久保田順一著『室町・戦国期 上野の地域社会』
評者:松本一夫
掲載誌:「歴史学研究」825(2007.3)


 本書は,長年にわたって上野の中世史研究を積み重ねてきた久保田順一氏による論文集である。内容は4部構成で,第1部は上州白旗一揆の問題について論じている。まず第1章「上州白旗一揆の成立とその動向」は,南北朝初期に武蔵・上野南西部に勢力を持っていた児玉党・猪俣党・村山党などにより白旗一揆が結成され,次第に地縁化・肥大化し,その結果上州と武州に分化したこと,上州白旗一揆は上野南西部を中心として南北朝末から応永初期に確立したこと,上州一揆の実体は上州白旗一揆であり,従来,上杉氏領国体制を支えた基盤の1つとされてきたが,結城合戦,享徳の乱頃までは独自の動きがあり,一定の主体性を持っていたこと,などを指摘している。第2章「上杉氏守護体制と上州白旗一揆」では,同一揆が成立期(南北朝時代)から室町幕府との関係が強かったこと,その基盤には地域的な一族一揆が存在したこと,一揆を束ねる旗頭のうち,文明期頃の長野氏は,守護被官長尾氏と深い関係があったため,一揆は守護体制に組み込まれたこと,などを論じている。第3章「上州北一揆と吾妻・利根」は,享徳の乱を契機に分裂した上州一揆の中に,上野北部に成立した北一揆があり,上野守護山内上杉氏に属して活動したこと,この一揆に属した秋間氏などの一族には,山内上杉氏の被官となる者がいたこと,などを述べている。

 第2部は,山内上杉氏の領国支配の成立から終焉までについての諸問題を検討している。 第4章「上杉氏の領国経営」は,上杉氏段階での上野守護領について分析し,鎌倉初期の安達氏段階の所領の一部,ほとんどの旧新田氏領を有する一方で,得宗領については,その主要部がはとんど継承されていないこと,南北朝初期に所領が与えられたままとなっていたが,応永期に国衙職と闕所計沙汰権を与えられたことで新たな発展を遂げたこと,などを主張している。
 第5章「享徳の乱と地域社会」では,新田岩松氏・桐生佐野氏が享徳の乱を乗り切る中で一円的な所領確保に成功し,また一揆体制の解体によって周辺の弱小武士を同心化して国人領主として大きく成長したこと,戦国期には「衆」の頭としての地位を確立したこと,一方,上杉氏はこの乱以降上野一国に対する支配権を失い,西毛地域に所領を集中させ,板鼻・倉賀野などの都市的な場に根拠を置いたこと,などを指摘している。
 第6章「長野氏と上杉氏守護領国体制」では,室町期の長野氏が,守護上杉氏に結びつくことによって上野中央部に複数の所領を与えられ,数家に分かれ発展したこと,上杉氏はこの長野氏の場合のように,一揆衆などの国人に個別に所領・所職を給付し,守護支配の強化を図ったこと,などを論じている。
 第7章「上杉氏守護領国体制の終焉」は,上杉憲政の越後退去が,従来言われてきた天文21年(1552)ではなく,永禄元年(1558)8月の可能性が高いこと,この間に長尾景虎の越後における覇権が確立し,南への分国拡大の好機が到来したこと,一方,憲政も単にシンボルとしてではなく,関東の秩序再建のために自ら主体的に永禄3年の越山に関わっていったこと,などを主張している。

 第3部は,上野に侵攻してきた3大勢力,すなわち後北条,越後長尾(上杉),武田の3氏の動きと,国内武士の対応ぶりを跡づけている。
 第8章「後北条氏の上野進出」では,天文21年以降における後北条氏の上野進出の状況を検討し,従来説を退け,同国南部を拠点に北部まで影響力を広げ,短期間ではあったが一国支配を確立させたと主張している。
 第9章「「関東幕注文」と上野国衆」は,景虎越山時の上野武士について分析し,これまでややもすると恣意的に利用されがちであった「関東幕注文」を吟味し,東上州と西上州では武士たちによる衆の結集に大きな違いがあることなどを指摘している。
 第10章「越後北条氏の厩橋支配」は,景虎の腹心であった北条氏が長野氏にかわって厩橋に入城した永禄5年(1562)以降の動向を追い,3大勢力の政治・軍事力学の中で従う相手をかえざるをえなかった周辺領主の特質を述べている。
 第11章「上野和田城と上杉・武田の抗争」では,西上州の和田城が永禄6年〜9年頃にかけて上杉(謙信),武田の争奪の地となったこと,このような状況の中で国内武士たちは,これら双方に人質を提出したりして対応していたこと,などを論じている。
 第12章「武田・後北条の領土分割」は,かつて守護上杉氏の根拠地の1つであった緑野郡=高山御厨をめぐる3大勢力の動きを検討し,同地域が上州の中でも特別に争奪の場となったことを主張している。
 付論「戦国期の瀬下氏」は,近世の由緒書その他の史料から,在地武士瀬下氏の戦国から近世に至るまでの動きを述べたものである。

 第4部は当該期の都市や宗教について論じた2編からなる。
 第13章「戦国期の倉賀野町」では,倉賀野が西上州における交通上の要衝として守護大名や戦国大名による領国支配の拠点となったこと,在地領主の中には伝馬問屋などを営む町人衆が存在し,戦国大名に従いつつ町人的武士団として発展していったことを述べている。
 第14章「戦国期碓氷郡の町と宗教的環境」は,碓氷郡の領主安中氏が,この地域で信仰されていた真言宗や熊野神を取り込むことなどにより在地支配を安定化させたこと,「上野日月供名簿」の分析から,安中などではある程度の町人が存在し,真言宗信仰によって国衆や被官とのつながりが維持されていたこと,などを指摘している。

 以上紹介してきたように,本書はこれまで研究が手薄であった中世後期の上野政治・社会史を扱った論文集で,氏が『群馬県史』や県内多数の自治体史の編纂に携る中で発表してきた諸論考をまとめたものである。県内在住の研究者として,上野中世史研究をリードしてきたのが久保田氏であることは,衆目の一致するところであろう。そうした氏の一連の研究が,こうして一書としてまとめられたことを,まずもって喜びたい。


 本書の成果として,次の3点をあげる。
 まず1点目は,当該期の上野政治・社会史を考える上での鍵となる上州白旗一揆の分析を進めたことである。周知のように,この一揆についてはかつて峰岸純夫氏がとりあげ,一揆の中にも一族が守護被官となっている者とそうでない者がいて,それらが全体として上杉氏の軍事力を構成していたこと,このうち一部被官が守護と一揆との結節点となったと述べた(峰岸『中世の東国』東京大学出版会,1989年,第3章第1節,初出1964年)。一方,久保田氏は,一揆の動向を成立期から丹念に追究し,その結成・確立に上杉・長尾氏が積極的に関わった徴証がないこと,一揆と被官の相関性のみから上杉氏による統制・支配を評価することには無理があること,いわゆるまる抱え被官とされた者の中にも被宮となっていない別の一族がいる例があること,などを指摘している。もちろん峰岸氏も一揆の独立性を指摘してはいるが,久保田氏はよりそれを強調しているように読める。一揆の独立性をどうみるか。これは表裏の問題として上杉氏の領国支配の実態についてのとらえ方にも大きく関わってくるだけに,今後の論議が期待される。
 次に2点目は,その上杉氏の領国制についての研究水準を確実に高めたことである。特に評者が注目するのは,上野北部が上杉氏の重要な基盤の1つとなったとの指摘である(第3章)。従来,上杉氏の守護領や被官武士たちの根拠地が上野西部に多く見られることから,守護大名としての勢力基盤が同地域にあったことは知られていたが,久保田氏の研究により,これに北部も加わったことは高く評価できよう。そしてこの指摘は,これまで言われてきたように,上杉憲政が天文21年平井城落城の直後に越後入りしたのではなく,数年間は上野北部にいたとする久保田氏の新見解(第7章)や長尾景虎の越山などの問題と深く結びついてくるのである。
 さらに、3点目として,周辺の有力な戦国大名3氏が上野に侵攻してくる状況,および3氏のせめぎ合いの内実,さらにはこれらに対応する国内諸領主の動向を詳細に跡づけたことである。ことにその中で,後北条氏について,一定期間ではあったが一国支配を実現したことを明らかにしたのは,大きな成果であろう。これに関連して,「関東幕注文」を批判的に分析して,「これに匹敵する武将が後北条方に加わった可能性」(218頁)を指摘した点は,それまで上杉方の侵攻にのみ目がいきがちであった当該期の上野政治史を見直すという意味で,高く評価されるべきではないだろうか。


 次に,幾つかの疑問点,残された課題について卑見を述べてみたい。
 まず1つは一揆の問題に関してである。上州白旗一揆の特質を考える上で参考となるのは,平一揆の研究成果であろう。これについて小国浩寿氏は,その成立について,動乱期における私的で族的な危機意識を動機としながらも,その契機としては足利尊氏という上部権力からの公的な働きかけが想定される,としている(小国『鎌倉府体制と東国』吉川弘文館,2001年,16頁,初出1995年)。そうした目で上州一揆を見ると,旗頭・旗本が南北朝期には県氏,応永・永享期には舞木氏,文明期には長野氏だったということであるが,正直なところこれら中小規模の武士たちが,実際に一揆全体にどれほどの指導力を行使しえたのか疑問を禁じえない。やはりこの上州一揆の場合も,上部権力からの働きかけというものが相当な影響力を持っていたのではなかろうか。上部権力との関係で言えば,久保田氏は白旗一揆が一貫して幕府の影響下にあって,鎌倉府の指示のみでは出陣しないと見ている(50頁)。この点小国氏は,蜂起した小山義政に対する鎌倉府の第2次討伐に際し,「武蔵・上野の白旗一揆という氏満・憲方にとっては,膝元の軍をわざわざ義満から賜う低姿勢を示すことによって義満の機嫌を取り結び」(小国前掲書173頁)と,ニュアンスの異なるとらえ方をしている。白旗一揆に限らず,東国武士たちはまさにこの小山義政の乱頃までは頻繁に畿内の戦闘にも参加しており,鎌倉府権力による一元的把握がなされていたわけではない。しかしその一方で,鎌倉府は常に幕府の許可を得なければ彼らを動員できなかったのか,久保田氏の判断にはなお検討の余地がある。

 次に西上野と東上野のとらえ方の問題についてである。上野武士の動向を全体的に把握する上で新田岩松氏の存在は重要である。この点に関する久保田氏の論及部分は少ない。これは岩松氏の研究がすでに相当蓄積されているという氏の判断があるためかもしれない(21頁)。ただそれにしても久保田氏が応永期以降の岩松氏の領主制発展を指摘しているだけという点に,評者は若干物足りなさを感じた。岩松氏は,南北朝初期から足利方として活躍したため,南朝方として没落した新田本宗家およびそれに親しい一族の所領のうち相当な部分を継承し,はやくから一円的な支配を確立させているのである(勝守すみ「室町時代における東国武士所領の展開−岩松氏の場合−」,『群馬大学紀要』人文3−3,1954年)。したがって上杉氏の上野守護としての一国支配権も,南北朝前期段階まで久保田氏も指摘しているような岩松氏との協調関係があって(110〜111頁)一定程度実現したのである。しかし南北朝後期には,はやくも岩松氏と鎌倉公方との直接的な結びつきが強まっていき,すでにこの段階で上杉氏の影響力は東上野地域には及びにくくなっていた(拙著『東国守護の歴史的特質』岩田書院,2001年,第3編第6章,初出1999年)。

 また,周辺の有力戦国大名の上野侵攻に対する国内領主の対応に関して,久保田氏はそうした個別研究が進んできたことをあげ,「これによって上野戦国史像は,上杉・武田・後北条などの有力戦国大名の草刈り場というイメージから脱却する条件が整えられた」と指摘している(297頁)。それでは,その「草刈り場」にかわるイメージとはどのようなものなのか。評者は,久保田氏の諸論考を拝読しても,それがつかめなかった(結局,諸領主は強い方に靡いてしまうし,それに失敗した者は没落する)し,逆に第12章などは,大勢力の境界の地をとりあげて「上州の中でも特別に三者の争奪の場となった」と結論づけるなど,従来のイメージをより強める印象を受けてしまった。基本的な事実関係の確定もされていなかった中からの研究成果に対し,あれもこれもと望んではいけないであろうが,今後ぜひこうした点へのご高見を示していただきたいと思う。

 さらに,本書最大の課題の1つは,上野守護であり関東管領でもあった山内上杉氏が,卓越した地位と力を持ち,他に比べても有利な条件にありながら,なぜ戦国大名として生き残れなかったかを探ることであった。しかしこのことについても,明確な解答を読みとることはできなかった。久保田氏は序章において一定の見解を示してはいる(10頁)が,やはり本書全体を1つの大きな論文と見た場合,ぜひとも終章を設け,それまでの具体的な考察をふまえた結論を提示していただきたかった。


 以上4点を指摘したが,いずれにせよ本書の発刊によって,上野中世史の大きな基礎が確立されたことは疑う余地がない。今後,これを機に諸方面での研究が一層進展することを期待したい。
 文中,評者の力不足により曲解があったかと恐れる。特に専門分野からはずれる戦国史の部分には誤りが多いと思われ,あわせて久保田氏や関係の先学の方々に寛恕を乞うものである。


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