関口功一著『東国の古代氏族』(古代史研究叢書4)
評者:中村 光一
「日本歴史」723(2008.8)


 本書は、著者関口氏が群馬県の文化財行政担当者、高校教諭という多忙な公務に携わるかたわら、これまでに発表してきた上毛野氏および上野地域に関する諸論考に新稿を加え、一書にまとめた論文集である。
 私事になるが、筆者が平成三年の春に、群馬県内にキャンパスを置く現在の勤務校に赴任後まもなく、『群馬県史 通史編二(原始古代二)』(以下、『通史編二』)が刊行された。勤務校には県外からの異動であったため、周辺地域の概説的知識を得る目的で、筆者がまず手にしたのが同書であった。そして、その中の関口氏の執筆になる上毛野氏に関わる記述に触れた時、その斬新さにいささか驚きもし、また刺激を受けることとなった。

 すでに、東日本一の規模を誇る太田天神山古墳、あるいは武人埴輪の優品や大陸からの将来品、高度な技術のもとに作られた副葬品の数々を埋納した群馬県内各地の古墳と、「狭義の(=本来の)上毛野氏」とを安易に結びつけることには疑問が呈されていたが、それでも、「記紀」に記された豊富な伝承を踏まえ、対朝鮮半島外交や蝦夷との戦いに奮戦する「狭義の上毛野氏」を、東国を代表する地方豪族と位置づけることは、広く受け入れられていた見解であったといえよう。
 しかしながら、『通史編二』では、「狭義の上毛野氏」は、ヤマト政権のもとミヤケの管理者として上毛野地域に派遣された一族と位置づけられており、また、後に本来は血縁関係を有しない渡来系氏族や東北地域の諸豪族が、次々と上毛野氏への改賜姓を希望し、次第に「広義の上毛野氏」が形成されていくことについては、「狭義の上毛野氏」の任務遂行者としての愚直さに倣うことが、律令国家への忠誠の証しになるとして、各民族がこぞってこの氏名を求めたためと説明されていたのである。
 『通史編二』が刊行される以前に、通説とはだいぶ様相を異にする関口氏の上毛野氏に関する見解に対して、群馬県史原始古代史部会内でも、先行の『通史編一』との整合性の問題も含め、諸氏から異論が出されたようである。そのため、当該部分の記述についての意見交換の場が持たれ、その討論の内容が、『通史編二』刊行直前の『群馬県史研究』三三号に、「検討会「上毛野氏」をめぐって」として掲載されるという、自治体史としてはやや珍しい措置がとられたことを、筆者はまもなく知ることとなった。
 検討会の記事は、関口氏による自説の要旨の説明と、それに対する質疑応答の形にまとめられているが、今読み返してみても、広狭両様の上毛野氏の実像をめぐって、氏と他の参加者との間で白熱した議論が繰り広げられた様子を、行間からうかがうことができる。一方、参加者から出された種々の疑問に対する氏の回答は、紙数の関係もあって、残念ながら結論部分を簡略に説明する形にとどまるものであった。
 検討会は、「(『通史編二』は)上毛野氏に関する新たな議論の出発点を用意したに過ぎない。これを踏台として、今後の研究の一層の進展が期待される」と結ばれている。『通史編二』から一六年を経て刊行された本書は、検討会で挙げられた数々の論点に対して、関口氏が詳細な回答を提示した、現段階での氏の上毛野氏論の集大成といえよう。本書が、古代氏族研究、また東国古代史の解明にエポックを記すものであるとともに、氏が温めてきた、いわば長年にわたる「宿題」が果たされたという意味からも、その刊行を慶びたいと思う。

 序章中の氏の言によれば、本書は@上毛野氏の本質およびその変質の問題、A「狭い意味での上毛野氏」と「広い意味での上毛野氏」の可能な限りの分別、B上毛野氏をめぐる渡来系氏族の問題、C各地域に、上毛野氏と同化した氏族と同化しなかった氏族が在る意味、の四点の解明を目指すものであった。そして、それに応えるため、一七の論考を「第一部 上毛野氏をめぐる諸問題」、「第二部 「東国六腹朝臣」の意味」、「第三部 東国地域の基礎構造」の三部に分けて収録するという全体構成をとり、さらに前後に序章と終章が付されている。
 ところで、氏の描く上毛野氏像の大枠は『通史編二』の執筆段階でほぼ固まっており、本書収録の各論考は、その枠組みを補強する形でまとめられているわけであるが、当初の構想が雄大である一方、個々の史料の解釈については、時に粗さが感じられる箇所があることもまた事実である。

 たとえば、第一部第四章「七人の配流者」で、氏は続紀天平元年(七二九)二月戊寅条において、長屋王の変に坐して流罪となった氏名不詳の六名のうちの一人として下毛野朝臣虫麻呂を想定し、さらに第二部第一章「下毛野氏に関する基礎的研究」では、大宝律令制定に功のあった古麻呂の子と想定される彼が処罰されたことで、「古麻呂系と考えられる氏族は、長屋王の変で決定的打撃を受け、ほぼ断絶する」と述べられている。
 しかし、長屋王邸での宴席で詩文を披露するという、いわば「文人」的資質によって『懐風藻』に名を記す虫麻呂が、変後に続紀等に現れなくなることのみをもって「政治集団」の一員として変に連座したとみるのはかなり苦しい。また、天平勝宝三年(七五一)十一月の成立とされる『懐風藻』に、虫麻呂が三六歳をもって卒したとある一方、続紀天平宝字元年(七五七)十二月壬子条に、古麻呂の功田をその子に伝えることが認められていることからすると、変後の古麻呂系の断絶ということも考えにくいのではなかろうか。
 また第二部では、通説では「上毛野・下毛野・大野・池田・佐味・車持」の六氏を指すとされる「東国六腹朝臣」の語について、関口氏は大野・池田・佐味氏の性格や分布から、これらの氏族は本来上野地域の出身ではなく、そもそも「東国六腹朝臣」の語自体が、渡来系氏族が改姓するに当たって常套的に使用した言葉であり、具体的な状況に当てはめられる内容を持ったものではないと指摘している。
 氏は、大野・池田・佐味各氏が上毛野氏同族を主張するようになる背景として、氏の東北地域における征討事業との関係を想定しているが、佐味氏の征討への参加を明証する史料はなく、また、仮に八世紀のはじめにその事実があったとしても、池田真枚が活躍した時期までには、半世紀から四分の三世紀近い時間差がある。真枚や大野東人の征討軍内での地位を考えても、はたして三氏を同列に論じることができるのか疑問が残る。
 一方、わずか数例の史料から「○腹」を「常套的に使用した言葉」とまで言い切れるか否かという問題もあり、また、改姓を求める奏言の中で、根拠もないまま「六」という数字が使われたとも考えがたい。それからすると、やはり「東国六腹朝臣」は、具体的な対象を持った語とみる方が自然なのではなかろうか。

 批評がいささか細部にわたったことをご海容いただきたい。関口氏は終章を「成果と課題」とされ、その中で「狭義の上毛野氏」の基本的性格や宗教状況など、いまだ検討が至らなかった点を列挙されている。その意味では、本書はあくまで氏の上毛野氏論の中間地点に位置するものともいえよう。氏によって提示された上毛野氏像は、必ずしも大方の研究者の支持を集めるには至っていないのが現状である。本書の刊行によって、上毛野氏、あるいは東国古代史についての新たな議論が沸きあがることを期待したい。
 最後に、いささか「ないものねだり」となるが、惜しむべきことに本書には索引が付されていない。広狭にわたる上毛野氏を様々な角度から分析した本書に、人名索引あるいは引用史料索引があれば、さらに上毛野氏関係の史料集としての価値も加わったのではないかと残念に思う次第である。
 末筆となるが、今後、関口氏が研究をさらに発展させることを期待・祈念し、拙いながら書評とさせていただきたいと思う。
(なかむら・てるかず 上武大学経営情報学部教授)




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