由谷裕哉『白山・立山の宗教文化』

評者:奥田 直文
「北陸宗教文化」23(2010.3)

 本書は北陸の霊山として名高い白山と立山を宗教民俗学的なアプローチによってその内実を解き明かそうとするものである。
 本書の構成は以下の通りになっている。

  序論 地方霊山の位置づけと研究視角
本論・第一部 立山の地獄説話と開山伝承
第一章 立山の宗教文化と地獄説話:概観
第二章 『法華験記』に描かれた立山地獄説話
第三章 『今昔物語』巻十七における立山地獄説話とその中世的展開
第四章 中央と地方霊山における本地説と開山伝承
本論・第二部 白山加賀側の長吏・衆徒・社家
第一章 十四世紀から十五世紀前半までの白山加賀側の衆徒
第二章 一揆時代における加賀白山
第三章 一揆時代の加賀白山を巡る五つの宗教テキスト
第四章 一揆時代後半における三代の白山本宮長吏・再考
第五章 近世下白山における長吏と社家の関係
結論 成果と課題

 序論ではこれまでの地方霊山の先行研究を@地方霊山信仰史A里山伏の在村活動B廻壇活動や山岳登拝の研究という三つの観点から整理し、大多数の地方霊山以外の地方霊山における宗教者集団の宗教活動や宗教的世界観はほとんど解明されなかったと批判する。そして、@ではつかみ取ることができなかった地方霊山開山以前の伝承と開山以降の地方霊山に依拠した修験、もしくはより広義に衆徒の組織論的な分析を本書の目的としている。
しかし、注意しなければならないのは、著者は実証史学を目的としていないことである。あくまでテキスト分析などを通じた宗教民俗学的なアプローチであることは全体を通読する際に重要な問題となるであろう。

 第一章では、立山の宗教文化と地獄説話を概観する目的から立山に関する先行研究を紹介し、第二章での分析の前提として『日本霊異記』を分析している。そして、その地獄説話を記紀神話に表出している他界観が反映しているものとはとらえず、因果応報のような仏教の教えを説くための説話として見出し、叙述構造として善報による蘇生よりも悪報としての地獄堕ちの方が強調される傾向にあるとしている。

 第二章は、開山伝承と地獄説話の前後関係と『法華験記』の分析である。
従来の立山信仰史の研究では、康済律師や佐伯有若による開山を経て、長暦4年(1040年)頃までに地獄説話が都の周辺にまで知られるようになったとしていた。
しかし、著者は修験系霊山の開山の定義を、「初めて信仰登拝者が登った」ことではなく、「一山組織の確立=開山」とする。そのため、『類聚既験抄』と『伊呂波字類抄』のテキスト成立時期の分析と熊野、大山の開山伝承の成立との比較から考えて、中世における立山開山伝承の成立を一山組織の確立と開山とした。
この説は、従来の立山研究の流れから考えると画期的なことであり、著者のテキスト分析の力が遺憾なく発揮されたと言えよう。
そして、11世紀前半成立の『法華験記』に存在する地獄説話を開山伝承成立以前の立山における宗教的状態ととらえて分析を行い、立山地獄説話は『法華験記』の中で的確に分類分けできず、法華経の利益より悪報説話としての側面を強く有するとした。
ただし、この章を読んだ印象では、従来説の康済律師や佐伯有若をどう位置づけるべきかが明確に示されていないことが残念であったといえる。空想の人物ならともかく実在の人物であった佐伯有若を著者の研究の中でどう位置づけるのかが問題であろう。

 第三章では、立山に関する説話の変遷とその意味について考察している。
『法華験記』とその約100年後に編纂された『今昔物語』では違いがみられ、『今昔物語』の方では全体として諸霊山や崇拝対象としての神が無視されるという違いがある。また両者の立山説話の違いは@今昔では地獄の描写が欠落している。A今昔物語では仏教教団の介在が明確、とする違いが見られる。
また、久保尚文が指摘したことであるが、立山説話の初出である『法華験記』の観音代受苦説話よりも『今昔物語』の地蔵代受苦説話のほうが長く継承されるということを高く評価する。そして、『地蔵菩薩霊験記』の検討の中で『地蔵菩薩霊験記』は『今昔物語』を典拠としたと結論付ける。観音と地蔵の違いが現れることについて筆者は『法華験記』、『今昔物語』の成立時期にたまたまそれぞれ観音や地蔵菩薩信仰が流行していたと見るべきではないかとしている。そしてそれ以後の『地蔵菩薩霊験記絵巻』と15世紀前半頃成立とされる『三国伝記』内の立山説話から中世前半ころには阿弥陀による西方往生を説く本来の(天台)浄土教的な環境が確立してきたとし、それが開山であったとしている。
ただ、最後の結論を導くにあたって、もう少し今昔の中に見られる、阿弥陀と地蔵の兼修という修行形態を具体的に述べるべきではなかったかと紹介者は考えている。

 第四章では、中央と地方霊山における本地説と修験道の成立が論じられる。
空海・最澄・円珍らによる将来に仮託された丹生津比刀E大比叡・小比叡などの護法神に関する意味付けは、山岳宗教の開祖的人物がそれぞれ祈念したり修行の過程で感得したものであるとされてきた。それに対して吉野金峰山と熊野三山などの本地は役小角や千与定という犬飼が仏教的な聖性によって感得したという違いが見られる。
つまり中世以降に制度化されるように本地と垂迹神とが呼応する形で導かれたのではなく山林修行者、山中生活者が守護霊的な聖性としてその本地のみを感得したとする。
そして、本地感得のテキストは院政期に集中しており、古代からの山岳宗教勢力が律令を払拭した院権力と結びついたことで修験道教団が成立した、とした。
一方、立山は平氏との関係がかすかにうかがえるものの院権力と結びつく契機を持ちえなったために地方霊山という位置づけになったと結論付けている。

 本論第二部では、考察対象を加賀国の白山に移し、編年的に14世紀の一向一揆以前から近世の加賀藩支配下において活動した時期までを考察対象としている。

 第一章では、一向一揆以前の白山について、「衆徒」という切り口から活動実態を考察している。史料としては『白山記』『三宮古記』『白山宮荘厳中記録』の三つを中心とし、あわせて『源平盛衰記』も使用している。ただし、本書の特徴として言えるが、上記のテキストの史料中に登場する古い年号などは信憑性に欠けるとしたうえで、テキストは成立した時期の情報を表現するものとして取り扱っていることには注意が必要である。
白山の組織については、荘厳講衆と常行堂僧が衆徒中のエリートであり、その中から組織のトップである貫主が選出されたのではないかと推測している。実態として、問題の所在で示した「衆徒」が社僧か山伏かという点については、社僧的性格を有しているものの、山伏かどうかは充分に答えられないとしている。ただ、これまでの先行研究にあった荘厳講衆が山伏であったとする考えは根拠に乏しいとしている。そして、白山の多くが仏教的な宗教者が主体であり、組織が僧方と社家からなるといった見方は再検討が必要としている。
また、『源平盛衰記』の院政期の安元事件の部分は、金沢文庫文書やさらに時代の下る『白山記』とも対応しているので14世紀の情報として中宮八院を含む加賀白山の衆徒を知る貴重な情報源として再評価すべきとしているのが新しい視点であり興味深い。

 第二章では、一向一揆時代の白山と一揆門徒衆とがどのような関係にあったのかが考察されている。従来は、一向一揆に際して一貫して本願寺側に与力し、多くの施設が−揆の中で焼失したことや、蓮如が白山を誹謗すべからずと述べた言葉が注目されていた。
本章では、そうしたことから離れ、白山長吏関係の史料と真宗寺院の立地から考察を行っている。そして永正一揆(1506年)の前段階では、本願寺系列の一揆門徒は白山のような旧勢力に対抗的であるよりもむしろ親和的だったとした。しかし永正一揆によって越前から加賀へ移転してきた超勝寺・本覚寺らが一揆のヘゲモニーを握るに伴って、何事も本願寺に請わねば権利を獲得できないほど弱体化したと評価している。

 第三章では、15世紀後半から16世紀前半に書かれた『廻国雑記』(1486年頃成立)、『白山禅定私記』(1508年)、『古山の法則』(1525年)、『大永神事』(1527年)、『拾塵記』(16世紀)が考察されている。
それらの考察から、−揆時代の白山加賀側と限定していても各々の白山での修行観や白山そのものの宗教的位置づけが異なることや多様な白山の修行観や白山信仰がありえたとすると加賀側だけでも禅頂の仕方が複数あったと思われ、『白山記』に紹介された禅定道も、複数の内の一つにすぎなくなっていたこと、またローカルな宗教者のテキストでは白山を仏法守護の権現にして母神であり、16世紀に観音のような本地仏ではなく女性・母親という人格をもった権現として崇敬されていたということが導かれている。

 第四章では、一揆時代後半における三代の白山長吏再考として第二章で扱かった澄祝、澄辰、澄勝の三人の長吏を考究している。その考察で澄祝、澄辰は公家に近い存在として『言継卿記』に登場し宗教者としての職能を感じさせない形で登場する。また澄勝は澄辰の息子澄明の娘婿というよりは、澄辰の娘婿として京都の公家広橋家より迎えられたと推測した。また長吏家の真言宗参入は近世初期の真言僧空照の介入を起点としているのではないかとの推測も行っている。

 第五章では、白山本宮の近世を長吏と社家の関係とその変化について分析している。加賀藩の寺社政策は、従来、−貫した方向性を持った揺るぎないものと解釈されてきたが、著者は偏差の大きい個々の寺社に対し、加賀藩は場当たり的に対応し、したがって相当曖昧さを残したものであったと評価している。
そのうえで、別当、社憎が関与した神社の場合、藩の対応はケースバイケースであり、@神社、寺院の両方で書きあげを提出している場合、A寺院としては−顧だにされない場合、B権現杜と思われるのに神社としては顧慮されず寺院としてのみが出てくる場合、と3類型に分類する。そして、下白山は@とAの中間であると評価した。
そして、白山禅頂の祭祀権をめぐる争論で加賀側が越前側に敗れたことにより禅頂への登拝や山中の堂社での修行にさまざまな制約が加えられた結果、それにともなって入峰の統括をしていたと認識されていた長吏職が麓の下白山での宗教活動に専念せざるを得なくなった結果、下白山までの権利を有していた社家と競合関係になったとする。
そうした競合関係のために、吉田家からの許状や勅願所となるなど、新たな面も見られたが18世紀後半に至って、長吏と神主中の争いが発生し、長吏は神主中の支援なしに長吏になりえなくなっていたとした。

 以上を踏まえながら、繰り返しになるが本書の特徴を述べておきたい。
やはり特徴的なのは著者の研究視角とその結果であろう。著者は「歴史研究と袂をわかつ」(p.328)と言しているように、「宗教民俗学的アプローチを志向する」(p.18)としている。
そのため、テキスト分析とテキストの成立について綿密に考証されているが、そのテキストに書かれている過去の伝承や記録について厳しく吟味し、史料中に登場する年号をそのまま信じるのではなく、そのテキストが成立した時期の情報であると評価する姿勢が本書の特徴となっている。
そのため、論の進め方については非常に慎重であり、各論に入る際には、それまでの考察が必ず復唱されている。
ただし、こうした姿勢の中で問題となってくるのが、これまで地元の歴史学研究の中で指摘されてきたテキスト中の過去の伝承を本書のテーマの中でどう位置づけるかであろう。

 次に紹介者の興味に即して言えば、本論第二部の第五章、近世の白山における長吏と社家の相克については、これまでの加賀藩の宗教政策研究に見直しをせまる画期的な論であったと言える。特に神社という視点から本章を見た場合、これまでとは違った観点で加賀藩の宗教政策を捉える事ができよう。しかし、課題として残るのは、近世における白山内の組織が明確ではなく、中世から近世に移行することによって職員数や組織に変化が見られることは間違いないとは思うが、社家との相克を描く際に、長吏だけではなく、その下に位置する人々についても言及してほしかったと思う。
以上長々と紹介してきたが、本書は、これまでの研究にはない様々な新しい視点が含まれており、北陸の修験道を考察しようとする際の必読書であるといえる。



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