山口 博著『戦国大名北条氏文書の研究』

評者:梯 弘人
「小田原地方史研究」25(2010)

 本書は、筆者の北条氏に関するこれまでの研究をまとめた論文集である。とく に北条氏発給文書に関する論文が中心となっている。北条氏当主発給文書や、そ の関連史料は『小田原市史』編さんによって一覧することができるようになった 。筆者はその『小田原市史』編さんに携わり、文書史料の原本に触れてきた。そ の成果としての論文集である。
 それでは本書の構成を述べ、内容の紹介を行う。( )内は初出年。

 〔目 次〕
序 章 (新稿)
   一 北条氏文書に関する研究の現状
   二 本著の構成と視点
 T 印判使用をめぐる問題
第一章 氏康による「武榮」印判の使用(二〇〇三年)
第二章 氏政による「有效」印判の使用(新稿)
第三章 氏康・氏政と虎印判状奉者(二〇〇四年)
第四章 幻庵宗哲所用「靜意」印判に関する考察(二〇〇〇年)
      補論 所領分布から見た幻庵宗哲の政治的地位(新稿)
 U 花押変遷と改判 第一章 氏康花押の変遷(一九九九年)
第二章 氏直花押の変遷と改判(一九八九年)
第三章 氏政の改判(二〇〇五年)
 付編
   一 「合討」(「相討」)の感状(一九九〇年)
   二 「諸州古文書」および「諸家古文書写」中の氏忠印判状写(一九九〇 年)
   三 伊豆荻野文書中の吉良氏朝書状(一九九四年)

 序章では、北条氏発給文書に関する先行研究がまとめられている。まず、発給 者の使用した印判や花押そのものに関する研究、つぎに北条氏発給文書の様式・ 機能に関する研究、印判状の機能に関する研究、最後に当主と一族や隠居の関係 に関する研究の状況をまとめている。

 本論第一部第一章では、氏康の使用した「武榮」印判をめぐる状況が描かれて いる。まず、家督譲渡により北条氏康は氏政に当主の使用する印判であった虎印 判を譲り渡している。「武榮」印判は虎印判の代用として使用が開始されたと考 えられるが、家督譲渡と使用開始の間には六年の開きが存在する。家督譲渡が直 接的な使用開始の契機ではなく、北条氏をとりまく状況の好転による氏康の出馬 停止が契機となったとする。一方で、氏康が出馬継続中に虎印判状の発給への助 言や関与を行っていたことを、奉者や宛所の関係から導き出している。つまり、 家督継承後においても氏康は虎印判状の発給にある程度携わっていたが、出馬停 止後は新たな「武榮」印判を使用したということになろう。氏康と氏政の関係の 変化がその要因であったとみている。
 さらに「武榮」印判状の内容・使用範囲を検討し、氏康がいわゆる「本国」領 域における自身の所務分の支配や公事の徴収に携わったことが明らかにされた。 また、領国防衛の支援などの役割も担っており、後方支援活動が主であったと位 置づけている。その上氏政発給の虎印判状との関係を指摘し、氏康が行使した権 限は氏政の関与を排除するものではなかったと結論付けている。最後に、「本城 」と「大蔵」の関係に触れ、「本国」地域の蔵の統括を行っていたことを想定し ている。

 第二章では、氏政の使用した「有効」印判状について述べている。氏政は支城 主や支城領主としての役割を担っていたとされるが、さらなる基礎的な考察を行 っている。氏政の「有効」印判使用開始は氏康の「武榮」印判使用開始と同様、 氏政から氏直への家督継承が大きな要因であると指摘する。虎印判が氏政から氏 直に継承されたため、虎印判に代わる印判の使用が想定できる。しかし、氏政は 氏康と異なり出馬を継続している。ただし、氏政の軍事行動は氏直とは別行動の ものであった。すなわち氏政は虎印判状発給に関わることができなかったため、 新たな印判の使用を開始したとする。
 「有効」印判使用は主として江戸・岩付・作倉・関宿地域に見られる。江戸、 岩付、関宿地域は北条氏秀死去による氏政の関与であり、作倉地域は天正一五年 (一五八七)の仕置以後に見られるものである。支城領支配は「有効」印判使用 開始当初に持っていた機能ではない。「有効」印判の本来的な機能として自身の 家臣統制と自身の所務収納などの料所支配の執行が挙げられる。
 ところで、「有効」印判が虎宋印の代用印として使用された事例が存在する。 ところが「有効」印判使用開始後三年程度経っているにも関わらず、受給者側に 虎印判に代わるものであると説明している。「武榮」印判は使用開始当初より、 虎印判の代用としての性格が想定されていたのに対して、「有効」印判は本来的 には虎印判の代用としての性格は無かったものと指摘する。あくまで、氏政が最 終的に行使した権限は支城主・支城領主としてのものであり、領域支配の遂行に 重点を置いていたとする。

 第三章では、氏康の隠居後における氏康・氏政の政治関係を奉書式虎印判状を 基に検討している。まず、奉書式虎印判状に関する研究史をまとめ、奉者の性格 を受給者の申請を当主に上申する奏者と当主の意向を表明する奉行の二パターン が存在することを指摘する。上意下達型の印判状にも、受益者(受給者ではない )の申請によって発給されたものが含まれることを確認し、同時に奉者の業務遂 行のため発給された事例が存在することも指摘する。後者は、従来指摘されてい た領域ごとの支配を担当する奉行人がそれに相当する。また、奉者の具体的任務 として当主との文案調整が主要なものであり、正文筆記を行ったかどうかまでは 不明とする。
 さて、虎印判状の発給機構は氏康期に整備され、主に馬廻衆や小田原衆に所属 する人間や領域支配担当者が奉者になっている。奉者の構成を見ると、氏康の政 治的立場の変化を反映するものであり、氏康の出馬停止以前には氏康、氏政それ ぞれに奉者が所属していたとする。とくに出馬停止以前において氏康に所属する 奉者は、申請の披露や意見具申などは氏康に対して行っていたと想定している。 しかし、最終的な虎印判状の発給責任者は氏政であり、氏康が単独で発給したわ けではなく、両者の協調的関係が維持されていたとする。

 第四章では、北条幻庵の使用した「靜意」印判について述べている。まず、改 判が行われ二種類の印判が存在していることを指摘し、それぞれの使用時期につ いて検討を加えている。二種類の印判は、それぞれ異なる時期に使用されている 。一つ目の印判は小机城主北条氏尭の活動開始による幻庵の隠居にともない、使 用が停止された。その後、後継者であった北条氏信戦死により、遺児北条氏隆の 後見のため再び印判の使用を再開したとする。その際に改判が行われたとする。 また、印判襲用の問題について幻庵の没年と奉者、内容などから判断し、幻庵後 室ではなく氏隆の襲用を想定している。最後に、「靜意」印判の機能に関して述 べている。主として他の一族同様私領の支配や家臣統制が挙げられるが、他に宗 教的つながりを有したと考えられる先にも文書の発給を行ったとする。

 第二部では、歴代当主氏康・氏政・氏直の改判について、それぞれ発給年次の はっきりとした史料における花押を使用し検討している。
 第一章では氏康の花押について考察している。氏康の花押は大きな変化が見ら れず、わずかずつ変化している点を確認している。
 第二章では、氏直の花押について述べている。北条当主時代の氏直は氏康同様 年毎に細かい変更があったが、小田原落城後、秀吉からの赦免を期に大きく改判 を行ったと述べる。
 第三章では、氏政の花押について検討している。氏政は家督譲与後に一度大き な改判を行っている。ただし、改判時期は明確ではなく、改判後の花押使用は氏 直へ軍配団扇を譲り渡した後であるとする。また、改判直後は従来の花押も平行 して使用が続けられた。氏政は上野国衆や織田氏家臣である滝川一益に対して、 従来の花押を使用した文書を発給している。これは上野国支配が北条氏にとって 不利な状況に陥っていたためで、北条氏内部において重要課題として氏政が主導 権を握ろうとした表われだとする。上野国の制圧が完了後、氏政は新しい花押を 使用した文書を上野国衆に対して発給している。氏政の花押の変遷は北条氏の家 督の譲渡が投階的に行われた一つの表れとして理解している。

 以上、本書は北条氏文書に現れる印判や花押を中心とした諸論考を纏めた一冊 である。
 本書の主要な関心は、北条「イエ」権力内部における当主権力の継承に関する ものである。従来は、小田原合戦において氏政、氏照の兄弟が切腹したという事 実を基に、北条家において隠居である前当主が絶大な権力を行使したという漠然 としたイメージが存在した。また「御本城棟」や「御隠居様」として隠居しても 政務に携わる氏康、氏政の意義付けは先のイメージが先行したせいで、直接学術 的な検討がなされてこなかった。こうしたイメージに対して、印判状の検討をも とに明らかにされた著者の成果は大きいといえるだろう。また、小田原を中心に 活動されてきた筆者の諸論考が全国に向けて発表されたということも喜ばしいこ とである。著者の研究が多くの人々に資することを願う。


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