山口 博著『戦国大名北条氏文書の研究』

評者:大石泰史
「古文書研究」69(2010.5)

 本書は、岩田書院が継続的に出版している戦国史研究叢書の第四冊目である。著者の手になる書としては、すでに『北条氏康と東国の戦国世界』(小田原ライブラリー13 夢工房 二〇〇四)の存在が知られていた。しかし、これは同ライブラリーの性格上、親しみやすさ、わかりやすさを前面に出したものであった。このたび上梓された著書は、前書を書き上げるにあたっての基礎情報(背景とも言えよう)である。まずは本書の構成を提示しておこう(以下、戦国大名北条氏を単に「北条氏」として表記する)。

 序 章
  一 北条氏文書に関する研究の現状
  二 本著の構成と視点
  I 印判使用をめぐる問題
 第一章 氏康による「武栄」印判の使用
 第二章 氏政による「有效」印判の使用
 第三章 氏康・氏政と虎印判状奉者
 第四章 幻庵宗哲所用「靜意」印判に関する考察
  補 論 所領分布から見た幻庵宗哲の政治的地位
  U 花押変遷と改判
 第一章 氏康花押の変遷
 第二章 氏直花押の変遷と改判
 第三章 氏政の改判
  付 編 一 「合討」(「相討」)の感状
      二 「諸州古文書」および「諸家古文書写」中の氏忠印判状写
      三 伊豆荻野文書中の吉良氏朝書状

 序章において、著者は北条氏の発給文書に関する研究史を整理している。そこでも明らかなように、北条氏の印判状や花押に関しては多くの研究者が論じている。『戦国遺文 北条編』(全六冊、東京堂出版)や『小田原市史 資料編北条一・二』(小田原市)が刊行されたにもかかわらず、近年、北条氏を冠したタイトルで出される論文が少ないのは少し残念であるが、それはこうした研究の層の厚さによるものであろう。そのような研究状況下において、著者は自身が『小田原市史』の編纂に関わっていたことを受け、多くの原本に触れ、花押の形態の変遷を提示し、細部に至るまでの史料批判を行ってきたのである。以下、各章について論点を掲げてゆこう。

 第I部は北条氏の印章がテーマである。第一章において著者は、氏康が「武栄」印を使用した契機は、永禄九年五月頃における氏康による出馬の停止=氏政の単独出陣にあったと結論づけ、「家督交代後の隠居氏康と当主氏政とによる二頭制的な政治体制」(本書一二頁、以下頁数のみを提示)が、「武栄」印の使用によっても明らかとなることを示している。
 続いて第二章では、氏政による「有效」印使用の契機・用法、虎印判状との関係性等に関して触れている。著者は、氏政の「有效」印について、氏康の「武栄」印が創出された際のような成立事象を窺うことができないとし、さらにその機能は「氏政に直属する家臣の統制および自身に関わる所務収納等の面で使用が開始され」、「天正一一年六月以降、江戸地域等における地域軍団の統制を含む諸地域支配の遂行にも使用され」(九八頁)たとする。虎印判状との関係性については、「当主権力の代行というよりも、支城領主等としての領域支配の遂行に重点を置いて」おり、「氏照・氏邦らの一族衆に通じる面がある」(一〇一頁)と結論づけた。
 第三章では「奉書式虎印判状に所見される奉者の性格・機能等について」再検討を行い、「当主氏政と隠居氏康との政治関係のあり方、およびその発給への氏康の関与」(一一四頁)に関して指摘している。そして、虎朱印状の奉者は「主に氏政と氏康に所属する者とに分離」(一三〇頁)することが判明し、氏康は「氏政との緊密な連携関係を前提に」しながらも、「自身に属する奉者を介して奉書式虎印判状の発給に関与した」(一三三頁)との結論を導いている。
 第四章では、伊勢宗瑞の末子幻庵が用いた「靜意」印判について検討し、現存する印影には二種類が存在し(一四四頁)、両者には時期的な相違が見られることを明示した。その上で、氏康弟の小机城主・為昌の死去を受け、小机領と彼の遺臣の一部を幻庵が継承したことによって最初の印(甲印)が使用されたこと、さらに幻庵の嫡子三郎に家督を譲ると印章を使用しなくなり、その後元亀年間における三郎の死没、その跡を襲った次子氏信の討死によって、遺児菊千代=氏隆の後見をすることとなった幻庵が再度表に立ち、二種目の印(乙印)を用いたとしている。このほか「靜意」の印の襲用についても触れており、幻庵の室が襲用した可能性はほぼ無いとし、使用者として氏隆を想定することも視野に入れるべき、と述べている。

 第U部では花押について論じ、第一章において氏康の花押の変遷を提示している。「氏康花押の変遷は、実際のところきわめて微細かつ連続的」(一七七頁)であるとしつつも、「二段重ね部」や「弧線交叉線」・「垂下部」(いずれも一七九頁に初出)、さらには「二段重ね部中央線」・「突出」・「左端部」(一八六・一八七頁に初出)などにおいて、徐々に変化が見られることを具体的に解説している。これらの点の大まかな部分は、田辺久子・百瀬今朝雄「小田原北条氏花押考」(『神奈川県史研究』三四号 一九七七 佐脇栄智編『戦国大名論集8 後北条氏の研究』〈吉川弘文館、一九八三〉に再録)がすでに指摘していた。しかし本稿において著者は、「一定期間の花押を同型として一括する方法は、必ずしも妥当でない」(一七七頁)との考えのもと、二一項にわたる氏康花押を事例として提示しながら、自身の考えを紹介している。そのような中で、氏康の改判に関して「生涯にわたって通常の改判に類するような大きな花押の形態変化が認められないことは改めて確認」できた(二二四頁)という。
 また、第二章では氏直の花押の変遷・改判について、前掲田辺・百瀬論稿における二類型を踏襲しながら述べている。そして、氏直による天正十九年の改判は、同年八月の大坂城における秀吉との対面=秀吉からの「知行安堵」=秀吉の「真の赦免」(二六四頁)が契機であったとしている。
 続く第三章は、氏政の改判についてであり、田辺・百瀬論稿の二類型を前提に論じている。氏政の改判は、天正八年八月における氏直への軍配団扇の移譲を契機としていること、花押の旧型は天正十年六月まで用いられる一方、新型が同九年五月から使用されるという併用期間があること、この併用には田辺・百瀬両氏が述べた、以前から交渉のあった滝川一益への信頼維持だけでなく、一益との交渉における氏政の主導性の維持を明示しつつ、上野国の領国化のために同国国衆との連絡を行う必要上からである、としている。
 最後に付編として短編が三編掲げられているが、二編目には北条氏忠の印判状写に関して、三編目には北条氏御一家衆の一人とされる世田谷城主・吉良氏朝の文書について、花押の変遷も含めて紹介している。

 このように、本書はこれまで著者が築き上げてきた「戦国中後期における北条氏(含、一族衆)発給文書研究」の集大成である。戦国期におけるこの分野の研究は、北条氏が群を抜いていると言って良い。北条氏の発給文書のうち、著者が述べる通り、印判状の研究については相田二郎「北条氏の印判に関する研究」(『史学雑誌』四六編八〜一〇号 一九三五 前掲佐脇編著に再録)が、また花押の変遷については前掲田辺・百瀬論文が先駆的な研究である。さらに、花押については佐藤進一氏も重要な指摘を行っている(同著『花押を読む』〈平凡社選書124 平凡社、一九八八〉)。このほか著者は述べていないが、当主だけでなく、北条氏一族等の花押の変遷に基づいた研究として、佐藤博信氏(例えば「北条氏照に関する考察―古河公方足利義氏との関係を中心として―」〈同著『古河公方足利氏の研究』第二部第四章、校倉書房、一九八九、初出一九七八〉)や黒田基樹氏(例えば「北条氏堯と北条氏光―「桐圭」朱印の使用者をめぐって―」〈同著『戦国大名北条氏の領国支配』第五章、岩田書院、初出一九八八〉)等もある。一方、西国においては近年、明智光秀の文書を集成し、花押による編年を行った研究もある(明智光秀研究会「明智光秀文書目録」『近江地方史研究』三一号、一九九六)。戦前から戦後、さらには現在に至るまで、こうした基礎的研究が戦国時代を理解する上での重要な作業であると、改めて認識する必要があろう。そのような研究状況下において、評者がフィールドとしている今川氏を顧みたとき、小和田哲男氏による花押編年作業(「戦国大名今川氏編年花押譜」今川史研究会編『駿河の今川氏』第四集、一九七九)以降、『静岡県史 資料編7中世三』(静岡県、一九九四、以下『県史』三のように表記する)における花押一覧で研究が止まっていることがわかる。文書が正文であるのか写であるのか、さらには文書の真偽にも関わってくるため、著者が第U部第一章で行ったような、一点ごとに花押を並置する作業も、今川氏研究において再度試みることが求められる。

 また、同じく第U部第一章(一七八頁)において、著者は論文の初出後における補筆として、原本を閲覧した際の所見も述べている。その中で、著者は「影写の際の見落とし」(八行目)について触れている。この指摘は非常に重要であり、今後、影写本で史料を確認する際、注意する必要があろう。じつは評者も、類似した体験を持っている。今川氏の場合、永正九年八月一日付氏親印文未詳朱印状(山崎文書、『県史』三―五六八号、掛川市に原蔵者あり)は、影写本では「山崎文書」(請求番号三〇七一・五四―一三、当時は山崎常磐氏の所蔵)となっている。本文書の印章を影写本で計測し、さらに他の氏親印文未詳朱印と比較すると、一回り小さいことに気付く。氏親の同朱印は、一瞥すると二重郭のようにも見えるが、内郭線と外郭線が平行になっていない部分も看取されることから、二重郭でないことが明らかである。そのため、評者は若干小さいことに違和感を覚え、同文書を写ではないかと認識していた。しかし、『県史』の印章一覧(一四八七頁)では、同文書の印文未詳朱印を他のそれと同列で紹介している。原本が、他の朱印と同じ大きさであるとのことから、このように記されているのであろう(静岡県史の調査時における、いわゆる「調書」のようなものは未確認であるため、印章の大きさについては不明)。本書によって、影写本には若干の誤差≠ェ生じていることを認識できたため、同文書を写と認識するのではなく、「影写の際の誤差」と捉えることも必要か、と考えを改めるに至ったのである。

 このほか、第T部第一章・第三章では氏政と氏康との関係性の追究が興味深い。著者は「氏政は、氏康の政務執行に必要な虎印判状の発給を基本的に認める姿勢をとっていた」(一三二頁)と指摘している。評者はこれまで、家印としての虎印判状は、長期にわたって歴代の当主が使用してきたため、代替わり時点における段階的な差違を認識することがなかった。しかし、当主の権限は軍事指揮権や知行安堵、公事の徴収など様々で、領域の広がりや段階に応じて委譲される部分があったと考えるのは至極当然のことである。奉者もそれぞれ当主に所属し、突然交代される場合もあれば、能力を買われて継続して奉者を勤める人物もいたであろう。長期にわたって大名が存続すること、大名の機構等を考える上で注意しておきたい視点である。

 さらにこの点は、第T部第四章の印章の襲用にも関連してくる。これまで評者は、相田氏が述べていた「靜意」印=幻庵室の襲用との説を認識していたが、なぜ幻庵の室が同印を使用するのか、理解できなかった。今回、本稿によってその疑問は払拭されたものの、印章の襲用そのものについて疑問が湧出したのである。著者の説によると、氏隆が「靜意」印を使用したと考えると、幻庵による「後見」という立場の明確化が、印章の襲用という現象をもたらすこととなる。つまり、印章もしくは印文には、当初それを発給していた人物の意志が含まれることを意味する可能性があると思われる(ちなみにこの場合、人物=幻庵で、印文「靜意」という中国古代の故事に類する語彙を述べているのではない)。このように考えることが可能ならば、氏康から氏政に代替わりしながらも、氏康が虎印判状を発給していることは、受給者にしてみれば、隠居氏康の姿が氏政の背後に見えていたことになるのではなかろうか。この点は、他の戦国大名の場合も想定することが可能と思われる。今川氏の場合、義元が円形「如律令」印を用いていたが、氏真になると方形「如律令」を使用するようになる。方形「如律令」印の使用は永禄二年からで、義元没年(永禄三年)まで、使用範囲は駿河国内に限られている(使用点数は六点のみ)。この期間内(もしくはそれ以前から)で義元が隠居していたのは明らか(岡部文書『県史』四―七〇六)であり、印文を踏襲した氏真は、義元の後見を受けながら、駿河国内に権限を発露したのでは、とも考えられよう。今川氏との比較を考えながら著書を読むと、非常に刺激的である。

 以上、評者の力量不足もあり、著者の意向とは相違する雑駁なことを、今川氏と比較しながら概要を述べることになってしまった。御寛恕を乞う次第である。
 しかし、本書による原本(ときには写もうまく利用しているが)と著者との対峙という丁寧な仕事が一書にまとめられたのは、非常に喜ぶべきことと思われる。第U部において、氏康・氏直・氏政という当主の順番通りに配列にしなかったこと、氏康花押の変化が少ない点に関する疑問が払拭されなかったこと、付編は本書において、本当に必要であったのか、といった若干の疑問点は残るものの、本書は今後、北条氏康以降の三代に関する「辞書」のような役割を担うことになるのは間違いないであろう。「辞書」には基礎的な事象が記される。本書はまさに、そのような性格を持っているのである。多くの利用者が本書を参照し、正誤を確認することで、さらにすばらしい「辞書」へと進化すると思われる。著者も紹介しているが、現在、『千葉県立関宿城博物館史料集一 簗田家文書』(同館、二〇〇二)や『古河歴史博物館資料調査報告書 野田家文書』(同館、二〇〇三)が刊行されている。最近では、『群馬県立歴史博物館所蔵中世文書資料集』(同館、二〇〇八)、『戦国大名北条氏とその文書―文書が教えてくれるさまざまなこと―』(神奈川県立歴史博物館、二〇〇八)など多くの史料集も刊行された。これらの中には、従来影写本等で知られていた北条氏に関する文書の原本写真も、多数掲載されている。このような史料集は、本書で掲げられた花押・印章について、読者が比較・再考するのに役立つであろう。これらの史料集を参照しながら、さらなる検討を試みれば、基礎データの蓄積が進み、戦国史研究に深みを持たせることができると思われる。評者も可能な限り、写真だけでなく原本に触れる機会を持つようにして、研究の進展に寄与できるよう心に留めつつ、筆を擱く。
(戦国史研究会会員)


詳細へ 注文へ 戻る