者を東山道本道、後者を「在庁官人らが作った在地の道路」というかたちで、両者の関係を道路としての性格の相違に求める。多様な道路を体系的に理解する視覚としてこのような視点はわかりやすく、著者の理解も一つの案と言えよう。しかし年代観の問題については、著者も両者の併存を示す積極的な論拠を提示しているわけではない。道路遺構が年代決定をしづらい遺構であることは良く指摘される点であるが、文献的な材料に欠ける状況では、この問題はやはり考古学的な手法で決定していくしかないであろう。調査の進展を見守りたい。
 続いて第三節「東山道武蔵支路」は、東山道武蔵路に関する歴史地理学的な研究成果。著者はかつて東山道武蔵路を上野から古利根川沿いに下総国府経由で武蔵に至るルートとして復原されていたが、所沢市東の上遺跡の調査をきっかけにこの説を撤回され、新たにルートの比定に取り組まれた。木本雅康氏の研究成果(「宝亀二年以前の東山道武蔵路について」一九九二)を下敷きにしつつ、著者は入間郡北部から比企丘陵を超える部分の比定について、中世古文書や鎌倉街道遺称道などの材料を駆使し自説を提示する。地元に居を据えられた著者ならではのものといえよう。なお木本氏の論文では、川越市に所在する「女堀」とよばれる堀跡(女堀U遺跡)が取り上げられ、これが本来の東山道の東側溝を堀に転用した可能性が指摘されている。本章の付論「女堀名称考」(初出一九九五)は、この遣跡の発掘調査による知見をもとに「女堀」の語源を検討したもので、長大な堀が小工区に分けて掘削施工されているとの知見をふまえ、「それぞれに」の意味を有する「あふなあふな」(合ひな合ひな)がオウナ→オンナと転訛し「女堀」となったと説く。
 第四節「上野国佐位郡の古代」(新稿)は、東山道との関わりという視点から地域史像を叙述したもの。著者は、佐位郡家や佐位駅等が集中する「佐位」郷を伊勢崎市小斎付近に比定する一方、七世紀後半創建の上植木廃寺や古墳時代の豪族居館として著名な原之城遣跡のある伊勢崎市上植木付近にも注目し、後者が佐位郡域の伝統的豪族である檜前部君氏の本拠であるのに対し、前者は東山道の造成(著者は天智朝に画期を求める)に伴ってあらたに郡家などの拠点が政治的におかれた地域であり、檜前部君の支族が氏族内での「新興勢力」としてここを拠点に活躍したとする。このほか那波郡や武蔵北部における檜前公・檜前部の分布にも注目して武蔵北西部と上毛野地域における文化的・攻治的なつながりを主張する。三節同様両地域のつながりを示す指摘として興味深い。
 以上の第二章を通覧すると、全体的なテーマとして、坂東諸国間の交通・交流の問題が浮かび上がってくる。坂東諸国は東山道・東海道という二つの地域に行政上区分されているが、これはあくまで、都城の行政機構による支配の便宜のための区分であり、当然ながら一方で、こうした東海・東山々に収斂されない坂東地域内部の独自のネットワークが存在するはずである。こうした東国における交通網については、考古学的・歴史地理学的研究の進展により、河川交通なども含め復原が活発に行われつつある。著者の研究もそうした動向の中に位置づけられよう。文献・考古・歴史地理お互いの依拠する方法論に対し十分な理解を払いつつ、今後さらに研究を進めていくべき分野であろう。

 三
 第三章「北辺の交通」では、東北・北海道にかかわる問題が取り上げられる。このうち第一節「古代東北と舟運」(初出一九八九)は、古代東北における海上・河川交通の実態を諸史料から明らかにしたもの。まず第一に、日本海岸沿いの海上交通を示すものとして斉明紀の阿倍比羅夫の征討記事をとりあげ、比羅夫の遠征軍のみならず粛慎、渡島蝦夷等も舟を利用していたことを指摘する。第二には、北上川水系における河川交通の問題を征夷との関わりで論じ、城柵と河川の密接な関係、胆沢・志波方面への征夷における北上川舟運の利用などを指摘。第三には、出羽側の内陸水運の問題として延喜兵部式所載の水駅の問題を取り扱い、水駅すべてを最上川沿いに比定する自説を再論する。そして第四には、太平洋岸における坂東―陸奥間の海上交通の存在について諸史料から検討し、坂東からの稲穀の輸送などに海運が使われたことを明らかにしている。いずれも重要な指摘であるが、中でも太平洋側(陸奥側)における水運については近年その重要性が再認識されつつあり、学ぶべき点が多い。征夷や蝦夷支配における北上川などの河川交通の重要性についても、考古学ないし文献双方から注目されている点である。ただ著者がこうした水運の使用を「陸上交通網が未発達なため」と評価する点には少々とまどいを覚えた。むしろこの問題は、陸上か水上かという二者択一的ではなく、両者の補完的な関係を想定して追究していくべきであろう。
 また、本稿の論点は「渡嶋蝦夷」の所在地にも及ぶ。著者は「渡島」が秋田・津軽と別の固有地名として見え、しかも津軽より北にあることを指摘しつつ、アイヌ民族に乗馬の風習がないことなどから、養老二年(七一八)に馬千疋を貢献した「出羽渡嶋蝦夷」と北海道を結びつけ難いとし、結論として、津軽を鯵ケ沢付近、渡島を十三湊付近とする説を提示、渡島蝦夷と対立する粛慎を、北海道に当てている。「渡島」については文献史料の解釈からもこれを北海道に比定すべきという説が提示されており、評者もこれを妥当と考えるが、養老二年の事例が渡島を北海道と見なす上でやや障害となることは確かであり、著者の説はこの点を重視したものといえよう。
 一方「粛慎」を北海道に比定する立場から、同じく「アシハセ」と訓じる「靺鞨」との関係について論じたのが、第二節「粛慎と靺鞨」(初出一九八九)である。「粛慎」が七世紀以前、「靺鞨」が八世紀にみられる用語であることから両者を連続的に捉える理解があるが、著者は八世紀初頭段階では渤海国の情報等に関連して大陸の靺鞨族に関する情報が将来されていたはずであるとの前提から、靺鞨を中国大陸北東部の靺鞨にあて、「アシハセ」という訓は「境外の蛮族」という一般的な意味に過ぎないとする。粛慎(靺鞨)については、考古学的な成果をもとにこれをオホーツク系文化集団にあてる説もあり、評者もこの点について定見を持たない。ただ天武五年(六七六)に新羅使に引き連れられて来日した「粛慎人」の事例(『書紀』天武五年十一月条)などは、「粛慎」を著者のように列島内部(北海道)にあてる際不利とならないか。いずれにせよ、東北・北海道や北東アジア地域における「北方交流」については、考古学的な成果を基礎に近年急速に知見が増えており、東北・北海道間の盛んな「交流」が指摘されてきている。こうした点を踏まえた議論の深化が期待される。
 第三節「秋田城と出羽国府」(新稿)は、こうした北方交流の一つの舞台である秋田城に関するもの。秋田城については天平五年(七三三)ないし天平宝字年間以降延暦二三年(八○四)までの間国府機能が併置されていたとする理解が長く行われていたが、近年今泉隆雄氏が、秋田城に国府が置かれたことはなく国府は一貫して庄内地方に置かれていたとする理解を提示されており(「秋田城の初歩的考察」一九九五)、本節では秋田城国府説の立場からこの今泉説の批判が試みられる。例によって論旨は多岐にわたるが、批判の焦点は、秋田城五四次調査出土の天平宝字三年(七五九)と推定される出羽国司解正文断簡(一一号漆紙文書)の解釈にあてられる。すなわち、この文書を秋田城以外にいる出羽国司から秋田城に駐在する按擦使にあてられそこで廃棄されたものとする今泉説に対し、著者は按擦使宛の文書が按擦使の常駐地である多賀城でなく秋田城で保存・廃棄されていることを理由に、この文書が宛先で廃棄されたものでなく、なんらかの「機能」を付されて差し出しに戻されたものとして、秋田城国府説を実証するものと説く。そして、天平五年の出羽柵移転と同時に国府が秋田の地に移転したという立場から、諸史料に対する解釈を述べる。按擦使宛の文書が多賀城で保管されるはずという著者の原則論に立てば、秋田城においてこの文書が出土しているという現実を説明するには何らかの特別な事情を想定せざるを得ず、差し出しへの返送を想定する著者の説も、一つの案と言えよう。
 しかし著者がこの点をもって秋田城国府説の成立を説く点はどうであろうか。研究史の流れから見れば、秋田城国府説も非国府説も、『続紀』等国史の記事の解釈を基軸に立論されてきたのであり、今泉説の立脚点も、従来関連づけられて考えられてきた秋田城停廃問題の記事と出羽国府移転問題の記事について、むしろ両立しない全く別の記事と考えるべきことを、当該記事自身の解釈から導き出した点にある。木簡や漆紙文書等の「ナマ」の出土文字史料は、それ自体としては多様な解釈を許すことが多く、今泉説でも補強材料として使われているにすぎない。よって批判の焦点も、むしろこの点に向けられるべきではなかったか。

 四
 第四章は「海外交渉」として、対外関係に関する論考がならぶ。第一節「大宝度遣唐使と「国史云」」は、大宝元年の遣唐使について扱った短編で、西本願寺本『万葉集』一―六二の春日蔵首老の歌に付された書込にみえる「国史云」の出典に関して、『扶桑略記』中にこれと類似する文体をもつ記述が二例あることを指摘し、これらが同一の出典に基づくものと推定する。
 第二節「渤海首領考」では、古代史料に見える渤海の「首領」の実体が検討される。渤海の首領については、渤海各地域に割拠する靺鞨諸部の在地首長との関係など、渤海の地域支配・社会構成に関する重要な素材として注目されているが、本節では、前稿「渤海の首領について」(初出一九九三)以後の批判を踏まえつつ、これらと一線を画す自説を再論している。論点は二つある。一つは『類聚国史』延暦十五年(七九六)四月戊子条の渤海沿革記事にみえる「……其百姓者靺鞨多土人少、皆以土人為村長、大村曰都督、次曰刺史、其下百姓皆曰首領」の解釈であり、著者は傍線部を「其の下の百姓、皆首領と曰ふ」と訓読するのが自然であるとし、ここでいう「百姓」を事実上「戸主」すなわち「戸の統率者」と解釈する。また第二の論点として、渤海使の構成員としてみえる「首領」が取り上げられ、その実体を交易に従事する地方首長や下級役人とし渤海政権と靺鞨諸族との政治的関係を見て取る先行研究に対し、前述の「戸主」層が水手など船内の様々な雑役に従事したもの、という見解を提示する。『類聚国史』の記事は確かに難解であり、著者の読み方も十分成立の余地があろう。ちなみに大隅晃弘氏は、著者と同様の読み方に立ちつつ、首領=「百姓」を有姓者と理解し、無姓者に対する支配層として理解する(「渤海の首領制」『新潟史学』一七 一九八四)。大隅説はこの論文にも引用されているが、評者としてはこの説に対する著者の考えについて詳論して欲しかった。
 第三節「蕃国国書の開見」では、律令国家の「外交権」に関して盛んに議論されている、新羅使・渤海使の国書の「開封権」の問題が検討される。宝亀二年(七七一)の渤海使鳥須弗来朝時のトラブルをきっかけに着岸地国司に渤海国書開封権が付与され、その後宝亀十年(七七九)に至り新羅使国書の開封権が大宰府に与えられたことを説く石井正敏氏の所説(「大宰府の外交面における機能」一九七○など)に対し、著者は『続紀』宝亀十年十月乙巳条の解釈や八世紀後半の新羅使来朝時の実例から、宝亀十年以前から中央政府の派遣した使者が着岸地で国書を開封していたと論じ、関市令蕃客条がその法的根拠になると指摘する。また著者は同時に、外交使節が入京後表・信物を天皇に進上する「受諸蕃使表及信物儀」の変質を宝亀以降国書開封が着岸地で行われるようになったことに結びつけて理解する田島公氏の所説(「日本の律令国家の「賓礼」」一九八六)についても同様の立場から批判する。もっとも天平期以降存問使等中央からの使者に着岸地での国書調査権が付与されていたことは、実は石井説でも主張されているから、天平以降については事実認識の上で石井説とは殆ど差がなく、著者の特徴はこれを「令制」に規制されたものと見る点に求められよう。
 ところで、評者がやや気になったのが、「国書」の実体をどう捉えるか、という点である。著者や石井氏は、八世紀後半における「存問使」等の国書調査・開封について、新羅使の貢物が「土毛」「信物」等とされていること等をこれらの使者が報告している点から導く。すなわち「土毛」等の語が「国書」に記載されていたとみるわけである。一方で著者や石井氏が問題としている、宝亀十年に大宰府に開封権が与えられた「国書」は、史料上で「表函」「表」とされるものである。田島氏がいう「国書」もこの「表」であり、著者も冒頭で国書について「表や啓からなる」と述べている。ではこの「表」に「土毛」等の語が記されていたのだろうか。しかし宝亀十年の新羅使が帰国する時に出された天皇の「璽書」によれば、天平宝字四年(七六○)来朝時以前からの新羅使が「軽使あると雖も表奏なし」とされており、今回の使についても「なお口奏を陳ず。理、例により放還すべし」などと記される(『続紀』宝亀十一年二月庚戌条)。これによれば八世紀後半の新羅使は王の「表文」自体を持参していないというのである。これが事実とすれば、八世紀後半の存問使が調査した文書は「表」とは考えられず、「土毛」等と記されたのは「表」にあらざる「国書」ということになってしまう。つまりこの議論の中では、「国書」の理解に多少の食い違いが生じているのではないか。あるいは評者の誤解かも知れないが、この点でやや混乱を招く恐れがあるように感じた。
 最後に付論では、史料論として二つの論考が収められる。「遠江国浜名郡輸租帳の史料性」(新稿)では、浜名郡輸租帳について国衙段階での作成時に一定の操作が加えられたとする虎尾俊哉氏の説に対し、作為性を否定する立場から解釈を試みる。また第二節の「『令義解』の撰進過程」(初出一九九九)では、令義解の撰進過程を四段階として捉える押部佳周・水本浩典らの所説に対し、@先駆的段階(天長三〜六年頃)、A本格的選定(天長六〜一○年初)、B繕写段階(天長一○年二月〜一二月)の三段階で理解すべき事を説いている。
 
 以上多岐にわたる本書の内容をかいつまんで紹介してきた。評者の力不足から来る誤解等もあるやと思われるが、お許しいただければ幸いである。本書の多彩な内容についてはすでに十分述べてきたので、ここでまとめ直す必要もなかろう。ただ本書を通読してあらためて感じるのは、著者の関心の広さ、発想の柔軟さ、そして議論の周到さである。一見定着したかと思われる学説に対しても、先入観を排し独自の視角から積極的に新説を提示していく。また以前の論考についても常に補強材料を提示し、仮に成立しないことが明らかになった場合には思い切って前説を撤回して再論する。著者の研究を特徴づけるこうした姿勢は、「交通」をメイン・テーマとする本書においても見事に貫かれており、後学として学ぶところが多い。
 また繰り返しになるが、文献史学の立場からの古代交通研究が一書にまとめられたことの意義も少なくない。「交通史」というテーマは、国制史のテーマであると同時に地域史のテーマでもあり、マクロ・ミクロ両側面からのアプローチが必要である。考古学・歴史地理学的な調査の進展により地域史的・ミクロ的な研究成果が今後蓄積されていくことと思われるが、それらを総合的・マクロ的な視点で理解していく上では、文献史学の果たす役割はまだまだ大きい。その意味でも、まずは文献史学の方法論に立脚した古代史像・交通史像の構築が今後も望まれる。本書における数々の問題提起は、後学に向かって示された、そのための一つの道標となるであろう。
(ながた・ひであき 東北大学史料館研究員)
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