有光友學著『戦国史料の世界』

評者:鴨川達夫
「日本歴史」740(2010.1)

 戦国大名今川氏の研究で知られる有光友學氏が、論文集『戦国史料の世界』を上梓された。書名に「今川」という文字はないが、今回の論文集も、やはり今川氏とその周辺を扱ったものである。「あとがき」にも記されているように、氏が『静岡県史』の編纂に携わる中で執筆されたもの、つまり、一九八○〜九○年代に発表されたものが、多く収録されている。
 本書の構成は次の通りである。紙数の制限もあるので、部ごとの内容については、代表的と思われる論文のみを掲げた。

第一部 文書の世界
「由比氏文書集」の紹介/「御家中諸士先祖書」収載の今川氏発給文書
第二部 文書の考察
今川義元−氏真の代替り/感状に見る戦国期の「戦争」
第三都 印章・印判状の世界
今川氏の印章と印判状研究/今川氏印判状の機能
第四部 系図の世界
大宅氏由比系図/葛山氏の系譜
第五部 図面の世界
駿河国長慶寺周辺寺領図写/韮山城砦と総構・内宿
付録 文字の世界

 全部で一八編の論文が収められているが、史料の紹介と翻刻を中心とするものが目立つ。『戦国史料の世界』という書名から、戦国期の文書の形態や様式、あるいは文書の機能に関する論文を期待したが、第三部を除けば、その種の仕事は少ないようである。しかし、第一部で扱われている写本や、第四部の系図、第五部の絵図など、埋もれてしまいがちな材料を発掘し、戦国期の史料を豊かにしていく仕事も、いうまでもなく重要である。本書がその報告であるとすれば、まさにこの書名でよいことになろう。
全編にわたってくまなくコメントする余裕はないので、以下においては、第三部「印章・印判状の世界」に焦点を絞って、所感を述べることにしたい。

 東国の戦国大名の場合、印判および印判状が重要な研究対象であることは、いまさらいうまでもない。しかし、この分野の研究の中には、印判状に思い入れのありすぎるものや、各種印判の使い分けを説明することにとらわれすぎたものが見られ、ついて行けない思いを感じるのも事実である。
この点は有光氏も同様であるらしく、いくつかの研究を手厳しく批判されている。たとえば、同じ日付、同じ宛所の判物と印判状の関係について、印判状が主であり、判物は副次的なものとした研究に対して、「書式・内容から考えて判物が主であり、印判状が従と捉えるのが妥当」「印判状に判物に優先される本状としての性格をみるべきではない」と批判されている(一五三頁)。また、今川義元の二種の印判の使い分けについて、−方は在地を掌握するためのもの、もう一方は施策(主として外的な要因に由来する)を領内に徹底するためのものとした研究に対しては、在地を掌握することと施策を徹底することの間に「どれほどの違いがあるのか」「そもそもそれぞれの意味‥‥‥が曖昧である」と指摘されている(−五一頁)。いずれもきわめて健全な見方であり、何かほっとする思いを感じる。

 有光氏もほぼ同趣旨のことをいわれているが(二○一頁)、印判の使い分け、総じて文書の書式については、おそらくおおまかな基準があっただけであって、細かい部分は、案件の軽重や相手の身分を勘案しつつ、その場その場で適宜に判断していたのではないかと思われる。作成者の意識がその程度であったとすれば、われわれの理解の仕方も、それに合わせなければならない。
たとえば、武田信玄のいわゆる龍印と「晴信」印の使い分け、穴山信君の「栄」印と「怡斎図書」印の使い分けなどは、いずれも上位印と下位印、または主用印と副用印(雑用印)、といった程度の理解でよいように思われる。信君の「怡斎図書」印など、本来は誰かの蔵書印であったものが、何かのきっかけで公文書に流用されるようになったのだろうが、このような例すらあるのだから、印判や印判状を多少突き放して見ることも、あるいは必要ではないだろうか。もっとも、さきに触れた今川義元の二種の印判の使い分けについて、有光氏が「両者に……差異はなかった」と簡単にまとめられているのは(二○二頁)、あっさりしすぎている感じがしないでもない。

 さて、東国の大名が印判を多用した理由については、有光氏は次のように考えておられるようだ。すなわち、いわゆる戦国大名領国が成立し、多数の文書を作成しなければならない中で、厚礼を要しない案件や相手については、花押をすえるのではなく、より簡便な方式を採ることにしたのだ、という考え方である(二〇〇〜二○一頁)。有光氏だけでなく、多くの論者に共通する意見であり、当時このような状況があったことは、おそらく間違いないであろう。
しかし、とくに郷村への指示・命令の文書の場合、大名所用の印判を捺すことで、それが本当に大名の命令であることを明示する、という側面もあったのではないかと思われる。北条氏のいわゆる虎印の場合、そのようを機能を期待されて用いられ始めたことが、同印の最も早い例として知られる永正十五年(一五一八)十月八日付の朱印状に、かなり明確にあらわれている。また、どの大名の場合でも、郷村宛ての竹木や伝馬に関する文書の中に、末端の役人による偽りの取り立てを警戒して、「文書に所定の判がなければ応じる必要はない」などと記した例がしばしば見られることは、あらためて指摘するまでもないであろう。

 最後に、一四五頁で言及されている印文「桶」の朱印について、私見を述べておきたい。この朱印は、十二月十五日付の、三ヵ条から成る覚書の日下に、署名をともなわずに捺されている。有光氏は、この覚書を、同じ日付の今川氏真書状の副状であるとみて、朱印の主を氏真とする見方に反対されている。
しかし、これは副状ではなく、口上を述べるためのメモとして、当主が使者に与えたと思われるものであって、類似の文書は戦国期の東国には少なくない。実態としては、先方に示し、そのまま置いていくのだろうが、形式の上では、あくまでも内々のメモである。したがって、ごく略式に作成すればよく、武田氏の場合、副用印の「晴信」印を用いた例が大半である。これをふまえて考えれば、「桶」印の主を氏真としても問題はなく、さらに、この印判が彼の副用印の一種であったことも、推測してよいのではないかと思われる。

(かもがわ・たつお 東京大学史料編纂所准教授)


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