高梨一美著『沖縄の「かみんちゅ」たち−女性祭司の世界』

評者:福 寛美
「法政大学沖縄文化研究所所報」65(2009.9)

  はじめに

 本著は2005年9月19日に惜しまれながら51歳で世を去った高梨一美氏の遺稿集である。
 高梨氏は慶應義塾大学と同大学院で国文学を学ばれた。その研究はやがて沖縄へ向かい、沖縄の女性祭司のあり方のフィールド・ワークによる研究、そして文献を駆使した研究へと展開していった。その広範な研究業績から選びぬかれた玉稿をまとめたのが本著である。
 本著は高梨氏の才能を愛し、夭折を悼む西村亨氏、長谷川政春氏、伊藤好英氏、佐谷眞木人氏のご尽力により刊行された。巻頭に西村亨氏の「高梨一美君のこと」をおき、巻末には四氏による玉稿の解題、高梨氏の略歴、研究論文等一覧、そして夫君、高梨俊一氏の跋文をおく、という形をとる。

 内容は大きく二つに分かれ、Tは論文が集成され、Uは著者が2002年3月に東横学園女子短期大学女性文化研究所から上梓された単著、『沖縄の女性祭司の世界』が収められている。いずれも平易な文章で、神秘的だが取り付きにくいと思われている沖縄の女性祭司の世界を丁寧に解説している。学究の徒のみならず、一般の読者、たとえば沖縄の民俗、女性祭司、そして社会における女性の立場やあり方に関心を持つ方々にも必読の書である。

 著者は「宗教文化を女性が主導することに素朴な憧れを持った」と沖縄の女性祭司研究に分け入った動機を語る。そして集落の祭祀が徐々に衰退し、老祭司が跡継ぎを持てず、伝承されてきた神歌を伝える次世代のいない嘆きを聴き、老祭司に深く共感する。
 著者は研究者として沖縄で多くのフィールドに出て、そこで着実な学問的成果をあげた。それと同時に瑞々しくしなやかな感性をもって、一人の女性として沖縄の祭司を務める女性達と触れ合った。著者の論文からは、調査する者とされる者、という学問の領域を越えた女性と女性の暖かい心の交流がにじみ出ている。そのような共感と交流があって著者の学問がある、ということを指摘したい。
 跋文で夫君が述べられているように、著者は女性のインフォーマントから聞き取りを行う、という女性研究者にとって性がプラスになる研究分野でその才能を十全に発揮した。研究者とインフォーマントの幸せで暖かい関係に思いを致す時、本著は輝きを増す。

T
「琉球王国の祭司組織の基礎的研究」

 この論文は1999年に発表された。
 琉球王国の首里には間切制度とは別の平等(ひら)という特別の行政区があった。城下を南風平等・真和志平等・西平等の三区域に分け、それぞれに男性の行政職と祭司職が置かれた。三区域の祭司の長として首里大あむしられ・真壁の大あむしられ・儀保の大あむしられの三平等の大あむしられが置かれており、それぞれ首里殿内(どんち)・真壁殿内・儀保殿内に住んだ。その大あむしられの複雑な職掌、そして聞得大君のあり方を解き明かそうとするのが本論文である。
 著者は三平等の大あむしられがノロに分類される役職であり、地方に住む祭司を統括する役割を担うこと、地方の祭司が就任時に首里に上り、国王や聞得大君と直接関係を結ぶ時、取次・仲立ちの役目を果たしたことを『女官御双紙』などから読み解く。また著者は聞得大君の薨去の際、三平等の大あむしられが地方のノロ達に「不浄御衣」を縫い調えさせた、という『女官御双紙』の記述を紹介する。そして三平等の大あむしられの役割を王権と地方祭司の間をつなぐ仲介者であり、儀礼次第を指導する監督者、と位置付ける。
 また『女官御双紙』の時期、聞得大君職は王妃が就任するもの、と規定されたことに筆者は言及する。基本的には終身制である聞得大君職には知行高が付随し、王の血縁の女性が聞得大君に就いた場合、財産が婚家に流出する弊害があることが『球陽』に記されていることを著者は指摘する。そして嫁継ぎの形をとる王妃の継承こそ最も安定した継ぎ方である、と述べる。
 三平等の大あむしられは『おもろさうし』のおもろにも謡われる。著者の考察からおもろを再考すると、新たな知見を得られる、という展望がある。また、おなり神としての聞得大君、神と関わる聖なる神女、として語られがちな聞得大君職がまさに貴婦人の職業であり、知行高と財産、婚姻関係による王家の財産の流出などの生々しい問題も抱えていたことを知ることができる。

「沖縄の女性祭司と神名伝承」

 この論文は2003年に発表された。
 著者はフィールドで祭司には公的な職名の他、内密の神名があることをノロから教えられる。その教えに導かれ、著者は様々な文献から祭司の神名を探索する。
 そして「@就任儀礼のなかで神名を付与され、神霊の憑依を受けて、新たな祭司が誕生した。A御嶽の神名を授かる場合があった。B祭司職と共に神名を代々継承する場合があった。」とまとめる。神名とは日常に用いられる職名とは異なる聖なる名であり、祭司の行う祭儀の本質に関わることを著者は指摘している。
 著者はまた、『おもろさうし』に憑霊信仰が存在していることを先学の説を援用して指摘する。そしておもろの時代の神名は神霊と祭司をつなぐ宗教的な観念の一つであった、と述べる。そのような憑霊信仰に伴う諸概念は、祭司のいた地方の村落の素朴な儀礼で細々と伝えられたことを指摘した上で、著者は「切れ切れになって意義を忘れたり、神名そのものを忘れたりしながらも、なおかつ儀礼と知識の一部を近代まで伝えた。そこに伝承のもつ力強さをあらためて感じた。」と述べ論を閉じる。
 『おもろさうし』のおもろを自閉的なものと捉えるのではなく、外の世界、また近現代の祭司のあり方と対比させて考察することによって得られる知見が、著者により示されている。

「古琉球の女性祭司の活動」

 この論文は2004年に発表された。
 著者は古琉球と呼ばれる時代、祭司がどのように祭司になるのか、という命題を追うため、文献資料を用いる。
 まず古琉球の時代、著者は文献から祭司が神霊の憑依者として活動したこと、祭司に就任するまでの成巫過程に今日に通ずる点が多いことを指摘する。そして、『琉球神道記』に記された祭司の成巫過程として、広範な年齢の託女(祭司のこと)がいた、託女達は儀礼の間食を絶つが健康を損なわない、山野を跋渉しても傷を受けず水に入っても濡れない、御嶽で昼夜を通して神遊びをする、神が離れるときに仮死状態になるが生き返る、儀礼後一日二日してから家へ帰る、とあることを指摘する。そしてこのあり方が宮古島のウヤガン祭祀と意外なほど共通の特徴があることを述べる。
 次に著者は儀礼の目的として古琉球の祭司は呪術的な力をふるって敵を退け謀反者に刑罰を与え、王と国土を守護することを期待されていたことを述べる。また、祭司達は頻繁に神降儀礼を行って王と国土を祝福し守護を与え、場合によっては敵対する者に刑罰を与え、その行為によって神=祭司は畏れ敬われていたことを指摘する。
 やがて近世的な社会が成立した後、女性祭司の活動は迷信視され、廃止と縮小を余儀なくされた。しかし著者は、女性祭司の力を削ごうとした政治家の退陣後はなし崩し的に宗教儀礼が復活して元の状態に戻るという、改革と反動の揺り戻しを、近世を通して繰り返していた、と述べる。そして「古琉球こそは沖縄の宗教文化の原型を形成した時代であったと改めていうことができるだろう。」と結論付ける。
 著者によってシャーマニズムを基礎にする宗教の核心部分が連綿と現代まで伝えられてきたことを知ることができる。

「航海の守護」

 この論文は2003年に発表された。
 琉球王国は島嶼国家であり、航海安全は国王から庶民に至るまでの重要な関心事だった。著者は女性が司る祭祀がなぜ琉球王国で発展し、存続し続けたか理由の一端を探りたい、という動機でこの論文を執筆した。
 著者は王家の流れの具志川家の家譜に1819年、運天按司朝英が薩摩藩主の任官を祝う使者に任ぜられて鹿児島に赴く際、難破して漂流した記事があることを指摘する。運天按司は使者に任ぜられた際に「三平等の御願(うがん)」を行い、難破の危機に際してはじめて祈誓したのは聞得大君だった。
 「三平等(みひら)の御願」とは、王府の官人が旅立ちに際して聞得大君御殿と三平等の殿内(前掲の首里・真壁・儀保の大あむしられが住む)を巡拝して航海の無事を祈ることである。著者は聞得大君御殿での儀礼を、中国への進貢船の儀礼の際の記録に基づいて記述する。そして聞得大君が旅人に拝まれる祈願の対象であり、三平等の大あむしられが旅人のために祈願する者であった、という重要な指摘をする。聞得大君の持つ霊的超越性の指摘は興味深い。
 著者はまた、各地方の祭司がネットワークを持っていたことを指摘する。渡唐(中国へ赴く)船が那覇港を出る時間を見計らって、首里三平等の大あむしられは首里の観音堂で、那覇の大あむは那覇港で、久米島の君南風(久米島の最高神女)と祭司達がそれぞれの拝所で渡唐船の安全を祈願したのである。著者はそのような祭司のネットワークは『おもろさうし』のおもろにも見られることを指摘する。そしてそのような場合、神も聞得大君も君南風もノロも等しく祈願の対象であり、航海の守護を求められる存在だったことを指摘する。
 そして、祭司達は神霊に祈って自在に天候を操る力を持つと信じられ、順調に航海する船人もまた祭司に敬虔に祈っていたこと、その祈りの心こそ祭司の信仰を支えた、と指摘する。
 著者は女性祭司の職務は近世の改革を経て相当に変化したが、航海守護の機能は存続し、遭難の危機に際してその信仰が繰り返し顕在化したことを述べる。そして「航海守護の機能こそは、琉球王朝が祭司制度を必要とし続けた要因の一つであったと結論づけることができよう。」と語る。
 著者によって琉球の祭司への信仰の揺るぎ無さの要因が示されたことは重要である。

「おもろみひやし考」

 この論文は2002年に発表された。
 『おもろさうし』のおもろはどのように歌い舞われたのか、というの著者の問題提起が論文の巻頭に提示される。
 著者はおもろの歌い方に言及した資料からおもろの奏法として目を惹く特徴として「@声を長く伸ばしてうたう唱法、A鼓を伴奏楽器に用いたこと、Bしばしば舞を伴ったこと」を挙げる。そしておもろは「ひやし(拍子)」を打ってうたい舞うことからその儀礼を「おもろみ(御)ひやし」また「みひやし」と呼んだと考えられる、と述べる。
 そしておもろの楽器として様々な名で呼ばれる「つづみ(チヂン)」があること、そして現行の祭祀ではどのような鼓、太鼓が用いられてきたかを図版を用いて紹介する。そしておもろ時代、能楽で用いる胴のくびれた小鼓が伝来していたこと、そしておもろ主取(ぬしとり)の安仁屋家に胴のくびれた鼓が伝来していたらしいことを先学の記録から述べる。また、おもろで「ひやしのつち」と呼ばれる楽器が小型の?(はつ、ばち、シンバル状の楽器)である、と述べる。そしておもろに男女の歌舞の模様がうたわれていることにも言及する。
 おもろの歌唱・歌舞が具体的にどのようになされたかを、著者は円筒形の太鼓を主力と想定し、小型のシンバルを打ち合わせる金属的な甲高い音が鳴り響いたり、雅な小鼓の音が打ち上げられたりした可能性を述べる。
 多彩な打楽器の響くおもろの歌唱・歌舞のあり方が著者の記述によって髣髴としてくる。

「天女と巫女と豊穣と−カーの信仰を核として−」

 この論文は1990年に発表された。
 著者は南島のカー(井泉)が人々の水の供給源であると同時に信仰の対象であること、そして天女が降臨する、あるいは天女のカーへの天降を南島の人々が待望する背景には農の豊穣の信仰があったらしい、という展望を述べる。
 著者は1762年の『大島筆記』の記述に天女の天降りが語られていること、また『琉球国由来記』や『遺老説伝』にも天女の伝承が記されていることを指摘する。そして南島の天人女房譚が多くの場合、カーで水浴中に飛衣を男にとられ、男と結婚して何人かの子を産んだ後に娘の子守唄によって飛衣の隠し場所を知り、それを取り戻して天に帰ったと説くこと、そして天女の飛衣が高倉の稲束・粟束の中に隠されていたことを述べる。そして南島の天女伝承がカーにより来る豊穣をもたらす神霊(セヂ)の信仰と結びついて人々の心に生き続けたことを指摘する。
 著者はカーで実際に秘儀性の強い聖水儀礼(巫女たちが集まり祭祀用の神衣を洗う儀礼)を行っていた巫女の事例と天人女房譚が相似形をなしていることを指摘し、人の生命力を更新する聖水「すで水」信仰と結びついた実際の巫女の有様から天女のイメージが生き生きと思い描かれた、と述べる。そして稲が孕むとされる五月に物忌みが行われ、国頭では巫女達が聖水儀礼と籠りを行ったことを指摘する。
 著者は村々の神聖なカーで行われる聖水儀礼と巫女のこもりは、カーに天降る穀霊を身につけて稲穂の誕生の次第をみずから模すものであった、と考察する。
 天女が穀霊の形象化である、という考察は著者のこの論文以前にもなされている。しかし、南島の民俗に断片的に残る儀礼や文献の記述から、天女と穀霊の神秘的同一性を導き出し、議論を深化させたのは著者の功績である。

「いなくなった女の話」

 この論文は1994年に発表された。
 著者は南島の説話世界に、女がある日突然出奔して行方知らずになったという話がいくつも伝えられていることを指摘する。著者はその話の中に南島社会の基層に存する巫女を再生産するシステム、「文化としてのシャーマニズム」を捉えようとする。
 著者はまず、普天間権現の神の由来の一つとして、家に籠もって人に会わない、「屋籠り」して「あわぬ女」が自らのタブーが侵されたために「出奔」し、家人の「追跡」を振りきり「洞窟入り」して神になった、という物語を取り上げる。また識名権現にも宮=洞窟の傍らに住む祭司の孫娘が跡形もなく消え去り、神に祀られたという話があることを指摘する。
 そして著者はいなくなった女の中に、「逸脱する者」、すなわち生まれながらに神霊と関わることを約束されたサー高生マリ(さーだかうまり)の女の宿命を読み取る。著者はノロやユタの成巫過程の聞き取りから、彼女達が幼少時から著しい偏食や神経質な性格、特異な身体的特徴や病弱、霊的体験などを持っていたことを指摘する。そのような神からのシラセ(神を拝むようにと、神がおくってきた試練)とサー高な資質を受け止め、ノロやユタに成巫することは、平凡な女性の人生を捨てることであり、当人たちの葛藤は大きい。
 著者は「いなくなった女の話」の主人公がサー高生マリの特徴を表現していることをあげ、「「いなくなった女の話」の背景には巫女の成り立ちを語る無数の物語があったと言うことができる。」と述べる。
 さらに著者はサー高生マリの女が洞窟に惹きつけられることを指摘し、南島の洞窟の宗教的意義を探求する。そして南島の洞窟・洞穴は他界への通路、異界とこの世を結ぶ境界とみなされることを、インフォーマントからの聞き取りや村落の聖地観から述べる。そしてサー高生マリの女が混沌とした心的状況をもってこの世と他界を結ぶ境界に籠もることにより、自ら境界性を帯びた存在となって境界の彼方の世界と交わり、神霊を感得することを指摘する。そして、巫女が他界へいったという伝承が数多く存在することも指摘する。
 また著者は宮古島狩俣のウヤガン(祖先神)祭祀において新ウヤガンとなるべき女がウヤガンに連れ去られる、つまり家人から見たら失踪する、というモチーフの存在を指摘する。新ウヤガンは聖地ニスマに入ると神憑りして失踪し、翌日探索され、見出されてウヤガンとして儀礼に加わる。この二度の失踪が若干質をずらしながら成巫儀礼に組み込まれていることを、著者は日常生活の秩序からの離脱をシンボリックに表現する様式と捉える。そして「いなくなった女の話」が女の失踪を繰り返し語る意義を語る。
 著者は巫女の特性と本質に関わる根源的な物語と、現実の巫女の体験が分かち難く絡み合う、物語と現実の共犯関係を視野に入れていたことを論文の最後に語る。
 巫女の根源的な物語によって強く揺すぶられる感受性を、著者もまた備えていたことを思わせる。

「神に追われる女たち」

 この論文は1989年に発表された。
 著者は沖縄で女性の宗教的な力が保たれたことに注目する。そして、神に追われ、あるいは追い詰められて司祭者に就任する成巫のあり方に注目する。
 著者は国頭のカミンチュ(神まつる司祭者)の成巫過程から、サー高生マリのカミンチュの苦悩とカミンチュ誕生への周囲の期待を読み取る。また、別村落のノロの成巫過程において、神事に触発された神霊の憑依、神事に関連した異様な夢などがあることを指摘する。
 また、本部半島の村落のカミンチュで、前任者と系譜関係を持たずに成巫した二人の特殊な事例を著者は取り上げる。二人はともに就任前にも就任後にも夢の中で神霊と交わってその意思を感知する体験を多く持ち、特に神事に関わる何事かを教え導こうとする人物像が登場することを著者は述べる。夢の中でのそのような人物像について著者はユタ的文化複合の影響を指摘する。
 ユタとノロは従来、分けて考察すべき存在、とみなされてきた。しかし、著者があげる事例は村落のノロが、あたかもユタに成巫するかのような過程を経てカミンチュになることを示している。著者の「カミンチュが神霊と結ぶ関係の複雑な諸相は、琉球文化圏を特徴づける固有の宗教的基盤の上で、その総体を捉えなおす必要があると思うのである。」という結びの言葉は論文が発表されて20年経った今も、色褪せることは無い。

「宮古諸島の冬祭−上野村宮国のンナフカ祭祀を中心として−」

 この論文は2003年に発表された。
 宮古諸島の宗教文化のありようは、著者が述べるように独自性が強く個性的である。その宮古島の著名な祭祀の概要が、参与観察した著者によって多くの図版を伴い、丁寧に記述される。次に著者は祭祀の起源伝承を文献に求め、文字化された伝承に沿った装置(豊饒のシンボルの竜宮の壺)が祭祀に備えられ、それを軸に祭祀が展開すること、ンナフカの終了後、魂乞いの儀礼がなされることを述べる。
 次に著者は冬季の祭祀には強い季節風に乗って神が他界から来訪するイメージがあること、大規模な祭りのため祭司の数が増員されること、女性が宗教儀礼において優先的な地位を誇ること、行政当局から禁止されたが復活するといった禁止と復活を繰り返したことを指摘する。
 そして宮古地域は慢性的に水不足であり、細かい周期で豆・麦・芋・栗等の様々な雑穀を育てるため、播種・虫除け・収穫儀礼が切れ目無く続き、季節風が吹き寄せる冬季に包括的な豊饒を乞い招く来訪神祭祀が行われた、と考察する。そして近世の首里王府の農業再編、すなわち水稲と麦の組み合わせを受け入れた他地域が夏に祭祀が集中するのに対し、少量多種の雑穀を栽培する旧い生産様式を保った宮古地域にそれに見合う祭祀暦が残ったことを指摘する。
 祭祀には宗教的側面と実際の生活に密着した側面がある。宮古島の祭祀を農政と作物の実相から見直したこの論文は、ともすれば宗教的側面のみを強調して語りたがる研究者をやんわりとたしなめる要素も内在する。

「まれびと論の形成と展開」

 この論文は1983年に発表された。著者の処女論文である。
 折口信夫のまれびと論は、今日でも日本の民俗・神話研究において大きな影響力を持っている。それでは、まれびと論とは何か、と問われた際、折口の意図に沿って正確にまれびと論について説明できる研究者がどのくらいいるか、というと甚だ心許ない。そのまれびと論の平易な入門書がこの論文である。
 著者は折口が数次にわたって沖縄で民俗採訪旅行を行い、沖縄への理解を深めたことを語る。沖縄採訪以前、折口の来訪神観は天降り著く神と常世から渡ってくる神の二種の神の来往が考えられており、両者を来訪神として総合する観点は成立していない、と著者は述べる。折口は民俗の生活に異郷意識が生きている沖縄での体験をもとに、日本上代の文献世界の他界観を考察し直した。そして海彼の世界「にらいかない」と天上の世界「おぼつかぐら」を対比させ、海彼の神の国の思想が天上の神の国の思想よりも古く、神の性格が向上して天上の神の国を考える様になった、と述べていることを指摘している。
 次に著者は折口が久高島でのろが神の代理や象徴ではなく神そのものとして行動することを「琉球の宗教」で述べていることを指摘する。そして本土と沖縄の固有宗教に共通する基盤として巫女中心の思想をあげ、沖縄に本土の信仰の古型が今尚存していることを指摘している、と述べる。そして沖縄で折口が見た「あんがま」のような「生産其他を祝福しに来る神の託宣」と「ほかひ・ものよし・万歳」など人のする呪言が結びついて呪言の問題が国文学の発生の問題としてたてられたことを指摘する。
 次に著者は、折口が日本本土での民俗芸能の採訪によって、まれびと来訪の目的の考察が、神と精霊の対立に日本の演劇の発生を求めるものとして、芸能史の領域に展開されたことを述べる。
 著者は終章で柳田國男と折口信夫の祖霊観を対比させる。そして祖先が畏怖せられていたという考えが折口信夫の独自のものであること、その他の違いを明瞭に示す。そして時を定めて他界から来訪するものを神・まれびとと考える以前には単に霊魂が来たこと、霊魂と人との関係は祖裔関係ではなく、他界から霊魂が来て人間の身体に付着し、更に分与せられて人間の生命・活動の根源になる、という折口の考えを提示する。
 そして折口信夫の学の体系において「まれびと論と鎮魂論が総合されることによって、日本人の神の祖型の追求は、まれびとから、更に前型の霊魂の来往の問題へと進展したのである。」とまとめる。

「「死者の書」の主題」

 この論文は1984年に発表された。
 「死者の書」は折口が執筆して完結した唯一の小説である。何回にも分けて発表され、作者自身の手によって単行本の形にまとめられた。
 テキストには「日本評論」本と現行本の二つがあり、二つの本は著者が対照表に示す通り、かなり異なっている。「日本評論」本は藤原南家の郎女の行動を発端とする。それに対して現行本は大津皇子の甦りの情景を発端とする。死者である大津皇子、皇位継承をめぐり、刑死し二上山に葬られた聡明で英邁だったとされる亡き皇子の側から構想された発端を持つ物語を折口は重要視した。しかし二つの発端をもって「死者の書」が構想されたことは、作品の文学的完成度からすれば、郎女の物語と大津皇子の物語に分裂しかねない危うさをはらんでいた、と著者は指摘する。
 しかし、多重構造であることが逆に史論の厚みを生んだと考えられる、と著者は述べる。著者は、「昔の人には、歴史と伝説の区別がなく、どれも実際あつたことゝ考へてゐた」という折口の言葉を紹介する。そして実際あったことと信じている人々にとって伝説は一つの歴史である、という折口の考えをまとめて示す。そして折口の「史論」の対象は史実の背後にあり、歴史上の事件をつき動かしていく人々の有様の基層にある感情、また史料に遠景としてしか登場しないが、史実を固有の観点から感受して、今一つの伝え方をする人々の感情を描くことが折口の目的であったことを述べる。
 そして著者は「死者の書」が普遍的古代と当代と両者の間をつなぐ当代の基層部分を描き分け、重ね写真のように重ね合わせた所に、万葉びとの生活の一断面を描いたものである、と述べる。そして折口の「史論の表現形式としての小説」の実現がこの小説である、と述べる。
 最後に著者は「死者の書」がキリスト教のために古代ギリシア・ローマの神が滅びていく時代、“神々の死”を描いた小説『背教者ジュリアノ』(メレジュコフスキー)の影響を受けている、という説を示す。そして、「「死者の書」の主題は、仏教の生活としての受容の姿にあり、維持せられて行くものと変容するものとが、複雑に絡み合う“日本の神々の死”の相貌にあったと考えられる。」とまとめる。

U「沖縄の女性祭司の世界」

 この本は2002年に上梓された。内容は「第一部 民俗社会のなかの祭司」と「第二部 古琉球の祭司史料を読む」に分かれる。
 著者は「序 沖縄の女性祭司の現在」で祭司が置かれた社会状況の厳しさ、近代化に伴い孤立しがちな祭司達のあり方について言及する。そして、調査を始めた頃よりも祭司をめぐる環境が厳しくなっていることを指摘し、「これまで見てきたものを精確に記述せねばならないと思う。」との決意の言葉を述べる。
 著者の指摘通り、2009年現在、祭司をめぐる環境はさらに厳しくなっている。フィールドでの見聞の精確な報告とその分析を明確に分けて記述することに長けていた著者によって、かつての祭祀の一端が明瞭な輪郭を留めた場合も多かった、と推察する。

「第一部 民俗社会のなかの祭司」

「第一章 近代の公儀ノロ」
 著者はこの章でまず、大正7年生まれの国頭の女性が門中の宗家の当代の長女がノロに就任する、という取り決めに従ってノロとなった、そのライフ・ヒストリーを記述する。彼女は先代ノロの死を受け、昭和7年、まず首里へ上って就任儀礼の一環としての拝所めぐりをし、その際、同じ門中出身の補佐役の神女達に助けられていた。そして祭司となったからには村外へ出てはならない、という規制があったこと、ノロの結婚や出産はタブーではないが普通の女性のような結婚が難しかったことが述べられる。
 そしてノロは先代から受け継いだノロ殿内を次世代に受け渡したいと願っていることが語られる。ノロ殿内にはノロ火神(ヌルヒヌカン)、歴代ノロの位牌が祀られ、ノロの装束、祭具(黄金簪、勾玉丸玉を貫いた首飾など)、大規模な祭祀を行った際にノロが乗った駕籠・馬具、そして辞令書や祭祀関係の文書が伝承されている。また、ノロ地としてかつては役地として田畑が給付されていたことも指摘される。

「第二章 民俗知識の継承」
 この章で著者は祭司がいかにして神歌を伝承していくかについて語る。
 著者は神歌はうたう時と場所と人に制約があるうたである、と指摘する。そして神歌とは昔から受け継いだ通り正しくうたわれるべきである、という祭司の理念があることを語る。そして著者はテキスト化された神歌の比較を行い、ある神歌は古いテキストより新しいテキストの方が対語対句が増し、神歌がゆっくり成長していると見ることができる、と指摘する。
 次に著者は神歌ノートを分析し、ノートには「祭司自身が神歌を覚え伝承するために作成したノート」「神歌の伝承のためのノートだが、作成者は祭司自身ではないもの」「詳しい作成事情のわからない書写資料」があることを指摘する。
 そして著者はノートによって神歌を伝承する沖縄本島のノロが、神歌の歌詞を分析し、一語一語の意味の理解を深め、学習していくことを紹介する。また、ノートを活用する宮古島の祭司が意味も解らずに膨大なことばをふしにのせて神歌を丸暗記し、やがて歌の流れの中で詞句の役割やおおよその意味を理解していくこと紹介する。
 最後に著者は沖縄の祭司達はノートを重宝し活用しているが、限定的な利用法をとっていること、歌詞の記憶の手段としてのみ文字を活用したノートがあり、意味内容を理解する段階ではノートが関わらないことを指摘する。そして「文字の限定的な使用こそが、長大な神歌を伝えつつ、近代的・分析的な理解とことばの変容から、神歌の伝承を守る巧妙な仕組みだったということができる。」という重要な指摘をする。

「第三章 沖縄国頭地方の「海神祭祀」の検討」
 国頭地方にはウンジャミとシヌグという村落祭祀が伝承されている。名護市以北の広い範囲に分布していることや儀礼要素の複雑さ、そして隣村同志でさえ甚だしく差異があること、などがウンジャミ・シヌグの総合的な研究を阻んできた、と著者は語る。著者はその総合的研究にいどみ、成果をあげた。
 著者はまず、ウンジャミ・シヌグの行われる地域と分布、名称、時期などを一覧表とする。そしてウンジャミ・ウフユミ祭祀の儀礼の内容、シヌグ祭祀の儀礼の内容を豊富な図版をまじえて記述する。
 そして最後に国頭地方の伝統的なライフスタイルである複合的な生産活動が神観念や他界観に忠実に反映していることを指摘する。そして「機能分化した神ではなく、生活のあらゆる場面の願いに応える包括的な神観念の表出が、ウンジャミ・ウフユミ・シヌグ祭祀の特徴であったということができる。」と述べる。

「第二部 古琉球の祭司史料を読む」

 著者はここで琉球の内部で成った基本的な史料である16世紀の歴代の王が建てた碑文と同時代の『おもろさうし』のおもろを比べ合わせながら、女性祭司と儀礼のあり方を具体的に読み解いていく。著者が取り上げた碑文は次のようなものである。

 一 尚真王代の碑文
  A1522年 真珠湊碑文
 二 尚清王代の碑文
  B1543年 国王頌徳碑
  C1546年 添継御門の南のひのもん
  D1554年 やらざもりぐすくの碑
 三 尚寧王代の碑文
  E1597年 浦添城の前の碑

 ここでは真珠湊碑文についての著者の記述を取り上げる。
 筆者はまず原文(漢字仮名まじり、みはミとカタカナで記す)と書き下し文を対照させ、大意を記す。碑文の背景は首里と真珠湊を結ぶ真玉道と、港に架けた橋が尚真王の命により完成したことで、碑文の後半はその大土木工事の目的を記すことを著者は述べる。
 そして碑文の目的は祝賀儀礼を記すことで、女性祭司による「毛祓い」と僧侶による「橋供養」がなされたことを指摘する。この異なる宗教理念に基づく儀礼が併行し、それぞれ大規模に行われたことについて著者は、「沖縄の民俗宗教と外来の仏教とが排他的でなく、それぞれ独自の位置を占めて併存する古琉球の宗教事情を窺わせる。」と述べる。
 次に著者はまた、細かい解釈と語釈を行う。碑文の中の神歌、ミセセルの言葉は難解ではあるが、ミセセルの示す儀礼行動の中に屋良座森城の毛祓いとほぼ同じ詞章「ダシキャ釘つい差しよわちへ アザカカネ留めわちへ」とあることを著者は指摘する。そして「天上から降臨した君々が、神聖な草木で作った釘(杭)や呪物を、道・橋・城塞などの建造物の要所に突き刺したり結び留めたりして、魔除けの呪いを施し、建造物が永遠に堅固であるように祝福したと考えられる。」と述べる。そして「毛祓いの中心には、呪術的な意味を持つ具体的な儀礼行動があったことがわかる。」と指摘する。
 ミセセルやおもろは現実から乖離した世界をうたっている、と思われがちである。しかし、碑文のミセセルは碑文建立のきっかけとなった土木工事の祝賀儀礼でうたわれたのである。歴史事実とつながるミセセルには、ミセセル歌唱に参加した女性祭司達の息遣いもまた、宿っているのである。

  おわりに

 高梨一美氏の優れた業績を集成したのが『沖縄の「かみんちゅ」たち』である。
 折口信夫が運命の必然として沖縄へ導かれたように、高梨氏も沖縄に導かれた。そして沖縄をフィールドに、調査と文献学を駆使して研究を進めていった。
 古い文献に書かれた女性祭司についての記述、おもろを初めとする神歌にあらわれる女性祭司、それらが現行の女性祭司のあり方と結びつくのか、という問題提起を高梨氏は常に持ち続けていた、と推測する。また、口頭伝承の女性像と実際の祭司、シャーマニズムの息づく社会における女性の立場についても常に思いを巡らせていたのではないか。
 シャーマニズム文化は一見、前近代的である。例えば年配女性などのユタへの過度の依存はたびたび問題視される。しかし、女性が主に担う宗教文化が豊かだったことが、沖縄社会のある種の健全さや、本土には無い精神的な豊かさに?がっていることは確実である。高梨氏はそれをよく知り、深く愛した研究者だった。
 高梨氏の遺された著書には沖縄の宗教文化を研究する大いなる可能性と、尽きない井泉の清冽な真水のようなひらめきが輝いている。それらを活用し、今後に生かすのが我々の努めであろう。

 高梨一美氏の御学恩に深く感謝し、擱筆する。

(沖縄文化研究所国内研究員)


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