長澤壮平著『早池峰岳神楽−舞の象徴と社会的実践−』

評者:藤田庄市
「宗教と社会」Vol.16.(2010.6)

 筆者は本書を深い感慨を覚えながら高く評価するものである。なぜ、「高い評価」かといえば、本書は20数年の時を越えて、筆者の体験に応答してくるからだ。そのためまずは筆者の体験を記すことをご容赦願いたい。
 1980年代後半から90年代初頭、筆者はフォトジャーナリストとして我が祖国各地の神楽をはじめとする宗教民俗芸能の撮影取材に夢中になっていた。眼前に繰り広げられる神事芸能に心身を熱くしながらシャッターを切りつつ、ある思いがいつも湧いていた。
 「この感動は一体何なのだ。あの所作の宗教的意味は何なのか。舞手の身体や精神にはなにが去来しているのか。荘厳などの儀礼の場の意味性は何なのか。ここに集う人々はどんな思いをいだいているのか。この民俗芸能の背後にはいかなる自然と人々の営みの歴史が積み重ねられているのか。そもそも、神とは、仏とは、宗教とは何なのだ」
 早池峰神楽はその優れた芸質から、こうした思いの噴出がとりわけ強かった。真夏の宵宮と翌日の例大祭に舞われる演目の数々。また正月における厳寒の雪景色のなかでの村への門打ち。そうした場に立ち合わせてもらうなかで、快い心のざわめきがいつもあった。
 しかし、現場での感動のなかに生じたさきの疑問の数々は、あとで書物を読んだりしても、歴史的な面と所作や次第を除くとほとんど言及されていなかった。とりわけ宗教性の解明については強い不満が残った。宗教民俗芸能でありながらだ。また、今、生きている人間が展開する行為であるにもかかわらず、同時代すなわちコンテンポラリーな問題意識は感じられなかった。現代という時代の渦中で健闘する人々の息遣いはほぼ無視され、伝統的で素朴な民俗芸能という枠組みのなかでの視座であった。
 加えて、宗教民俗芸能の現場に立つと、奇妙な違和感が常に伴っていた。まず自分だ。力メラマンは異物で邪魔な存在だった。それから少数ながらシラッとした(のが多かった)場違いな人たちが目立った。これはだいたいが研究者だった。行政関係者も場違いな感じがした。或る所で無形文化財指定に関わる折に出くわした時は、審議委員への応対のさまがなんとも浮いていた。観光客。これは信心深そうな人から野次馬的見物人までバラエティに富んでいた。この「違和感」は「現代」という時代がもたらしたものと、すぐ気づく。そして個々に見られる諸事象も、間違いなく今の宗教民俗芸能の場に属している。こうした側面に注意をはらった書物や論文も当時は見かけなかった。
 以上のようなことをいつも感じつつ、筆者の取材対象から宗教民俗芸能は数を減じていった。抱いていた問題意識を追及することもなかった。
 時は流れ、目の前に出現したのが本書である。驚いた。かつて筆者の漠然とした疑問でしかなかったことを、本書は的確かつ一層豊かな問題意識を以って、学問として、トータルに緻密に論証していたのである。

 本書の構成を示そう。初めに注目すべき「序」があり、次いで本文に入る。
 序章において研究の方法と目的および岳神楽の概説がなされる。
 「第1部 舞の意味と力」は6章にわたり式舞の分析が進められる。式舞とは数多ある演目のなかで「神事的で重要な機会には必ずはじめに舞われる」6つの舞である。鶏舞、三番叟舞、八幡舞、山の神舞、岩戸開き舞から成り、「所作の次第と空間構造」がそれぞれ克明に提示され、分析がなされる。序章と第1部によって、300頁弱のうち約3分の2が費やされている。
 「第2部 人々の実践」は次の通り。章のみならず節まで紹介するのは、コンテンポラリーな問題意識と精神性を核にしたその解明ぶりを感じ取ってもらいたいがためである。

 第7章 「上演」に根ざす岳神楽の近代
  1 問題設定
  2 近代における変容
  3 演者における抵抗感と「感じとることへの信頼」
  4 「いまの上演」の相貌
  5 神事執行の実践
  6 結論
 第8章 心的資源としての岳神楽
  1 問題設定
  2 地元コンテクスト
  3 地元外コンテクスト
  4 結論
 第9章 「権現さん」の型と身体
  1 権現と獅子頭
  2 権現と早池峰山のイメージ・パターン
  3 儀礼次第と空間の型
  4 生活空間における実践
  5 獅子頭と舞の喚起力
  6 結論
 第10章 上演の場
  l 上演の時空
  2 演者における身体技法と意味の受容
  3 演じられている型の統一
  4 環境の諸要素
  5 上演の場の体験から、実践の再生産へ
  6 演じられている型の相貌
  7 主観的経験の力動性伝達のメディア
  8 結論
 終章

 以上の構成からわかるように、本書の関心は「現在」にある。第1部の「舞の意味と力」にしても眼前にくりひろげられる舞を把握せんとしており、本書は歴史的側面を考慮しつつ、現在事象としての民俗芸能と実践のありかたを問題にする。解明するのは「歴史的でありつつも現在的であり、両者が切り結ぶところにある神楽のありかた」なのである。
 この解明にむけ、本書が議論の中心に据えているのが「身体的次元」だ。さきに「序」(序章ではない)を「注目すべき」と評したのは、本書が冒頭で「身体」(当然ながら精神の営みと不可分の)に言及しているゆえである。
 神楽は神事である。ならばその原動力は人々の豊作や防災への願いや感謝の念である。ところが神楽は「芸能」であって教義や説教ではない。そのため「非言語的・認知的」な「圧倒的意味」が集積されたパフォーマンスとして現前する。その身体は「意味によって作動しており、意味それ自体といえるほどでもある」。作動した身体すなわち振り付けは、「清らかさ、猛々しさ、優美さ、いかがわしさなど、さまざまな認知的意味を喚起する」。つまり本書の問題探求の磁場こそが、この「神楽の認知的喚起力」なのである。そして「身体経験の次元」を論証可能とするには、生身の現代人をまな板の上にのせる、すなわち研究対象とする以外にない。歴史を見据えつつ、神楽の現在を解明しようとする以上、「身体経験の次元」が議論の中心になるのは必然であり、それは本書の方法論を編み出してゆく。

 研究課題の解明のために本書のとる方法論は、筆者のみるところおおよそ3つである。解明の成果とともに紹介したい。
 第1はビデオ映像を用いての舞の型と空間構造の分析である。第l部の「舞の意味と力」はこの方法でなければ成しえなかったであろう。まず文字化・図示化によって所作次第がまことに詳細に提示される。最も少ない権現舞が37場面、最大数の山の神舞は114場面に及ぶ。そのうえで所作次第の構造が図表化してまとめられる(権現舞のみなし)。これに対応させるべく舞の所作を示すコマ割写真が掲載されているが、読者はその細かさに驚くであろう。最少の権現舞は36カット、最多の山の神舞が105カットに及んでいる。これはビデオが研究の補助手段ではなく主役にあることを雄弁に物語っている。
 こうした文字化・図示化と映像による精緻な所作次第の事実の提示のうえに分析がなされる。これにより恣意的感覚的に陥る危険性は相当に解決され、また客観的で冷静な論議が担保されるはずである。
 それでは「鶏舞」の分析にごく一例を見よう。舞において袖の使い方に着目した部分のなかで、袖のすそを持つ所作を「神霊や魂を引き寄せ、またそれによって力を得る」意味があるとする。この分析の基礎には折口信夫らの研究が踏まえられている。首振りについては、神楽衆に伝わる言説から九字切りの修法に対応するとして、「悪霊払いや場の清めといった悪霊強制敵な意味がある」と解釈する。所作のつらなりを図表化することで「段階的反復構造」を明らかにしたうえで、他地方の神楽と比較し、「厳密な呪術的儀礼システムとして考えられる」と断じる。こうした鶏舞の分析の結論としてこう述べる。「考察によってはっきりしたのは、岳神楽の鶏舞を構成する修験・密教の宗教儀礼的構造である。多くの推測を含み、部分的に意味不明であったが、鶏舞が宗教儀礼としてかなり整合的な体系であることはほぼ間違いないだろう」。
 本論の初めに筆者が体験として記した「あの振り付けの意味は何なのか」という疑問に、本書は鶏舞のみならず、式舞及び権現舞について応答してくれた。
 続けて本書は、「(宗教民俗芸能を)これまで、ほとんど「芸能」としてしか扱わなかった先行研究が見逃してきたことは、非常に大きいといわざるを得ないのである」と、鶏舞の章の結語として述べる。まったく同感である。先行研究は同時に、民俗宗教の豊かさとその根源をも見失っていたと思う。
 第1部の「感覚的である舞を言説的レベルに再構築する試み」は成功したといえよう。

 本書の方法論の2つめの特色は、第2部を成立させた調査データ、すなわち「当事者の既述や、インタビュー、談話、現場の観察など」であり、観客へのアンケート調査も含まれる。わけても中核は演者及び地元観衆へのインタビューだ。それは質量とも睦目に値する重厚さであり、インタビューのやり方も「非指示的」と方法論を明示して行っている。
 この研究方法によって神楽と現代社会の接点のダイナミズムが、精神性(スピリチュアリテイ)を基軸に解明される。それは文化財化(学術研究、行政)の「強い規定」や興行(観光業者、行政)の波のなかで、岳神楽が毅然と己れを確立し続ける諸相の分析でもある。その解明、分析を可能にしたのは「一介のみすぼらしい大学院生だった」著者の懸命な研究姿勢と、受け入れた神楽衆の「心やさしい励まし」であったろう。行間にそうした人と人のふれあいが感じられる。
 神楽衆のスピリチェアリティをインタビューによって本書は引き出し、意味を解明する。ほんの一例。舞っているとき「気持ちの中に、神様が住んでいるような状態で出るんです」という応答は、山の神舞を手がかりにして次のように解かれる。「(山の神舞の習得後)すでに外部に成立している客観的な意味が、人間の内部にゆるやかに取り込まれるのであり、この意味で、身体化による熟練という、型と意味世界の内在化によって、岳神楽の型の世界は、演者の内なる世界となるのである」。この生硬な文章のなかに、「具体的な身体経験の次元を議論の中心に据える」という「序」に示された覚悟の方針が貫かれているのが見て取れる。
 山の神舞を論じる際、本書は「演者が『神』を『信仰』しているか否かは問題にならない」と述べる部分がある。これは著者が民俗宗教や伝統宗教の身体性に気づいているからだ。この視点があってはじめて、民俗芸能の宗教的本質が見えてくる。また、身体化ということではこんな応答もある。「(舞に集中しすぎ)よくわかないってな状態で。でもそういう時って絶対魂がどっかにいってんですよ。でもその、危険なところがまたおもしろいんですよ」。「魂」や「危険」の言葉を膨大な応答からピックアップできたのは、芸能の危うさを聞き手がわかっていてこそ可能だった。この言葉は神楽衆の芸質の高さとそれへの関心の証明となる。観衆にとっては高い芸の表現力が、「(権現舞でいえば)型は現在のものとして活性化され、『祓い清め』の身体的な意味を喚起する」、その構造も明らかとなる。これは「感動」の分析だ。付言すると、「金色の目をした獅子頭という造形物と祈祷の舞が、、、」なる叙述がある。「金色の目をした」というところに著者が岳神楽を身体でわかっているさまも看取できる。
 以上を瞥見しただけでも、第l部で解明された「舞の象徴における意味と力」が「実践における中枢となって求心力を発揮して」いることが理解でき、第1部と第2部の有機的結合が図られるのである。

 方法論の3番目の特色は先行研究の批判的摂取である。本書は民俗芸能研究にしてはそれ以外の分野の多様な、殊に欧米の文献(含、翻訳)があげられている。唐突に思い出したのは40年以上も昔に読んだ堀一郎『日本の民間信仰』(岩波全書)であった。同書第l部には数多くの欧米人研究者の著作が引用され、論が展開されていた。当初戸惑ったものの、フィールドが日本であれ、民俗宗教という文字以前の心性を基盤とする現象を解明するには、これだけ広く文献に当たらざるを得ないのかと思ったものだった。本書もまた現代における岳神楽の諸側面を解明せんとする以上、欧米の文献が必要不可欠であったことが読んでみて、わかる。ちなみに先にふれた山の神舞の考察においてはバーガーとルックマンの「内在化」理論を援用していた。肝心なことはこれら文献を、本書は欧米人の「奴隷の学問」に陥ることなく、衒学的態度にも堕することなく摂取していることだろう。
 いずれにしても「式舞の構造」分析の舌足らずさ等に一部不満は残るものの、本書は民俗芸能研究、宗教研究における前人未到の業績といえるのではないか。また処女作は、ips細胞があらゆる器官になることが可能なように、方法論や理論、発想が多方面に伸張する力を胚胎している。著者の今後の飛翔に期待するものである。
(フォトジャーナリスト・(財)国際宗教研究所 宗教情報リサーチセンター研究員)

■書評へのリプライ(長澤壮平)
 まずはご多忙にも関わらず書評していただいた藤田庄市氏に、そしてこのような機会をくださった編集委員会のみなさまに深く御礼申し上げたい。本書は芸能や芸術といった特殊な事象を扱っているばかりか、その感性的な側面を掘り下げながら社会的相互作用にも目を配るといった特異な方向性をもつゆえ、かなり独特な内容になっている。このため『宗教と社会』誌上で要点を掲げていただくのは、大変貴重なありがたい機会である。
 藤田氏がいう「この感動は一体何なのだ」という想いは私のなかにもあった。宗教研究において芸能の類はかなりマイナーな対象だが、いくつかの民俗的芸能を見ていくうち、私はなにか圧倒的にメジャーな対象に向かい合ってしまったような感覚にとらわれた。それまで「民俗芸能」に対して抱いていた素朴で、年寄りくさい、古風な、素人の手慰みといったイメージは消えてしまった。なぜそんなイメージを信じ込んでいたのかと、まずは自分をとりまく社会的状況を疑いはじめたが、そればかりでなく、特異な芸、圧倒的な美、当事者の真剣な姿勢、観客の楽しみ、地元の社会統合、誇り、ハビトゥス、近代的再帰性、文化財、観光など、芸能や祭りに関わる無数の重要な問題群を前に気が遠くなる思いであった。
 そうしたなかで、一定の切り口から岳(たけ)神楽の現象を考察した成果が本書である。無数の問題群に圧倒されたものの、先行研究はそれらを部分的にカバーするに過ぎなかった。したがって重要な問題をできる限りとりこぼさないために、私はこれまでにないいくつかの視点と方法を編み出すことになった。それらは、1.ビデオ映像を用いた舞の分析、2.個々人の意識の重視、3.具体的身体性の重視、4.美学における感情象徴説の援用、5.現象学的記述、などである。いまにして思えば、これらの新しい試みが本書をいくぶんとっつきにくいものにしてしまったように思われるが、藤田氏がこれらの新しい試みとその成果を的確に捉えてくれたのは非常にうれしいことであった。

 さて、藤田氏が指摘してくれた通り、本書ではビデオ映像のデータを分析上の主役として使っている。それは岳神楽が芸能でありながらも、儀礼的な規則をもつように思われたこと、および井上隆弘氏による花祭の詳細な分析に触発されたことによって進められた方法であった。案の定、はじめに鶏舞を分析するなかで、たしかな手ごたえが感じられた。岳神楽の鶏舞は美しい。それは高度に統一された有機的全体をなすからである。それはとりもなおさず、人間の認知が鶏舞を「芸術的対象」として捉えがちということである。私にもはじめはそう見えた。ところがビデオの映像を用いて詳細に分析すると、整然とした呪術機能的な儀礼的構造が浮き彫りになったのである。それは美的振り付けと儀礼的構造とが寸分の破綻なく融合されていることを示していた。もちろん鶏舞の上演そのものが「清め・祓い」という呪術機能的意味をもつことはよく知られているが、本書によつて明示されたほどに一貫性のある整然とした儀礼的構造があったことが明示されたことはなかった。毛越寺(もうつうじ)の延年や黒川能といった稀有な芸能は、「行」そのものでありつづけている。それは当事者の厳粛な姿勢を見るだけで明白なことである。鶏舞の儀礼的構造の発見は、そうしたことが岳神楽にもあてはまることをほのめかした。
 一方、鶏舞は呪術機能的儀礼でありながら、場を清めるような感性的喚起力をもつ。こうした儀礼構造と感性的喚起力の統一が、式舞六番の基本的な性格と考えられ、この視点から残りの五番の探求を進めた。そして本書に著したように、それぞれの演目とその順序を一貫した儀礼的構造を感性的喚起力と統合させながら再構築することができたように思う。
 藤田氏から「式舞の構造」に不満が残るとの指摘があった。たしかにこの部分は、テーマの重要さにそぐわず展開に乏しいように見える。その理由は、始原、天、地、方角、山、太陽・皇祖という次第からなる「式舞の構造」それ自体がきわめて抽象的であることによると思われる。私は論拠を各演目の分析結果に制限し、抽象的カテゴリーから思弁を展開することは避けた。言い換えれば、ここで構成した式舞の構造は、各演目の分析結果のまとめ程度のものである。その結果、「式舞の構造」は驚くほどシンプルな一節になったのである。こうした抽象的意味構造の探求は、歴史的視角から古文書を資料にして行なうのが正攻法だろう。このやり方で進められた先行研究もあり、着実な議論が展開される余地があると考えられる。しかし本書ではあくまで過去ではなく現在への視角から、現在演じられている儀礼のすがたを軸として議論を進める方向をとった。現在演じられている儀礼や芸態は「退転している」という先入観のもとにあいまいに扱われてきた部分があるように思われる。しかし、本書で示したように儀礼の構造が一定の整合性と一貫性を持っているのであれば、そこから意味を引き出すことにも大きな有効性があると考えている。
 さらに藤田氏が、第2部「人々の実践」の勘所の多くを見事についてくれたこともありがたかった。それはおそらく氏が、深い学識を持ちつつ私などとても及ばぬほどに数多くの芸能や祭りを体験してきたことによるのだろうと思う。

 研究をはじめたころ、発言にもとづいて個々人の意識に接近するという方法に対しては、客観性の弱さゆえに頼りないという印象をもっていた。しかし、実際インタビューをしてみると、繰り返すごとに視界が広がり、勇気づけられるようなものであった。それは劇的な接近であり、新しい発見に満ちている。しかし、もちろんデータの解釈が有効かどうかそれ自体を分析的に行なうのが肝心であった。さもなければ、やたらに「信仰」の麗しさばかりに目を向けて強調したり、自然や先祖への感謝や、親や仲間への信頼や愛情に「伝統」「真正性」「アイデンティティ」「ロマン的」といった、とっつきやすいゆえにおおざっぱな、ともすれば安易な象徴になりがちな語をかぶせて、わかったつもりになってしまう。
 ともあれこうしたプロセスによって、当事者たちから多くを学べたのは大変幸福なことであり、そして、結果として本書が当事者の多くにも受け入れられたのは何よりうれしいことであった。
 個人の意識へ接近する方法について、人類学や民俗学ではそれほど議論されてこなかったが、社会学では繰り返し議論されてきたのはいうまでもない。解釈者の読み込みと、被解釈者の意思の重視とがせめぎあいながら、バランスが取られてきた。本書ではこうした方法を踏まえながら議論を進めたつもりである。しかし残念ながら日本の芸能や祭りの研究においては、その多くが解釈者の読み込みに偏っているように思われる。重要なカテゴリーに違いない「真剣さ」や「感謝」といった情動は多くの場合無視され、「真正性」や「ナショナリズム」といった理念的なレベル、もしくは利己的な戦略に焦点を当てたインストゥルメンタルなレベルの議論に終始する。このような議論は政治的事象にはふさわしいが、土着的な祭りや芸能に関しては二次的もしくは周辺的でしかない場合が多いように思われる。したがって、芸能や祭りに関わる社会的実践の研究には、未踏の広大な領域が残されているように見える。そこでは昨今社会学や人類学で浮上してきているような「身体経験」「絆」「二者関係」などが重要なキーワードになると考えられる。
 藤田氏がこれまでの経験を動員して、決して読みやすいとはいえない本書を読み解き、その荒削りさにも関わらずむしろ「多方面に伸張する力を胚胎」するものとしてあたたかく汲み取ってくれたことに、心より感謝申し上げたい。この評価に恥じぬよう、今後も精進を重ねていきたいと思う。
(南山宗教文化研究所 非常勤研究員)


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