増田廣實著『近代移行期の交通と運輸』

評者:丹治健蔵
「交通史研究」71(2010.4)

 本書の著者増田氏は交通史研究会長を歴任された極めて温厚篤実な学究であり、また評者とは交通史研究会創立以来の学友でもあるので、先ず最初に本書の刊行を心からおよろこび申し上げたい。
 ところで、著者は二〇〇五年四月に『商品流通と駄賃稼ぎ』(同成社刊)を刊行されたが、そこでは甲信地方の信州中馬を中心とする駄賃稼ぎと商品流通の実態について明らかにされてきたが、それは近世中期から維新後の明治五年頃までを対象としたものであった。
 しかるに本書は右の研究をさらに継承し、発展させて幕末期から維新後の明治十年代に至るまでのいわゆる近代移行期を対象として山梨県甲府を中心に陸上輸送から河川・海上輸送にまで視野を広げ、それらの連携輸送について追究されたこれまでにない画期的な著作として高く評価するものである。
 そこで先ず本書の目次を章節に限り紹介してみると次のとおりである。

 序 章 幕末維新期における交通・運輸の諸問題
はじめに
一 荷継問屋の成立
二 内陸輸送の展開
三 全国的運輸機構の確立と内陸輸送
四 小括
第一部 維新期交通運輸制度の改廃と崩壊
はじめに
第一章 戊辰戦役と宿・助郷問題
一 戊辰戦争期における宿・助郷間の負担格差
二 幕末維新の政情と甲府柳町駅
三 甲州道中甲府柳町駅大助郷一作
四 小括
第二章 宿・助郷組替えと駅費問題
一 宿・助郷の組替えの推移
二 不勤の広がりと駅費問題
三 小括
第三章 定立人足・定助郷復活と人馬継立の自由化
一 定立人足・定助郷復活と宿駅制度廃止への推移
二 人馬継立の自由化
三 小括
第二部 新交通運輸制度と諸会社の創業
はじめに
第一章 各駅陸運会社の創設と山梨県下各駅
一 「説諭振」と各駅陸運会社の創設
二 山梨県下の各駅陸運会社の創業
三 小括
第二章 甲斐国中馬会社の創業
はじめに
一 甲斐国中馬会社の創業
二 甲斐国中馬会社の性格とその営業
三 小括
第三章 富士川運輸会社の創業
はじめに
一 富士川運輸会社の創業
二 富士川運輸会社の性格と営業
三 小括
第四章 陸運元会社による継立機構の整備と郵便関連事業
はじめに
一 陸運元会社の創業と継立機構の整備
二 陸運元会社による山梨県下継立機構の整備
三 小括
第三部 殖産興業政策下における交通運輸の発展
はじめに
第一章 殖産興業政策と交通運輸
一 明治政府による全国運輸機構の確立
二 殖産興業事業の本格化と交通運輸
三 野蒜築港と各地の河川舟運
四 小括
第二章 甲斐国中馬会社の発展
はじめに
一 陸運元会社と中馬会社の提携
二 甲斐国中馬会社の発展
三 小括
第三章 富士川運輸会社の発展
はじめに
一 富士川運輸会社の発展と清水出張所の開設
二 富士川運輸会社清水出張所
三 小括
終 章 明治前期における全国的交通運輸機構の再編
−内航海運から鉄道へ−
はじめに
一 殖産興業政策の展開と東北経営
二 日本鉄道会社設立と東京−青森間鉄道の敷設
三 全国的交通運輸機構の再編
四 小括
あとがき

 見られるとおり本書は序章をはじめとして第一部が三章、第二部が四章、第三部が三章、それに終章が三章と小括から成る本文三五二頁に及ぶ著作であり、幕末維新期から明治十年代にいたるまでの甲州地方を中心とする水陸交通運輸の変改ならびに発展過程を詳細に跡付けた労作といえる。
そこで以下目次の順にしたがい内容を要約した紹介と若干の批評を試みたいと思う。
先ず序章のはじめにでは甲府柳町駅の和泉屋平右衛門が残した『明治二年御用留日記』を素材としながら甲州道中の荷継問屋であった和泉屋の取引範囲については甲州道中・中山道を中軸として甲信地域はもとより江戸から京坂にいたる広範にわたり、陸上輸送は河川舟運や河口港で結ばれる東海沿岸海運とも深く関わりがあったことを実証されている。
そして信州からは米穀や大量の酒が流入し、甲府を中継地として関東各地や富士川舟運により駿州方面に送られていたとして「幕末・明治初年内陸輸送路」の図を付載して、当時の物流の概況について論述している。
序章第一節では甲府を中心とする宿駅問屋の支配権が強く商人荷物継立を専業とする荷継問屋の成立は困難であったが、安政六年(一八五九)の開港に伴う商品流通や公用荷物継立の増大、さらには維新政府の誕生によって柳町宿駅問屋の統制力が弱まり商い荷物輸送を専門とする荷継問屋の成立をもたらしたと論述されている。
序章第二節では横浜開港によって生糸をはじめ多彩な商品が数多く流通するようになったので、甲府柳町の高橋平右衛門もこれらの商品輸送に従事し、輸送の効率化に努めていたが、これらにつき再び「明治二年御用留日記」を利用し、多様な内陸輸送展開の様相について次のように説明している。
先ず輸送経路の開発と諸経費については、明治四年当時の輸送コースとして、(1)三州平坂廻し、(2)上州倉賀野廻し、(3)甲州道中廻し、(4)富士川廻し、以上の四コースについて所要日数、経費、輸送物資について明らかにされ大変興味深いが、甲州道中廻しでは甲府から八王子を経て陸路東京へ送られていたとされているが、評者はそのほかに日野付近から小川新田・清戸を経て武州新河岸川の引俣河岸(志木市)まで駄送し、それから舟運で江戸へ運び込まれていた荷物もかなりあったのではないかと考えている。
この点については右河岸の問屋井下田家文書明治十年「山方御荷主方性名記帳」には所沢・八王子・青梅などの商人名のほか甲府商人八名の名前と太物、荒物などの取り扱い品目が記されている。また、明治十二年の井下田廻漕店の「物貸出入表記」には取引先として甲府柳町商人六名と生糸・屑糸・綿などの品目も記載されている。
次いで輸送方法の多様化については陸上と水上とによる複合的輸送方法が行われていたと指摘され、平坂廻しの場合は飯田〜岡崎間は中馬、岡崎〜平坂間は矢作川舟運、平坂〜東京間は蒸気船という方法などが積極的に利用されていたと指摘されている。
そのほか陸運と河川舟運の輸送量や運賃の比較なども考究されていて貴重な研究成果といえる。
序章第三節では明治五年九月一日明治政府の勧奨により各駅を中心に陸運会社の全国的組織が設立されたが、その後同六年六月になって太政官布告二三〇号が公布され、各駅陸運会社は解散され、陸運元会社が設立されて、中牛馬会社、甲斐国牛馬会社、富士川運輸会社なども合併という形で陸運元会社の傘下に入り、社名を内国通運と変更し、全国的運輸網が形成されたと論じている。
さらに章末の小括では内陸輸送網の再構築は荷継問屋が大きな役割を果たしていたと述べ、こうした動きはいわゆる「下からの近代化」と呼び得るという注目すべき見解を提唱されている。

 第一部はじめにでは維新後の近世宿駅の改廃と崩壊過程について、慶応三年(一七六七)十月の大政奉還から明治五年(一八七二)にいたる期間を対象とし、宿駅の人馬賃銭が御定賃銭から相対賃銭に改変され、その後明治三年五月「相対継立会社」に行わせる方針が決定される。この方針に従い、やがて各地に「各駅陸運会社」が作られ、継立業務が行われるようになったとし、これらの過程について『法令全書』や山本弘文氏の『維新期の街道と輸送』(法政大学出版局、一九七二年)などに依拠しつつ概述されている。
第一部第一章第一節では戊辰戦争期の休泊賃銭と継立賃銭を比較し、継立賃銭の方が休泊賃銭に比較して重い負担が課せられていたとし、それが人馬徴発を強いられた助郷村への重圧になっていたとされている。
第一部第一章第二節では甲府柳町駅を取り上げ、助郷負担の実態について「柳町宿助郷一覧」や「甲府周辺道路および関係諸村図」により説明されている。
第一章第三節では慶応四年三月に起きた甲府柳町駅問屋と大助郷三三か村との間の紛争事件の経過と「大助郷村継立人馬表」、「賃銭精算表」、「賃銭集計」、「賃銭比較表」などを提示しながら助郷村負担過重の実態について明らかにされている。
第二章第一節では慶応四年四月十一日から明治三年三月九日太政官布告一八五号により駅逓法改正が布達された時期を対象として宿・助郷組替えの推移について述べている。
この宿・助郷組替えの意図は宿・助郷を一体化して公用継立を負担させ宿駅機能を強化しようとするものであったが、新たに助郷村に組み込まれた遠隔地村々の不勤などによる激しい抵抗運動に遭遇することになった。
そこで民部省一六一号の布達をもって明治三年二月各宿駅の助郷附属村々に対し三月限りで助郷免除することになり、助郷組替えに終止符がうたれることになったとされている。
第二章第二節では宿・助郷組替えによる遠方農村の助郷不勤の広がりとそれに伴う東海道宿駅を管轄する静岡県と助郷村々を管轄する山梨県やさらには千葉県下助郷村々などとの間で紛争が多発した助郷負担金をめぐる事件の経過について、明治十年になって明治政府の決済によってようやく最終決着をみるまでの経過について詳しく説明されている。
ただ、東海道の旧宿駅と房総の村々との助郷負担金をめぐる交渉の経過については筑紫敏夫「明治初期における東海道助郷滞金と房総村々」(『交通史研究』第五十一号)や久留島浩「明治初年の東海道宿駅助合埋金一件」(『千葉県史研究』第十号別冊、近世特集号)なども活用していただければよかったのではないかと思考している。
第三章では明治三年三月九日付の「太政官布告」一八五号の駅逓法改正について次のとおり解説している。すなわち、東海道の定立人足の復活、定助郷村々の不足分はその近傍の村々に負荷させること、人足賃銭は御定賃銭の一二倍とすること、それに馬継立の自由化、相対賃銭による馬継立の公認されたことなどが主な改正点であるとされている。
さらに明治四年十一月五日付の大蔵省布達九一号によって東海道各駅陸運会社の開業が認可され、宿駅制度の解体をもたらしたと述べ、さらに明治初年の東海道静岡駅や甲州道中柳町駅の公私の人馬継立表なども付載し、公用継立数の減少と一般諸荷物の増加が宿駅制度崩壊の要因であったと論述されている。

 第二部では明治三年から八年までの私的運輸会社の創設について考察する。
第一章第一節では山梨県下の甲州道中各駅の陸運会社創立の経過について次のとおり述べている。
明治三年七月民部省の企画によれば甲州道中四五駅を整理統合して二三駅にするという原案であったが、これに対し山梨県側では、これまでの四五駅・三一継立を三三駅三三継立を主張していたが、その後紆余曲折を経て明治五年六月になって県下一八駅に陸運会社の創設を申請し、同年九月に各駅の陸運会社が一斉に開業した。
このときの陸運会社規則書一二か条の第一か条には「陸運会社之儀ハ一切ノ御旅行便宜成候儀ヲ旨トシ貴賤ヲ論セス当会社ニ御申入被成候ハゝ成時ニ限ラス総テ定式賃銭ニテ人馬ノ継立御世話可申事」とあって甲州道中陸運会社ならびに脇往還の陸運会社の設立趣旨が端的に明示されている。
第二章第二節では甲斐国中馬会社の性格と営業の特徴などについて次のように述べている。
中馬会社は甲府柳町のほかに下教来石、韮崎、駒飼、初狩、犬目など六ヵ所の陸運会社と合併することによって甲州道中はもとより東は関東方面、西は信州各地、それに北国・三遠地方、東海道筋・東山道筋などの貨物輸送を可能にしたと説いている。
また、原社と分社の新しい経営方式によって営業規模の拡大と迅速確実な輸送が可能になったと記述されている。
第三章では明治六年に認可された富士川運輸会社発展の経緯について述べている。
それによれば富士川運輸会社は、明治八年末には、鰍沢を中心に富士川の舟運可能な全地域に分社組織を作りあげ、営業圏を蒲原・清水、さらには全国へ拡大していったとしている。そして、これらの点については同社の『通船規則』や本社・分社の関係図などを付載されているが、史料的制約のためと思われ輸送物品の品目や荷量の変化まで追求されていないのが惜しまれる。
第四章では明治六年六月に発布された太政官布告二三〇号の趣旨にしたがい、各駅陸運会社から陸運元会社への入社−合併にいたる経緯について、甲州道中・駿州東往還・駿州往還・中道通り駿州往還、それに往還信州佐久などの「山梨県下駅村と陸運元会社・中馬会社の関係一覧表」を付載して、山梨県下の継立機構の整備と発展の状況を「甲州文庫」(山梨県立博物館所蔵)などにより詳しく説明されている。

 第三部第一章では明治政府が殖産興業政策を推進するための基本的施策と位置付けられた交通運輸政策の一環としての陸運と河川舟運の発展について述べる。
明治六年六月に発布された太政官布告二三〇号には「海運ヲ徐ノ外、水陸運輸営業ノ者、都テ本年第二百三十号布告ニ基キ照準措置可致事」とあるように、これを機会に河川舟運等内陸水運もまた全国的運輸機構に組み込まれることになり、これを機会に政府は内陸水運の発展のため本格的に乗り出していった。
これに触発されて琵琶湖では汽船が就航し、そのほか埼玉県の勧奨により七年八月には見沼通船会社が設立された。さらに明治七年一月には富士川運輸会社も設立され、鰍沢・青柳・黒沢の三河岸からさらに上流への通船計画が推進され、旧河岸問屋を中心に富士川運輸会社の設立も実現したと述べておられる。
また、安政の開港以来の内航海運の発展についても概述し、大久保政権下の殖産興業政策の一環として、三菱会社への海運助成実施により、全国的海運機構も明治八年から十年の時期に完成し、陸運と河川舟運、海運の全国的交通運輸機構が完成したと論述されている。
第二章では明治十年代からの甲斐国中馬会社と陸運元会社との提携の推移について明治八年における「中馬会社分社一覧表」を提示して甲州道中とその脇往還、さらに駿州往還、佐久往還などに張りめぐらされた駅名と分社主の氏名を明らかにして、同一人物が内国通運会社、中馬会社双方の下部組織として継立と付け通し両業務を支えていたので現業面で共存できたとされている。
次いで株式会社の形態を整えていった中馬会社の性格を一変させたのは明治十一年に甲府・東京間に定期便を開設したことにより甲府の原社と分社の連携をより一層緊密にさせることができたからであると考察されている。
第二章では甲斐国中馬会社の発展について論及し、明治六年の太政官布告二三〇号の規定により「危難弁償準備金」として中馬稼ぎ人に対し身元金として金二五円の出金を義務付けるなどして明治十五年に甲斐国中馬会社が、完全に株式会社の形態を整えるにいたったと記述されている。
第三章では明治八年十二月以降の富士川運輸会社の発展の経過について分社・出張所、船数・乗客数などの一覧表を付載して明らかにし、さらに明治九年十二月五日に海港でもあった清水に出張所を開設したと述べ、取扱い荷物の品目と荷量などを表示して論述している。さらに明治十年の出入り荷物の発着地別俵数も明らかにして、当時の富士川舟運の変容と発展状況にまで言及し、すこぶる興味深い。

 第三部終章では大久保政権下において殖産興業政策の一環として進められてきた運輸機構の構築は内陸運輸と内航海運の連携によって全国的に結び付けるというものであったが、必ずしも鉄道の発達を視野に入れたものではなかったとされる。
明治九年六月〜七月にかけての明治天皇の東北巡幸を契機とし、東北地方総合開発の一環として石巻湾にそそぐ成瀬川河口に大規模な野蒜築港工事とあいまって水陸交通網の整備も進められた。
明治十四年四月に設立された日本鉄道株式会社によって翌年三月から着工した東京・前橋間の鉄道敷設事業をはじめとして東京・青森間の鉄道開通にいたるまでの鉄道建設事業についても論述されている。
さらに東北・太平洋岸での鉄道を軸とする運輸機構の再編は野蒜築港とその関連事業との成果を継承しつつ進展し、新しい全国的運輸機構に組み込まれていったと結論付けられている。

 以上により評者の感想も交えながら本著の紹介をしてきたが、元来、私は近世交通史を専門としているので必ずしも適切な書評になっていたかどうか危ぐするものである。
いずれにしても本書は幕末期から明治十年代に至るまでの交通運輸の改変、そして発展過程を見事に体系付けて叙述された労作であり、日本交通史の研究者はもとより、歴史に関心を持たれる方々の必読に値する著書として大いに推奨する次第である。


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