増田廣實著『近代移行期の交通と運輸』

評者:三浦俊明
「地方史研究」345(2010.6)

  著者はすでに甲州道中・中山道等の街道を利用して発展する商品流通に携わる近世農民の駄賃稼ぎの実態を究明されている(『商品流通と駄賃稼ぎ』同成社、二〇〇五年)。本書はこれに続く開港後から明治前期において、かつての往還稼ぎ人達を運輸労働者的存在として組み入れながら発展してゆく全国的交通運輸機構の再編過程を、甲府柳町和泉屋高橋平右衛門家文書(山梨県立博物館蔵甲州文庫)他の分析を通して論証している。
 本書の特色は、明治政府による交通運輸政策に対して、民間から政府への働きかけによって設立される中馬会社、馬車会社、富士川運輸会社、さらには三菱会社などの海上輸送会社の動向を基本に据えている点にある。すなわち宿駅内部の問屋層や私企業といった、いわゆる「下からの近代化」の動きに重点を置き、それに対応する明治政府による全国的交通運輸機構の再編過程を究明するという方法を採っている。限られた史料を駆使して、鉄道時代の到来以前における陸運・河川舟運・内航海運の連携による全国的交通運輸機構の実態分析を通して、これまでの通説に随所で疑問を投げかけている。全体の構成は、序章と三部編成の十章と終章からなる。以下各部ごとに注目すべき論点をあげてみよう。

 第一部では、近世宿駅制度が崩壊し、明治五年(一八七二)に廃止されるまでの問題を考察する。明治政府は明治四年に東海道各駅陸運会社の開業を認可し、翌五年に宿駅制度を解体する。この政策転換をもたらしたものは、たとえば甲州道中甲府柳町駅の場合、宿駅内部の高橋平右衛門等による一般諸荷物の馬継立を中心とする会社設立の動きの存在であった。つまり宿・助郷制度の廃止を可能にする条件が宿内部に熟成していたためであるとする。

 第二部では、明治三年から同八年にかけて運輸関係の諸会社が創業し、それによって交通運輸制度が近代化へ向けて踏み出すとしたうえで、諸会社の内容を説明する。すなわち、1.旧宿駅内部の宿役人層と小前層との関係をそのまま受け継いだ甲州道中十八駅の陸運会社。2.甲府柳町高橋平右衛門を中心としながら、諸商人荷物などの継立業務を主とし、荷物に対する保障制度としての敷金制度を取り入れた甲斐国中馬会社。3.鰍沢・青柳両河岸関係者からの申請によって許可された富士川運輸会社。この会社の営業の中核は静岡県清水から蒲原を経由して富士川の舟運によつて塩を甲州へ輸送することであった。4.旧定飛脚問屋を中心に成立した陸運元会社。この会社は明治六年の太政官布告二三〇号をもって全国的人馬継立網を再編し、同七年にはこの会社の出張所・分社等が全国に三四八〇箇所も存在するようになる。そこで同八年には社名を内国通運と変更した。

 第三部では、まず明治七年頃から同一五年前後に至る明治政府の殖産興業政策により、内国通運会社などの陸運と河川舟運を結んだ内陸水運と、三菱会社などによる内航海運機構との連絡によって全国的運輸機構が確立したことを論証する。そのうえで同一〇年代後半から積極化する鉄道敷設との関係について論究し、そこで指摘されている次の二点は特に重要である。第一は、三菱商会・三菱汽船会社、さらに郵便汽船三菱会社の発展による全国的内航海運機構が完成し、これによる河川舟運等内陸水運を含む全国的陸運機構が一層充実する。この結果、陸海を一体とした全国的交通運輸機構が完成するという。こうした状況のもとでの内陸水運と鉄道との関係は協業関係にあり、したがって鉄道建設が内陸水運を衰退へと導いたとは必ずしもいえないという指摘である。第二は、甲州地方の工業化の進展が富士川運輸会社清水出張所の営業内容に反映しており、その分析によると、同所へ入荷するボイラー・蒸溜器(ブランデー蒸溜に使用)・石油といった諸荷物が量的には少ないが、河川舟運によって内陸部に輸送されていた。一方出荷物の農産品の中には山梨県勧業場で生産されたブランデー・ワイン・ビールなどが見られるという。このように清水出張所は近代移行期の市場の拡大と変化に対して蒸気船と和船による沿岸海運を富士川舟運に連絡させる役割を確実に果たしていたという指摘である。これらの指摘は、鉄道時代到来の直前における海運・舟運の役割を積極的に評価する注目すべき見解といえよう。

 以上、本書は幕末維新期から明治二〇年代の前半期にいたる近代移行期における交通運輸機構の近代化の過程を、交通史の枠組みを超えた広い視野に立って究明したものであり、特に近世・近代史研究者にとって必読の書である。


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