久保田順一著『室町・戦国期上野の地域社会』
評者:峰岸 純夫
「歴史評論」691(2007.11)

 一九七〇年以降、群馬県の高校に勤務し教育と研究に従事し、また『群馬県史』『高崎市史』などの編さんに関わってこられた久保田順一氏が、上野中世後期史研究の成果を一書にまとめられた。久保田氏の関心は、関東の一角に位置し守護上杉氏(関東管領)の領国として鎌倉府体制の重要な環をなした上野国が、その後の戦国期において上杉氏も守護代の長尾氏も、その他の白旗一揆などの国衆も、戦国大名に展開することができず、「三つ巴の争覇」といわれる越後上杉・武田・北条の三勢力の「草刈場」と化してしまったのはなぜか、その歴史的条件を諸勢力の具体的な存在形態の分析を通じて明らかにするというものである。
 その内容構成は、以下のとおりである。

 序章  本書の課題と方法
第一部  上州白旗一揆の成立と展開
 一章  上州白旗一揆の成立とその動向
 二章  上杉氏守護体制と上州白旗一揆
 三章  上州北一揆と吾妻・利根
第二部  上杉氏守護体制と関東の戦乱
 四章  上杉氏の領国経営
 五章  享徳の乱と地域社会
 六章  長野氏と上杉氏領国体制
 七章  上杉氏領国体制の終焉
第三部  戦国大名の競合と地域社会
 八章  後北条氏の上野進出
 九章  「関東幕注文」と上野国衆
 一〇章 越後北条氏の厩橋支配
 一一章 上野和田城と上杉・武田の抗争
 一二章 武田・後北条の領土分割
 付論  戦国期の瀬下氏
第四郎  戦国期の町と宗教
 一三章 戦国期の倉賀野町
 一四章 戦国期碓氷郡の町と宗教的環境

 序章では、冒頭に記した趣旨と勝守すみ氏や峰岸の先行研究や近年の黒田基樹氏の国衆論などの研究史の概要が述べ、それらを批判的に継承していく立場が示されている。

 第一部は、南北朝内乱、小山義政の乱、畠山国清ならびに平一揆の乱、上杉禅秀の乱、永享の乱、結城合戦、享徳の乱などの一五世紀東国の内乱のなかで、上野国白旗一揆(上州一揆)の軍事行動やその内部の構成を、幕府や上野守護山内上杉氏との関係に目配りしながら、その展開過程を丹念に追い、相対的に自立性を持った一揆が次第に守護に従属化していく過程を解明する。また一揆内の地域ごとの組織の問題にも触れる。
 一章は、南北朝期に足利氏の軍勢動員と関連して組織され、その後は鎌倉公方ないし管領・守護上杉氏の軍事基盤となった白旗一揆の南北朝・室町期の史料をすべて収集し、その活動の全容を追い、とりわけ白旗一揆が武蔵北・武州南・上州一揆などと分化していく経過を追跡するとともに、上州一揆の確立・展開・解体過程を子細に検討している。
 二章は、南北朝内乱や小山義政の乱における白旗一揆の活動にふれ、ついで永享の乱における白旗一揆と幕府との関係を考察している。ここでは、幕府の指揮命令系統が重視されており、一揆が御内書を得ている点で京都扶持衆に位置づけられるのではないかと指摘している。たしかに、白旗一揆は、将軍足利尊氏の働きかけによって形成された経過があり、その軍勢動員に当たっては幕府の承認が必要であったことは明らかであるが、具体的な軍勢行動は主として管領・守護の傘下で行われ、ほとんど幕府と守護山内上杉氏は一体的であったから、山内上杉氏への従属化は必然的であったと思う。久保田氏はさらに上州一揆(上野国白旗一揆)の構造を追求して「旗頭」である東上野の舞木氏や西上野の長野氏の分析をも行っている。
 三章は、「正木文書」享徳四年の「師(茂呂)郷 北一揆秋間跡」の記載を手がかりに、碓氷郡秋間郷の秋間氏の歴史を追跡し、利根・吾妻を基盤とした上野北白旗一揆(北一揆)の位置づけを行っている。

 第二部は、上杉氏の守護領国体制(上野支配)を明らかにするという視点で、守護権限や守護領の検討を行い、さらに上杉氏権力を支えた西上野の長野氏の研究を行っている。
 四章では、上杉氏の上野領国経営を総体として時間軸を追って明らかにするために、建武政権期の新田氏の遺産である八幡荘や大胡郷が継承され、守護の闕所地の「計沙汰権(処分権)」を基軸に勢力を拡大し、守護領も時代を遂って拡大されていったとする。
 五章は、享徳の乱についての研究で、この乱に関する記録である「松陰私語」や関係古文書類の合戦記録を分析して東上野を中心とした在地諸勢力の動向と所領支配、とりわけ佐野氏や岩松氏と古河公方足利成氏との結びつきを明らかにする。
 六章は、西上野の有力国衆長野氏(上州一揆の旗頭)について、上杉氏の守護領国体制のなかでの位置づけを明らかにし、その後の展開を示している。長野氏が厩橋・大胡長野氏と室田・箕輪長野氏に別れ、戦国期の「関東幕注文」では厩橋衆と箕輪衆となり越山してきた長尾景虎(上杉謙信)を支えた。このなかで紹介された「長純寺記録」(長野業政母一七回忌)の同寺建設奉加帳は長野氏関連の在地武士などの梁・柱の負担を記録している。このなかには「関東幕注文」と重複する人物も見られるが、それ以外の人物や棟高衆・中泉衆・本郷衆・里見衆・野田衆・室田衆・足門衆・綿貫衆・箕輪衆・富岡衆などの村落成員と見られる衆をも網羅しており、長野氏の家臣団や関係者の人的ネットワークを示していて興味深い。
 七章は、主として上杉憲政の越後入りに関する研究で、関連諸史料の分析からその時期を通説の平井落城の天文二一年説を退け、永禄元年八月説を支持している。その間は、上野北部の白井長尾氏や沼田氏などに支えられて利根・吾妻の地域にとどまって越後長尾氏の動静をうかがっていたとしている。

 第三部は、本格的戦国時代の到来である後北条・上杉・武田各戦国大名の上野侵攻とそれに抵抗ないし同盟する上野各地域の地域領主の動向を考察する。
 八章は、天文二一(一五五二)年平井城攻略以降の後北条氏の上野侵攻・制圧とこれに反撃する上杉謙信の永禄三(一五六〇)年以降の関東侵攻(「越山」)についての考察である。このとき来属した各地の「領」ごとの武士の名と幕に付けられた家紋の記録は、「関東幕注文」(上杉家文書)に遺されている。この史料を手がかりにして新田衆・箕輪衆などを中心にして徹底した手堅い分析を行っており、学ぶべき点が多い。ただ、細かい点であるが著者が記載の順番を来属の時間序列、すなわち着到順に記載されたと想定している点については異論がある。上野国においては、白井衆・惣社衆・箕輪衆・厩橋衆・沼田衆・岩下衆(吾妻郡)・(新田衆)・下野足利衆の順番である。なお、桐生衆は下野小山衆や宇都宮寄衆の後にある。さらに下野・下総・武蔵・常陸・安房・上総と続く。久保田氏はこれらを謙信の進入経路に沿ったものと想定している。興味深い指摘ではあるが疑問もある。評者は、この幕注文は特定の陣所(たとえば赤石陣−伊勢崎市)において、参陣して宿営した将士の書き上げで、その順序は上杉氏(憲政)との親疎関係の序列に従ったものと考える。すなわち上野国では守護代家(守護被官)の白井・総社の長尾家を先として、ついで上州一揆の旗頭で守護被官でもある箕輪・厩橋の両長野氏(ただし厩橋長野氏は「放れ馬事件」赤石陣で一部が誅殺されている)、その後にその他の国衆が配置され、下野国では足利長尾氏がトップに置かれ、その後に守護クラスの小山・宇都宮氏が配置されている。桐生衆は上野国であるが、その実態が佐野氏に併呑されているので下野に位置づけられている。武蔵以下は数も少なく特定の序列付けは特にない。以上記したように、「幕注文」の配置の順序は上杉氏の守護領国制の秩序にしたがっていると思われる。
 一〇章は、上杉氏の重臣で関東侵攻の拠点として厩橋に駐留させられた北条(きたじょう)氏についての論考である。永禄三年から天正一一年にわたる二三年間について関係文書を網羅して、四期に分けて分析し、とりわけ第二期で謙信から離反して上杉氏に関東経略の前途に多大の困難をもたらした点を特筆する。厩橋北条氏についての高い水準の論考である。北条氏は結局のところ上野国に土着して厩橋領を支配する国衆として自らの道を開拓した特異な存在といえるであろう。
 一一章は、国衆の和田氏について考察をして、上杉・武田も抗争のなかに位置づけたものである。和田氏は、永禄五〜八年に武田信玄方として再三にわたる上杉方の攻撃をよく凌ぎ、箕輪落城と武田氏の西上野制圧に貢献したことを丹念な史料繰作によって明らかにしている。
 一二章は、論者によって意見の分かれる永禄六年の北条氏康・氏政連署充行状「安保文書」に「上州河北根本足利領内」とある所領についての分析で、前稿に対する伊藤一美氏の批判に答えて再検討したものである。現在の藤岡市・鬼石町域に分布する二七筆の所領は、足利に入部した鎌倉長尾氏(足利・館林長尾氏)の所領で「根本足利領」であったがこれを永禄六年の武田・北条同盟のなかでの領土分割によって、北武蔵の安保氏に与えたものであることを子細に分析している。
 付論は、上野国惣社地区を拠点とする瀬下氏に関する論考で、由緒書など数少ない古文書によってその動向を明らかにしている。

 第四部は、一三章の倉賀野町と一四章の碓氷郡の町場と宗教に関する論考である。前者は、利根川に接した倉賀野(河岸)を支配する倉賀野氏の動向を、交通路(伝馬)と町場の問題を中心に追いながら、その役割を明らかにしている。後者は、高野山清浄心院に残された戦国・近世初期の「上野日月供名簿」を分析して、高野山に寄せる安中地域の武士・僧侶・百姓の信仰の形を垣間見ている。

 以上、本書の内容を紹介しながら若干のコメントを随所に行ってきた。ここではまとめてその評価を行いたい。本書は、中世後期の上野国とりわけ西上野を中心にして、管領・守護上杉氏の支配とその元での国衆の動向をまず抑え、それが戦国期にどのように推移したかを見定める作業といってよいだろう。東上野の新田岩松氏の研究は、それなりに豊富な史料に恵まれているが、西上野の場合は、史料が分散していて研究の困難性がある。このことを承知しながら、丹念に史料を捜索し積み上げていって大きな構築物にする、その長年の努力にまず敬意を表したい。それ故、大きな論を展開して、それに必要な史料を提示するという方法でなくて、地道に一歩一歩進めていくという在地密着型の研究といえる。それ故、明らかにした事実の重みに納得が得られる。
 また研究史に忠実で、従前の研究をつまみ食いでなくよく咀嚼して批判検討を加えたうえで自説を展開している。ここに中世後期上野史研究の大きな達成を見ることが出来る。今後は、本書を見ることなしには上野史はもとより関東中世史研究は語れないと思われる。
(みねぎし すみお)



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