森田きよみ著『小天狗道中記』
掲載誌・日本経済新聞(2000.10.3)


 天狗ファン追っかけ20年 森田喜代美
 小遣いがたまると、青春18きっぷを手に天狗をまつる神社や寺を巡っている。スカートにズックという軽装で、山の中をトコトコ歩く。大丈夫。天候に気をつけ、山を敬う心を持ってさえいれば、人気の無い山道でもきっと天狗が守ってくれる。子育てで一時中断したが、天狗の追っかけはもう二十年になるだろうか。

「鞍馬天狗」に感銘
 天狗に目覚めたのは小学生のころ、大仏次郎の小説「鞍馬天狗」を読んでだった。正義感に満ち、勇気があり、とても優しい。それでいて出しゃばらず、陰から弱き者を救う。そんな鞍馬天狗に、「なんて男らしいの」と一遍に魅せられてしまった。
 以来、あこがれを抱き続け、大学受験をきっかけに、山岳信仰の山の神としての天狗に目を向けるようになった。美大を目指したものの、デッサンの勉強をしているうちに、本当の美とは何かが分からなくなり、山々にスケッチに出かけた。その時、石仏の素朴な祈りの美しさにりつ然とした。そして、祈る心に美があると感じた。
 ちょうど同じ時期、京都の大谷大学の五来重先生が、山への信仰、修験道についてお書きになった特集記事を目にし、仏教美術を勉強しようと大谷大学への進学を決めた。
 入学すると早速、五来先生の大学院の授業に無理に頼み込んで出席したが、チンプンカンプン。でも「天狗」という言葉が出てくる。「じゃあ、天狗を現場で勉強しよう」と天狗をまつる修験寺などに出かけ、話を聞くようになった。
 東京の西部にある高尾山薬王院には、一九七○年代に出かけた。薬王院の御前様に歴史などを教えていただいた。滝行もさせてくれるとあって大喜びしたが、滝行場の参籠代金がない。山ろくの土産物店に預けた荷物に、財布を入れたままだったのだ。すると、薬王院の男性がお金を貸して下さった。初めての修行体験。滝に打たれながら何となく霊的な、聖なる空気を感じ、今まで知っていたのと違う世界がこの世にはあるのだなと思った。

 最初は日本書紀に登場
 天狗は山伏が守護神としてまつっていた。赤ら顔で鼻が高く、背に翼がある姿が一般的なイメージだが、カラスの顔や山伏姿、僧りょ姿の天狗もいる。
 天狗という言葉が最初に出でくるのは「日本書紀」。平安時代には天狗をまつる山岳信仰が庶民に広まった。ところが中世以降になると、山伏の堕落が始まる。江戸期になると、天狗を妖怪と同一視する風潮も生まれ、本来の姿は次第に忘れられていった。それに明治維新後の廃仏毀釈が追い打ちをかけた。
 そんなことを大学院で修士を終えるまで学んだ。院生時代は京都の修験寺、聖護院に学僧のまかないの世話をしながら居候した。その後結婚。研究を一時中断したが二人の息子が保育園に入ると家族で自宅周辺の福岡県の山歩きを再開。ある日、天狗関係の本を読んだら、研究があまり進んでいない。「私がやらねば」と闘志がわき、塾講師のアルバイトをしてお金をためては、年に三、四回、各地を回るようになった。
 全国には現在、百ほどの天狗信仰の寺や神社がある。私はほぼすべて踏破した。天狗山、天狗岳、天狗岩、天狗森など天狗をまつっていたと思われる地名が、私が気が付いたただけで百二十ほどある。山や岩まで含めると、北海道から沖縄までかなりある。
 山の中を五日ほどかけて歩く、奥駆けの修行も体験した。大峰山の奥駆けに参加した時は、山伏に何度も「ほら貝吹いて」とねだった。別の奥駆けの時は夜、大雨に降られて寝ていたテントがつぶれて大騒ぎ。そんな時でも、山伏は動じることなく、つぶれたテントの下でスヤスヤ眠っていたのにはとでも感動した。

 夫との"縁結び役"も
 実は夫とも、天狗が縁で知り合った。大学の終わりごろ、静岡県の方広寺に行った時だ。調べたつもりだったのに、寺の人に「天狗とは関係ないよ」と言われてガックリ。すると座禅の研修中という男性が、寺を案内してくれ、お堂の中には修験道の開祖、役行者の座像があった。やっぱり関係あるじゃないと喜んだ私。その人が夫になった。
 最近、今までの体騒を「小天狗道中記」(岩田書院)という本にまとめた。論文も何本か執筆した。天狗のルーツは、インドネシアの航空会社の名前にもなっているガルーダ神ではないかと思っている。私はガルーダ神がカルラ炎(不動明王の後ろにある火炎)となって日本に伝わり、後に炎からカラス天狗という神がつくり出されたと考えている。
天狗を追いかけることは、日本人の抱く本来の生き方、心のありようを解き明かすことにつながると思っている。二人の息子が独り立ちしたら、夫と共にすべての天狗にまつわる地を訪れたい。
(もりた・きよみ=日本山岳修験学会会員)
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