滝口正哉著『江戸の社会と御免富─富くじ・寺社・庶民─』

評者:加藤 貴
「日本史攷究」33(2009.11)

 本書は、江戸における寺社と庶民の関係を御免富を通じてみていくことで、江 戸の都市社会や文化構造の特質に迫ろうとする意欲的な研究で、今後の近世都市 研究や江戸研究に資するところ大であると思われる。
 まず、本書の構成をあげておこう。

 序章
 第一部 御免富システムの成立と展開   
  第一章 御免富の誕生─由緒と寺社助成策─  
  第二章 御免富の規格化と請負システムの成立─明和〜天明期江戸の富興行 の構造─
  第三章 江戸における御免富の展開  
 第二部 興行場所と請負構造  
  第一章 江戸の御免富興行における「場」  
  第二章 御免富における受入れ寺社の動向─新材木町椙森稲荷の事例から─  
  第三章 富突きにみる江戸の興行空間─浅草寺の富をめぐって─     第四章 御免富の請負構造─文政〜天保期の事例を中心に─  
 第三部 御免富の受容社会  
  第一章 庶民の富札購入と受容構造  
  第二章 富突の道具からみる受容社会─富札・富箱を中心に─  
  第三章 おはなし四文と江戸社会─富突の光と影─  
 終章

 序章でいまだ未解明な点の多い江戸の御免富を、総合的・体系的に把握するた め、関連史料の発掘をして、その実態を明らかにするとしているが、確かに予想 をはるかに上回る新たで多様な資史料の発掘がなされ、そこから明らかにされた 事実は圧倒的である。
 本書の内容は、江戸の御免富に限定するものの、多岐にわたっているので、主 要な論点を中心に整理してみると次の三つにまとめることができよう。

 第一に、歴史的な推移である。富突は十七世紀中頃から福神にまつわる宗教行 事に付随して興行され始め、十七世紀末に宝泉寺・感応寺が興行を開始した。江 戸では十七世紀末以降市中での富突が禁止されたが、享保十三年に宝泉寺・感応 寺のみが興行の継続を許可された。さらに、享保末年に幕府は、仁和寺・興福寺 へ江戸での興行を認可すると、御免富として寺社への経済助成策の一環に位置づ けた。仁和寺・興福寺は興行システムの未成熟により失敗に終わったが、感応寺 ・宝泉寺は新たな手法を導入し、御免富を江戸市民の間に年中行事的に定着させ た。明和〜天明年間に幕府は、寺社の格合に応じて興行会数・年数などを規定し たため、数多くの寺社が新規参入した。寛政改革で一時下火となるが、文政年間 に幕府がより多くの寺社が興行可能な規定に変更したため、さらに多くの寺社が 新規参入していったが、江戸市中に御免富が乱立すると札余り現象が深刻化し、 多くの寺社が御免富から撤退していき、天保十三年に幕府は、市中に大量流出し た富札を統制するため御免富を全面禁止し、終焉を迎えた。

 第二に、興行の場と興行システムの問題である。江戸で出張興行を行う寺社は 、興行を成功させるために繁華な地に立地して集客力があり、興行に熟知し、人 員・諸道具の手配が可能な寺社の境内を借りて興行を行った。境内を貸す寺社は 、地代などの収益をあげていった。場所の提供に特化した椙森稲荷は、興行の恒 常化とその盛況により周辺地域にも経済波及効果をもたらしたが、一方では、根 津権現旅所のように興行が役負担や上納金といった地域の利害と抵触すれば地域 と対立する側面ももった。興行は世話人(富師・請負人)が、興行費用の調達か ら富札の販売までのすべてを請け負うようになり、彼らは実際の運営に携わる元 締めと、興行に先立って運営資金を提供する金主に重層化していた。富札を完売 するため、世話人は富札を市中に流出させていき、幕府の境内完結の原則を破綻 させていった。

 第三に、受容構造についてである。早くから市中に富札屋が存在し、寛政年間 に幕府が境内完結の原則を明示しても、姿を消すことはなく、富札の高額化によ り受容層が限定されてくると、割札により幅広い層に受容させていき、富札の市 中流出を一層促進させてもいった。出世双六によると江戸庶民にとっての御免富 は、当たれば新規に商売を始める元手となり、成功して上層町人となる期待を持 たせたが、一方では手にした大金を遊興に投じて身を持ち崩す危険性も高かった と認識されていた。御免富をさらに江戸庶民に普及させたのが影富で、幕府に禁 じられながらも、旗本などを会元とする組織により運営され、札は湯屋・髪結床 で販売され、札の売り子も購買者も店借層であった。しかし、天保十三年に御免 富が禁止されると影富も姿を消した。道具からみると、富札の発行枚数が増大す るにともない、木札が小型化し、富箱も据付型に加えて攪拌性の高い回転型が登 場するようになっていき、こうした形式の道具類が地方の取退無尽・頼母子の道 具として援用されてもいった。

 終章では、御免富のはたした意義ついて、江戸の庶民が寺社との関わりのなか で創り上げてきた文化様式のひとつとした上で、彼らは御免富禁止後も湯屋・髪 結床・茶屋・寄席などを活動拠点として影富・千社札などの都市文化を享受して おり、独自の室内遊芸文化社会を形成していったこと、もうひとつは、こうした 文化を地方に普及させていったことにあるとしている。

 本書では、多様な資史料にもとづいて、江戸の御免富を詳細に明らかにしてお り、そのため以下に指摘することは、ややもすればないものねだりになってしま うかもしれないが、本書で明らかにされた江戸の御免富をめぐる諸問題を普遍化 して、江戸の都市社会・文化構造をより深く理解するために、いささかなりとも 意味をもてばと思う。

 幕府による寺社助成策として、本書でも指摘されているが、拝領金・拝借金、 勧化、開帳、御免富、諸興行(芝居・相撲など)、門前町屋(結果として岡場所 の設置)の許可などがあげられる。文政年間に幕府が御免富の許可基準を緩和し 、出願する寺社が増加していったのは、寺社と幕府の両者にとって、御免富が有 効な助成策であると認識されていたからであろうが、この時期に助成策のなかで 御免富のみが突出していたのであろうか。いずれにしても、幕府の助成策の全体 的な推移のなかで、助成策としての御免富のもつ特質を、幕府と寺社の両者の視 点から検討する必要があったのではなかろうか。また、幕府が、博奕類似の行為 である富突を、「聖なる空間」である寺社境内に押し込めることで、御免富とし て公認したとするが、なぜ「聖なる空間」を強調するのであろうか。領主権力か ら自由なアジール性をみていく場合に、寺社の聖性が強調されてきたと理解して いる。近世の寺社にアジール性が全く失われたというつもりはないが、幕府の認 識としては、すでに統制下に入っている寺社境内での興行に制限するということ であって、ここでわざわざ寺社の聖性を強調する必要はないのではなかろうか。 それとも、御免富はあくまでも宗教行事の一環であることを前提としていたとい うことであろうか。

 御免富の興行において世話人・請負人の役割・意味を明らかにしている点が注 目される。御免富による収益が、興行主体の寺社、そして興行の場を提供する寺 社、さらに請負人に分配されていく構造をもっており、また、請負人は元締めと 金主に重層化してもいたという。こうしたことは、寺社境内に限定しても、開帳 ・宮地芝居・相撲の興行についても、全く同じというわけではなかろうが、同様 の構造がみられるのではなかろうか。また、三座の芝居町についても、地主・座 元・金主という似たような構造がみてとれる。さらに請負人の存在は、建築工事 をはじめとして江戸社会のさまざまな局面で確認でき、地主と家守の関係も請負 関係に比定することもできる。請負人の実態を解明することは、江戸の都市社会 の特質を解明するひとつの手がかりとなるはずだが、現在のところ小林信也『江 戸の民衆世界と近代化』(東京大学出版会、二〇〇二年)が広場・広小路管理の 請負人について解明しているものの、多様な存在形態を示す請負人の実態解明は 、今後に残された課題といえるが、本書が御免富の興行を実質的に担った請負人 の実態を解明していることは、大きな成果といえよう。また、金主の存在から、 江戸の商人資本により御免富が投資の対象となっていたという指摘は、御免富が 富札だけでなく、投資という回路でも江戸社会と結びついていたということにな ろう。こうしたことも御免富を通じて江戸社会の特質を解明する手がかりを与え てくれよう。

 富札が請負人によって市中に流出し、富札屋によって流通させられ、幕府の境 内完結の原則を形骸化させていったことはよく理解できるが、これにより御免富 文化が江戸市中に普及していったというのは理解しずらい。同様に御免富の富札 の様式や道具類が地方に伝播していった過程はよく理解できたが、これをもって 御免富文化の地方への普及とするのは疑問が残る。そもそも御免富は、いくら幕 府の公認をうけ、宗教行事としての外被をまとったとしても、その本質は収益を あげるための博奕行為であり、出世双六から指摘されているように、庶民が一攫 千金の夢をみることができたとしても、刹那的で確率の極めて低いものであった といえよう。その意味で御免富そのものを文化とするのは無理があるのでないか と思われる。御免富に対する庶民の認識についていえば、文政〜天保年間の札余 り現象を、御免富が乱立したが、幕府の境内完結の原則により興行場が限定され て飽和状態をもたらし、大量の富札が市中に流通した結果と理解しているが、確 かにそうした面を否定できないが、一方では、庶民にとって御免富がそれほど魅 力的なものではなくなっていったからとも考えられないだろうか。この時期の庶 民をとりまく社会状況全体の中で、再検討する必要があろう。ともかく御免富を 文化として理解しようとするのであるならば、本書では今後の課題としているが 、場としての寺社境内にもう少し注目してみる必要があろう。各種法会や縁日・ 祭礼などの宗教的年中行事が執行されるだけでなく、開帳・御免富・相撲・宮芝 居・見世物・寄席が興行され、門前町屋には岡場所が店を開くというように、盛 り場としての様相をみせている。しかも、こうしたものは、江戸文化を構成する 重要な要素でもある。寺社境内が、多様な内容を持つ遊興空間としても展開した のは、町人地と比べると、助成を名目に幕府からの認可を受けやすい空間であっ たからであろう。本書では御免富を宗教行事から射倖性・娯楽性の強いイベント へという筋道で説明しているが、信仰と娯楽は截然と分離できるものではなく、 むしろ両者が渾然一体となって、まさに庶民が寺社との関わりのなかで生み出し ていった文化空間が寺社境内であり、そこに江戸文化のひとつの特質があり、御 免富はそのひとつの要素であったと理解してみてはどうだろうか。なお、江戸の 御免富の特質をより明確に把握するためには、京都・大坂の御免富との比較も重 要と考えられる。

 また、影富を御免富の延長線上に位置づけているが、影富が御免富に付随して 発生したからといっても、両者は異なる位相を示していると考えられる。影富は 、湯屋・髪結床・茶屋・寄席などの室内空間で享受されていたと指摘されている 。江戸庶民の人的交流空間として料理茶屋の座敷などが利用されるようになると 、座興としての音曲・舞踊などが会席者の身につけるべき素養ともなって、座敷 芸などが寄合文化として形成された。こうした一環に影富が位置づくのであるな らば、あくまでも興行の中心である富突が寺社境内で行われる御免富と、座敷で 享受される影富とは、文化的位相が異なっていたといえ、両者は別個にその特質 を論じるべきではなかろうか。であるから、庶民が行っていた富突を、幕府と寺 社は御免富として昇華させたが、影富として再び自らの手に取り戻していったと いう結論には賛成しかねる。

 以上、豊富な内容をもつ本書について、興味を魅かれた点について理解した範 囲で述べてきた。もし誤読・誤解があればご容赦いただきたいが、本書のもつ価 値を不十分ながらも伝えられれば幸いである。


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