辻本弘明著『中世武家法の史的構造』
評者・新田一郎 掲載誌・日本歴史No.632(2001.1)

 著者・辻本弘明氏の研究は、本書目次に見られるように、それぞれが日本中世法制史の中心的な主題に関わるものでありながら、初出の場が、大学の紀要や同人誌など比較的マイナーな媒体が多かったこともあってか、これまで他の研究者によって本格的に取り上げられずにきた憾がある。このたび著者の主要な論文が一書にまとめられ参照が容易になったことによって、あらためて著者の研究の評価が問われることになるだろう。
 まずは目次を掲げる。
(目次省略)
 本書の議論の前提をなしているのは、日本中世の武家法をヨーロッパ中世の「封建法」と基本的に同質とする認識である。日欧中世の比較研究はこれまでにも多くの研究者によって試みられてきたが、従来は比較の対象として主としてドイツが取り上げられてきたのに対して、本書はしばしばイングランドに触れていることが、顕著な特徴をなしている。評者としても、日本中世との比較研究の対象としてはドイツよりもむしろイングランドの方が有望ではないか、という漠然とした印象を持っており、著者の着想には大いに関心をそそられる。着想の持つ可能性を認めた上で、しかし本書の叙述の具体的な内容については、不満を覚える点が少なくない。いくつかの点について、以下に指摘する。
 まず、本書の背景にある構想を窺ううえで、歴史的な環境条件を異にするドイツとイングランドにおける「封建制」の構造や展開の差異の如何、その差異が日本との比較において持つ意味の如何についての認識が重要であるにかかわらずその点についての言及がなく、イングランドとの比較が選択された理由が判然としない。ここは比較研究を成り立たせる肝要の点であるだけに、総論としての説明が欲しかったところである。
 そもそも著者のイングランド中世法理解について、評者には十分に納得しかねる点にもある。たとえば第七章で、コモン・ロー(Common Law)を「国王(封建君主の資格において)と諸侯達とに共通な法という意味」と説明しているが(三〇五頁)、「王国全土に共通にもちいられるcommon to the whole land」法であるがゆえにこの名で呼ばれたと説明されるのが普通であろう(例えば田中英夫他編『英米法辞典』)。この意味でのコモン・ローは、個々の封建領主のもとに行われるローカルな法の束からなる「封建的feudal」は国制構造に対して対抗的な性質を持つのであり、国王がコモン・ローを主宰するのは「封建君主の資格において」ではなく、それとは異なる構造に拠るのではないか。
 この点と関連して、第一章で著者は、東大寺東南院に伝存した天徳三年十二月二十六日付太政官符案について「国司自身の権限にもとづいて国司自身が執行状として太政官符の「案文」を作成し東南院に宛てたのであろう」(三七頁)と推論し、イングランド中世封建諸侯の「Return of Writs」の特権との類推のもとに、「封建制度における封建関係は私契約が基本である。公文書をわざわざ私文書たる「案文」に作り替えるところに意味があ」る、と述べる(四二頁)。太政官符案の交付によって、国司と東大寺との間に「私契約」たる「封建関係」が成立した、とする理解のようだが、官符案が国司のもとで作成されたとする史料上の根拠は示されない。代わってその「所論を補強するに役立つ」として提出されるのは、十六世紀の筑前守護大内氏の安堵状の案文に守護代が加えた「裏封」であり、これを「私文書としての「案文」に公的性格を付与したもので、「裏封」する守護代(郡代)の公的性格に基づくもの」とする佐伯弘次氏の解釈を退け、公文書を領内に執達する際に「自己の権力意思内容に変改して伝達する」手続きとして「封建領主権力に含まれるもの」と説明する(四二頁)。しかし評者の見るところ、史料に即せばむしろ佐伯氏の解釈に説得力がある。十世紀の国司と十六世紀の守護代の権能を無媒介に並列して「封建制」を論ずるのは、いずれにせよ類推の濫用との感を免れない。
 ここで比較の対象とされているイングランド中世の「Return of Writs」とは、コモン・ローに基づき国王から発給されシェリフを介して送達された令状について、その所領内について執行を請け負い復命(return)する役割を、領主に認めたものである(訳語としては、著者が赤澤計真氏に拠って用いる「令状返還権」でなく、小山貞夫氏訳「令状復命権」が適切であろう)。領内へのシェリフの直接介入を退ける「特権」として構成されたが、その一方で、国王令状の執行のシステムに封建諸侯を組み込む作用をも持ち、諸侯の所領の「封建的」な構造と、それを貫いて「王国全土に共通に」作用を及ぼそうとする王権との間の緊張関係が生み出した均衡の、制度的な表現である。この両者の間の均衡のありかたが、イングランド中世の国制の特質の一端を示すのであり、日本との比較を試みるのであれば、そうした構造的特質が焦点に据えられるべきではなかったろうか。
 なお、散見される史料解釈の不備についてもう一点だけ指摘しておく。第五章は、「惣領之法」と「諸人所領之法」とを対比的に論じ、前者を「惣管領権を所得している者の支配領域一円に施行しうる法」、後者を「惣領知行と趣を異にする」「在地の法」とする。しかし、論拠として引用された彼杵庄関係の史料にいう「至惣検者、可依惣領之法」は、惣検が庄内一律の基準によって行われるべきことを地頭が認めたものであり、ここでいう「惣領」はひとまとまりの所領全体を指すものであって、いわゆる「惣領制」の「惣領」とは違う。また一方の「諸人所領之法」の文言を載せる史料は、四至を定めて区画された所領については、いちいち内部の名字を指示しなくとも、惣領以下他人の競望には及ばない。それが人々の所領知行のあり方(諸人所領之法)だ、と主張しており、「惣領之法」との対比は噛み合っておらず、両者を対置するところにそもそも無理がある。ここには、「法」という史料上の用語と近代的な「法」との意味の混用が見られるように思う。
 (にった・いちろう 東京大学大学院法学政治学研究科助教授)
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