榎森進・小口雅史・澤登寛聡編
『北東アジアのなかのアイヌ世界 アイヌ文化の成立と変容 交易と交流を中心として』

評者:谷本晃久
「日本歴史」738(2009.11)

 本書は、同副題の上巻『エミシ・エゾ・アイヌ』(同版元、同年)と姉妹編をなす論文集である。体裁は四部構成で、収載論考は二一本、総計五五五頁に及ぶ大部の書となっている。扱われる時代は一三〜一九世紀であり、特に日本史の近世に相当する時期のものが大半を占める。
 本書の母体となった法政大学国際日本学研究所による研究プロジェクトが主催し、二〇〇四〜〇六年にかけて実施した四回のシンポジウムは、文献史学・考古学・民族学・人文地理学といった超領域的な研究者の参加が見られ、アイヌ史または北方史に求められる学際的な研究を意識した取り組みであった。また、本プロジェクトが自覚的に重視して取り組んだ、いわゆる本州アイヌに関する実証的研究の成果は、シンポジウムや報告書(『アイヌ文化の成立と変容』同研究所、二〇〇七年)の段階から注目を集めていた。
 これらの意欲的な企画の成果が、報告書のレヴェルに留まらず、定評ある歴史・民俗関係の専門書肆から公刊されることは、学界に稗益するところが、まず少なくないといってよい。こうした多彩な分野の論考を含む本書の構成は、次の通りである。

 (0)北東アジアのなかのアイヌ世界−課題と梗概−(榎森進)
第一部 北東アジアのなかのアイヌ社会
 (1)蝦夷錦と北のシルクロード(中村和之・小田寛貴)
 (2)東アジアの歴史世界におけるアイヌの役割(佐々木史郎)
 (3)樺太アイヌの木製品における刻印・人面の信仰的意義(北原次郎太)
第二部 北海道アイヌの文化と秩序
 (4)考古学から見たチャシの年代観(宇田川洋)
 (5)タマサイ・ガラス玉に関する型式学的検討(関根達人)
 (6)「ツクナイ」と「起請文」(渡部賢)
 (7)「ウイマム」と「御目見」にみるふたつの認識論(坂田美奈子)
 (8)場所請負制下のアイヌ社会(長澤政之)
 (9)日本近世の蝦夷地シコツ・イシカリ・サルの地域的特質(市毛幹幸)
 (10)法政大学本『蝦夷島奇観』の一について(佐々木利和)
 (11)松浦武四郎の地誌・地図作製とアイヌ民族(山田志乃布)
第三部 本州アイヌと幕藩制
 (12)本州アイヌの考古学的痕跡(関根達人)
 (13)近世前期における弘前藩のアイヌ支配と藩意識(高橋亜弓)
 (14)幕府巡見使と本州アイヌ(浪川健治)
 (15)青森県内所在の蝦夷錦について(瀧本壽史)
第四部 蝦夷地の和人と幕藩制
 (16)『新羅之記録』の形成過程に関する一考察(新藤透)
 (17)松前藩主の象徴的基盤と神話・芸能(川上真理)
 (18)「蝦夷地之制札」設置方針に関する若干の考察(澤登寛聡)
 (19)天保改革と松前における旅芝居興行(木村涼)
 (20)秋田土崎湊と松前蝦夷地の商品流通の実態(塩屋朋子)
 (21)蝦夷地・和人地・内地をめぐる流通システムとその再編(山田志乃布)

 紙幅の都合上、詳細に内容を評することは叶わないが、以下、駆け足で紹介を行いたい。

 第一部は、(1)・(2)で当該課題における達意の論者が最新の成果を俯瞰的に示す。日・中・露との相互交流を有したアイヌ社会史研究には、複数の言語による文献や物質文化資料の素材化が不可欠なことを改めて示してくれる。
 (3)は物質文化研究の専論としてユニークな意欲作であり、実測・文献史料・聞き取り情報の三者を複合的に素材化し、論題に関する忌避概念の所在を検討する。

 第二部は、(4)・(5)が出土遺構・遺物を素材とした考古学の、(6)〜(11)が和文文献を素材とした文献史学の論考。
 (4)は実在のチャシ跡と一七〜一八世紀末の文献情報とが照合することを指摘。さらにチャシ跡出土の和製威信財の存在が示され、今後の検討を喚起する。(5)は表題出土品の分析から、近世におけるアイヌ−和人関係の変容の反映を見通す。(6)はシャクシャインの戦い後の戦後処理規定である起請文と服属儀礼の解釈の相対化を試みた。
 (7)は口承文芸を史料として文献とともに積極的に取り上げ、従来の歴史叙述の脱構築を試みつつ、認識論的批評の手法を応用し同時代のアイヌ社会の心性に迫る。(8)は幕末期子モロ場所の経営史料からアイヌの生業の特質を析出し、(9)は蝦夷地内の三地域へ向けられた和人踏査者の視線の差異を検討する。(10)・(11)は法政大学所蔵の蝦夷地関係史料を取り上げた実証的な書誌研究。

 第三部は、従来史料的制約から個別実証研究の乏しかったいわゆる本州アイヌを対象としており注目される。
 (12)は青森県域八ヵ所の遺跡からの出土品を、文献や北海道アイヌ所用民具との比較を行いつつアイヌ文化に基づく生業・戦闘と装束の観点から分析したもので、今後の北奥地域における発掘や出土品分析姿勢の見直しに通ずる重要な論考。(13)は従来から注目されてきた弘前藩「国日記」の記事を深く読み込み、藩主への服属儀礼の実態と意義を考察、(14)は文献による本州アイヌ研究の第一人者によるもので、幕府巡見使の記録を素材化した点は史料の広がりという点でも重要。(15)は青森県内に伝世する蝦夷錦を集成したうえで、弘前・盛岡両藩藩政史料にみえる蝦夷錦記事を紹介したものだが、本州アイヌと直接の関係はない。

 第四部は、アイヌ社会を直接対象としていない。主に松前に関する藩政と対日本市場流通を扱った論考により構成される。
 (16)は松前氏の系譜認識を示すクロニクルを書誌学的に検討し、(17)は藩主奉納の神楽祈?の所作・神事内容の分析から松前氏の歴史意識を考察する。(18)は蝦夷地第一次上知に際してアイヌを対象に幕府が出した制札を法制史的に検討した。(19)は天保改革期の風俗取締政策の実施に関する松前藩領を対象とした事例研究。(20)は松前〜秋田土崎湊間の商品流通の実際に関する、(21)は慶応期における江差を軸とした鯡(にしん)集荷システムの再編に関する、それぞれ流通経済史的な分析。

 こうしてみると、各論考間に直接的な関係は希薄であることに気付かされ、一書としての一貫性に欠ける印象が残る。しかしながら重要なことは、収録論考の多くが、一次資・史料の分析に立脚した個別実証研究となっている点である。従来ともすればアイヌ史や北方史は、主語を「アイヌ民族」や「蝦夷地」といった大きな概念に還元されて語られがちで、たとえば近世村落史研究のような地域的個性を微細に描き出すといった叙述は、問題点を共有する層の薄さとも相俟って、意外に重ねられてこなかったからである。本書の公刊は、アイヌ社会を対象とした研究が、個別実証によって語られ得る状況を迎えていることを示す結果ともなっている。
 いずれにせよ本書で示された、編者の榎森進が(0)で強調するような当該課題に関する史料論的広がりや分析手法の深化は、今後それを肯定的にせよ批判的にせよ個別に意識しつつ研究を重ねていく必要性を喚起している。それは同時に、当該課題に関するイメージ再考の息吹の一端に触れることにも繋がるだろう。広く本誌読者諸賢に一読をお勧めする所以である。
(たにもと・あきひさ 北海道大学大学院文学研究科准教授)


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