大谷貞夫著『江戸幕府の直営牧』

評者:川名 登
「國學院雑誌」111-5(2010.5)

  本書の著者、大谷貞夫氏には、既に『近世日本治水史の研究』、『江戸幕府治水政策史の研究』等の大著があり、数少ない近世治水史研究者として著名な人物である。しかし、誠に残念なことに平成十五年に思いもかけず急逝された。その著者が治水史とはあまり関係がないと思われる江戸幕府直営の牧に興味を持ち、その研究を積み重ねておられたが、それらをまとめる暇もなく逝かれた。その後、著者の薫陶を受けた方々によってまとめられ、出版されたものが本書である。
 では、何故著者は、治水史とは直接的には関係が浅いと思われる幕府直営牧の研究に打ち込まれたのであろうか。
 少し私事にわたることをお許し頂きたい。昭和三十四年の頃、私共は旧千葉駅の前にあった喫茶店の片角で、一杯のコーヒーを啜りながら房総史研究会と云う小さな会を開いていた。研究会とは云うものの、常に集まるのは院生、学生四五人というささやかなものだった。そこにどこで聞いたか大谷さんが現れたのだった(学生時代からのお付き合いなので大谷さんと呼ばせて頂きたい)。彼の話を聞くと日向の近くの村の慶長検地帳を使って、これから卒論を書くのだという。丁度私共も下総の近世初期検地帳を調査していた時だったので意気投合、盛んに房総の検地について論じ合った。それ以来、大谷さんは毎回研究会に出席され、大学卒業後は母校、成田高校に勤められた。この大谷さんとの話の中で強く感じられた事は、山武から成田、印旛という地域、生まれ育ち学ばれた郷土に対する強い愛着と史的関心だった。この北総と呼ばれる地域にとって、何と云っても大きな存在は北を流れる“利根川”と“印旛沼”であった。その水は、そこで生きる庶民にとって良くも悪くも大きな影響力を持ってきた。郷土に対する愛着と学問的関心を持つ大谷さんが、村落史から治水史の研究に向かわれたことは当然のことと思われる。
 しかし、この北総地域にはもう一つ大きな問題があった。それは、「小金五牧」、「佐倉七牧」と云われる多くの幕府直営牧の存在である。この存在は、牧付周辺の村々の農民に多大の負担を強いてきた。大谷さんの次のテーマが、牧となる事は必然であったのである。
 前置きが長くなったが、いよいよ本書の内容の紹介に入りたい。先ず、全体の構成を知る為に、目次の概要を示そう。


 論考編
野馬奉行考
金ヶ作陣屋考
享保期の下総小金牧について
下総佐倉牧の牧士丸家について
安房国峯岡牧の再興をめぐって
近世の油田牧と牧付村々
近世後期における取香牧について
 概説編
小金牧
佐倉七牧
 コラム編
佐倉牧
野馬と佐倉七牧
野馬土手の保存を
江戸幕府直営牧と牧士史料
明治八年三月の取香牧図
払い下げられた野馬の急死
江戸の馬は「こしらい」馬
嶺岡牧の牧士たち


 これが本書の目次の概要である。そこで先ず、論考編の最初の「野馬奉行考」では、幕府直轄牧管理の中核である「野馬奉行」の問題をとりあげて検討される。

 「野馬奉行」とは、現地にあって直営牧の管理を担当する「牧士」を配下にまとめて、直轄牧をとりしきる役で、下総国小金に在住した綿貫氏が代々世襲した職であったという。この綿貫氏には古い「由緒書」が伝来し、その記載を根拠として「野馬奉行」は近世初期の慶長期から存在し、綿貫氏が世襲して来たと考えられてきた。
 しかし、大谷さんはこれに疑問を感じられたのであろう。先ずこの「由緒書」の記事の信憑性の検討から始められた。そしてこの「由緒書」自体の成立が宝暦期である事を実証され、この「由緒書」をもって「近世前期の綿貫氏の動向を云々することは極めて危険である」と結論付けられた。そして後に作成された「由緒書」ではなく、同時代の史料、慶長十九年の「小金之領野馬売付帳」、寛永十六年の「下総国小金野馬売上勘定事」寛文十二年の「印西手形」をそれぞれに分析検討され、そこには「野馬奉行」はなく、幕府勘定方ないし関東郡代の指示を受けて動く「伯楽」あるいは「勢子奉行」という存在を確認したのである。
 このようにして、これ迄の「野馬奉行」に関する通説は否定され、三橋家文書の中に発見された史料「従野馬始之野方万控」等の分析により、「野馬奉行の成立は、享保か延享期頃と推定」されたのであった。
 この結論をもう一歩前進させたものが、次の論考「享保期の下総小金牧について」であった。そこでは、郷土史家篠丸頼彦氏の残した「篠丸文庫」の中の史料を検討され、綿貫十右衛門が幕府より「御切り米拾俵」を支給されることになったのは享保九年からであり、「野馬奉行」を公称するのはその子綿貫平内の時、享保十六年からであったことを明らかにされたのである。
 この論考には、この他に「享保期小金牧の諸慣習」、「川通村々の牧役」等が論じられているが、これらは次の論考「金ヶ作陣屋考」と関連する。  

  論考「金ヶ作陣屋考」は、葛飾郡日暮村境の金ヶ作に建てられた「金ヶ作陣屋」の成立や陣屋詰野方代官の変遷等に関する論考である。
 「金ケ作陣屋」は、享保改革期に活躍した幕府代官小宮山杢之進昌世が新設し、小金、佐倉牧の地面や新田を支配する拠点とした陣屋である。この陣屋の成立時期については、従来不確かな説が多かったが、大谷さんは種々検討をした結果、享保八年それも八月以前に設置したものという結論を得ている。
 また、小宮山杢之進以後、牧内の新田と牧の地面を支配する幕府代官を「野方代官」と呼んだが、この代官の変遷をも明らかにしている。その後の寛政四年、旗本岩本正倫が小納戸頭取となり牧の支配を命ぜられるに及んで、牧制の改革が実施され、金ヶ作陣屋は、「金ヶ作野馬方御役所」と呼ばれて、野馬方書役が詰めるようになることも述べられている。

 次の論考「下総佐倉牧の牧士丸家について」では、印旛郡大袋村の牧士を勤めた丸弥兵衛家を例として、佐倉牧の牧士制度を考察したものであり、論考「近世の油田牧と牧付村々」は佐倉七牧の一つ、油田牧について、牧と牧付村々の支配の変遷、牧付村の種々の役負担等について考察したものである。また論考「近世後期における取香牧について」は、同じく佐倉七牧の一つ「取香牧」について、支配の変遷や牧の管理、牧に関して起きたさまざまな事件を取上げて考察しておられる。

 また、小金五牧・佐倉七牧と並んで、房総に存在する幕府直轄牧として知られる安房国の峯岡牧について考察されたものが、論考「安房国峯岡牧の再興をめぐって」である。
 峯岡牧は、戦国大名里見氏の支配の時期からあったと云われ、慶長十九年に徳川幕府に引継がれたが、天和頃から衰退し御厩も断絶した。その後、元禄十年の馬方中山勘兵衛の野馬捕獲を契機に、峯岡牧再興運動が起こり、享保七年に再興する。その過程を、坂東・石井家文書等を駆使して考察したものが本論である。これ迄に、峯岡牧に関する論文も二三はあったが、牧再興運動から再興への過程を明らかにしたのは大谷さんの大きな成果であった。

 概説編に納められた「小金牧」、「佐倉七牧」は、市町村史の為に書かれたものだが、わかり易く纏まっており、それぞれの牧の全体像を知る為には最も好適である。
 また、「コラム編」には、「こしらい」馬など興味深い事実が述べられており、小品ながらどれも光っている。

 以上で、論考等の紹介を終るが、全体を通読して感ずる所は、牧の制度、支配の変遷が重きをなしていることである。しかし、牧付村々の問題にも触れており、その考察の端々から、おそらくはなお御元気であったならば、牧付村々の農民の種々の負担を農民の目線で追求され、大きな成果を上げられたことであろうと確信する。今となっては誠に残念であるが、ただただ御冥福を御祈りするのみである。
 なお、本書の巻末には、吉岡孝氏の「大谷貞夫氏の幕府の牧研究継承のために」という一文があり、また各論考についての解説文が付されるなど、読者にとって誠に親切な編集となっている。


詳細へ 注文へ 戻る