著者名:一宮研究会編『中世一宮制の歴史的展開』(上・下巻)
評 者:田村 正孝
掲載誌:「日本史研究」527(2006.7)


 ここ数年来、神祇をめぐる研究が飛躍的に進展している。その一翼を担っているのが諸国一宮制研究である。二〇〇〇年に中世諸国一宮制研究会は、日本全国の多彩な様相を示す一宮・一宮制の基礎的情報を収載した『中世諸国一宮制の基礎的研究』(岩田書院)を発刊した。この後、中世諸国一宮制研究会を再編成した一宮研究会は、前書によって得られた研究成果を踏まえて、各執筆者の問題意識と関心に基づいた研究の集積を上梓した。本書は、個別研究編と総合研究編の二冊、計二二本の論文からなる。検討対象は広範かつ多岐にわたっており、内容の充実した力作揃いの論文集である。

    一

 まず、本書の内容を紹介しよう。
○上巻‥個別研究編
 井上寛司「中世一宮制研究の現状と課題−発刊に当たって−」では、本書の導入部として、本書全体の論点を整理している。
 井上寛司「中世長門国一の宮制の構造と特質」では、@一宮制成立期に一宮と二宮が国衙権力機構と密接な関わりのもとに、長門国に即した形で王権神話を再編成・再構成し、中世的な神社構造・体制を作りあげたこと、A鎌倉期の守護勢力の伸張による国衙機構の衰退が一宮・二宮の変質を迫り、室町期には守護大内氏が在地の伝統的秩序を組み込む形で一宮制を再編成した、と長門国一宮制の構造と特質を論じる。
 榎原雅治「三つの吉備津宮をめぐる諸問題」では、同じ主神を持ち、近世までいずれも「吉備津宮」の名で呼ばれた備前・備中・備後国の一宮の歴史的関係を解明する。まず、吉備津宮は、国ごとに一宮を定めるという国家的な施策が進行するなかで、明確に三社が区別されていったとする。また、流鏑馬を検討し、流鏑馬の由来を貴族社会の僻邪行事に求め、無前提に在地領主層の軍事的デモンストレーションとする旧来の理解に再考を促す。
 日隈正守「薩摩国における国一宮の形成過程」は、平安期から鎌倉期にかけての薩摩国における神祇体制の検討により、国一宮の形成過程を明らかにする。鎌倉後期の蒙古襲来時の異国降伏祈祷や神宝奉献の問題を契機として、国内トップの社格「薩摩国鎮守」をもつ開門神社と八幡新田宮の間で一宮相論が勃発した。そして、新田宮がこれに勝ち抜くことにより薩摩国にはじめて国一宮が成立したと論じる。
 岡野友彦「中世多度神社祠官小串氏について」では、室町幕府奉公衆の小串氏が、一五世紀後半に多度社の祠官となった過程を解明する。熱田社千秋家のように社家が幕府吏僚となった事例はよく知られるが、その逆パターンの事例を紹介する。
 後藤武志「伝領からみた熱田社−鎌倉後期から南北朝期を中心に−」は、鎌倉後期から南北朝期における皇室領熱田社領の伝領の過程を検討し、熱田社領は、鎌倉後期の両統迭立以降、持明院統内の惣領が管領する別相伝的な性格を帯びていたと説く。
 上村喜久子「中世地域社会における熱田信仰」では、尾張国内の社寺縁起を用いて、地域社会における熱田信仰の実態を解明する。一宮制の整備が進む中で中世王権神話に基づいた熱田神が創出された。しかし、地域社会の受容は、@尾張氏神、A武運・武威を与える護神、B仏法興隆・擁護の神、C郷村鎮守、というように多様であったことを論じる。
 鈴木哲雄「香取社海夫注文の史料的性格について」は、南北朝期の下総国香取社の海支配に関係する史料である海夫注文を史料学的に検討し、この注文の作成の背景には、海夫など香取社領への国人の押領に対する、香取社の社領回復運動があったことを指摘する。
 山本高志「中世後期における守護河野氏と伊予国一宮」は、一宮が中央と在地の結節点に存在するとし、[中央−伊予国−在地]と連なる宗教構造を解明する。中世後期の三島宮は、守護河野氏の統制を受けつつも、伊予全域に勧請社を展開することで、一宮としての地位を再確立したと論じる。
 福島金治「中世後期大隅正八幡宮社家の存在形態」では、荘園制や守護との関係を通じて、正八幡宮社家の存在形態を描く。南北朝末期から正八幡宮への介入を展開した守護島津氏は、天文一七(一五四八)年に社家本田氏を追放するに至った。これにより、社家組織に大きな変動が生じ、留守・沢氏体制から、沢氏を頂点とする体制へと移行したとする。
 渡邊大門「中世後期における播磨国一宮伊和神社の存在形態」では、守護・国人の地域支配と伊和神社の関係を解明する。永正年間(一五〇四〜二一)に伊和神社を保護していた守護赤松氏の影響力が後退した。それにかわり登場した国人宇野氏は、宍粟郡内で勧進や造営にかかる費用を徴収し、一郡レベルでの一宮保護政策を展開したと論じる。
 堀本一繁「戦国期における肥前河上社と地域権力」は、まず、起請文の分析を通じて戦国期の肥前国の神祇秩序を検討し、神文に掲げる神々の選択は、伝統的な国郡制の枠組みの影響を受けていたとする。また、河上社の経済基盤や造営の維持基盤を解明し、それは佐賀郡を中心とした河上社周辺に限定されていたことを明らかにする。

○下巻‥総合研究編
 岡田荘司「平安期の国司祭祀と諸国一宮」では、中央の二十二社制と地方にて多様性を持って展開した一宮制を、連動した神祇秩序として考え得るのかという関心のもとに、国司初任神拝・神宝奉献・東遊を通じて国司祭祀を検討する。そして、二十二社制は、朝廷による地域を限定した自己完結的祭祀体制であり、国衙・社家・武家の間で複雑に展開する一宮制とは、その方向性に違いがあると論じる。
 上島享「日本中世の神観念と国土観」では、勝覚筆『護持僧作法』を通じて、密教側による神祇の導入を説くとともに、そこには「大日本国」「王城」という国土観念を明確に打ち出していることを指摘する。また、一〇世紀中葉より中世神祇秩序の形成が進むなか、法会や修法の場に勧請される神々は大きく変化し、鎌倉中期までには、法会に勧請される神々を通して在地の百姓らも、観念的なレベルで日本の国土・国家を認識していたとする。
 横井靖仁「「鎮守神」と王権−中世的神祇体系の基軸をめぐって−」は、「鎮守」をキーワードに一宮制のイデオロギー的特質を検討する。鎮守神の原像は第一義的に守護神であったわけではなかったが、承平・天慶の乱という国家的危機を契機に、神々の呪力は「国土」(王土)を守護するものへと転じた。また、摂関期以降の相次ぐ幼帝の出現という王の身体問題でも、神々が王の統治を観念的に補完する役割を担うようになったと論じる。
 田中健二「宇佐宮における本家近衛家の家領支配について−宇佐宮奉行とその発給文書の分析を中心に−」は、鎌倉期における本家近衛家による宇佐宮支配を、近衛家から発給文書の様態や奉行(本家政所別当)を網羅的に検討することによって解明する。
 井原今朝男「中世の国衙寺社体制と民衆統合儀礼」は、鎌倉・室町期の中世国衙が、国内寺社を掌握するシステムを解明する。国衙は民衆統合儀礼である護国法会を催行するために、国内寺社での用途料を保障するとともに、法会執行のために楽頭などの音楽集団・職人集団を編成した。このような地方における儀礼の執行体制を国衙寺社体制とする。
 伊藤邦彦「鎌倉幕府「異国降伏」祈裔と一宮−守護制度との関係を中心に−」は、建治元(一二七五)年以降の諸国の寺社に対する幕府の「異国降伏」祈祷指令の経過を、神宝奉献・所領寄進などを含めて整理する。
 海津一朗「異国降伏祈?体制と諸国一宮興行」は、成立期に各国多様性を持っていた一宮が、対モンゴル戦争を契機とする異国降伏祈祷体制により、武家政権のもとで大規模に淘汰・再編されたと論じる。そして、多様なあり方を示していた諸国一宮が、一定の均質性をもつ選ばれた神々として肩をならべるようになったとする。
 水谷類「「宗教センター」と「宗教サロン」−中世尾張・三河宗教文化圏のダイナミズム−」は、中世後期の地域における宗教ネットワークを描く。三河国足助八幡宮といった小地域ごとに存在する「宗教センター」は、地域住民の進歩的・開明的な精神的欲求に応じる役割を担ったという。この宗教センターを支えたのは、尾張国熱田社や真福寺を核とする、広域な宗教文化圏内に張り巡らされた宗教ネットワークであり、このネットワークの結節点に生じた無数の宗教サロンであったと論じる。
 大塚統子「「一宮記」の諸系統−諸本の書誌的考察を中心に−」は、近世にともに「一宮記」と呼ばれた『諸国一宮神名帳』・『大日本国一宮記』の現存する諸本の系統分析をする。そして、『大日本国一宮記』は『諸国一宮神名帳』を参照しつつ、『延喜式』神名帳の神名記載への回帰を試みて編集されたものであることを明らかにする。
 吉満史絵「薩摩国及び大隅国一宮本殿における巻龍柱について−薩摩藩における近世神社本殿から見て−」は、近世薩摩藩領である薩摩・大隅・日向国の神社本殿の建築形式を分析する。そして、薩摩藩内に特徴的な巻龍柱を有する本殿を持つ神社は、中世国一宮系神社や藩内有力社であったことを解明する。
 以上、評者なりに本書の内容をまとめてみた。つづいて、本書の内容について論評していこう。

    二

 前節の内容整理に明らかであるが、本書の内容は、時代・対象・問題関心が広範かつ多岐に渡っており、その全てについて論じることは、評者の能力はもとより、紙幅の関係からも不可能である。ここでは「中世諸国一宮制」に論点をしぼって論評したい。まず、中世宗教史研究との関係から検討する。
 中世宗教史研究は、一九七〇年代に黒田俊雄氏の顕密体制論の提起により、仏教史の側で飛躍的に進展した。しかし、中世宗教のもう一つの構成要素である神祇をめぐる研究は、仏教史研究と比べ大きく立ち遅れていた。この時期の一宮研究に限って言えば、幕府・国衙・守護・在地領主層との関係、つまり、領主制論による政治的イデオロギーの観点からの分析に偏っており、一宮はある意味副次的に扱われていたにすぎなかった。
 このような状況に対し、神祇研究を大きく前進させたのが、八〇年代の井上寛司氏による「中世諸国一宮制」の提唱であろう(1)。井上氏は、一宮の本質を検討することを目的として、それが持つ宗教イデオロギー・制度的な側面の解明の必要性を説いた。これ以後の一宮研究は、@一宮制の成立過程、A一宮を中軸に据えた地域社会との関係、B中央の神祇秩序である「王城鎮護二十二社」制とも連動した中世的な神社制度・神祇体系、の三点を軸に展開した。本書には、これらの視点に加え、横井論文の「鎮守」神という宗教イデオロギーヘの論究、また、吉満論文のような建築分野からの論稿も盛り込まれ、多様な観点から一宮・一宮制にアプローチしている。これにより、中世諸国一の宮制の実態の解明がさらに進展したと言えるだろう。
 つぎに、一宮と地域の関係に触れよう。本書では、@一宮を軸に据えた地域権力との関係、A信仰圏や国内の寺社ネットワークの視点から論稿を得た。なかでも、国内あるいは一国を超える規模の宗教ネットワークが検討された意味は大きい。例えば、井原論文では、国衙支配の視点から、国衙を核とした寺社間の国内ネットワークが存在したとする。また、在地との関係では、上村論文が王権神話に基づき創出された熱田神が、在地の志向する形で受容されて信仰圏が形成されたこと、山本論文では、上村論文とは対照的に、三島宮が王権神話を在地に貫徹させる形でネットワークを形成していたとする。さらに、水谷論文では、小地域ごとの宗教センターと一国を超える規模の宗教文化圏に存在する宗教ネットワークによる重層的な宗教構造を解明する。ここからは、一宮が地域の神祇秩序の中核となる場合とならない場合があることが明らかとなり、これまでの画一的な一宮像から、各国ごとにおける一宮・一宮制の多様な実態が描かれるようになった。
 最後に、一宮と中央との関係である。井上氏は、諸国一宮制が成立するにあたり、一宮が持っていた性格の一つに、中世日本国にとっての国家的な守護神の側面があったとし、一宮が中世の神祇秩序の一翼を担っていた(2)ことを指摘する。このことを踏まえ、本書でも、成立期を中心に王権との関係への言及がみられる。岡田論文では、神宝奉献・東遊奉納を通じて国衙祭祀を、横井論文でも鎮守神や国司神拝が検討されている。また、井上論文や上村論文などでは、一宮による王権神話の受容の様態が描かれる。さらに、上島論文では顕密仏教側による神祇の導入が解明される。中世の神祇と顕密仏教は密接な関係があり、佐藤弘夫氏が進めている(3)ような、神仏習合や本地垂迹説といった神仏関係をめぐる研究を取り込むことが課題として挙げられよう。

   三

 ここからは、本書について評者が抱いた疑問点を提示しつつ、今後の一宮制研究に対し何点か論点を提起したい。
 まず、中世諸国一宮制の成立をめぐる議論である。一宮制は、地域的に多様な実態を持つため、制度としての統一的理解に困難をもたらしている。このため、成立期の議論は、一宮制の本質を探る上でも重要である。本書でも、岡田論文が一宮制を中央の二十二社と連動した中世の国家的な神社制度として捉えられるか、という問題を提起する。岡田氏は、一宮制は国ごとの体制に応じて成立したもので、その機能が中央の国家制度として一括した形態として成立していないと論じる。ここで問題となるのが、承平・天慶の乱を宗教秩序の画期として評価するか否かである。この内乱を契機とした王権の危機に対応して、横井論文では、「鎮守」神の性格が変化すること、上島論文でも、顕密仏教が神祇を導入することを指摘する。横井氏や上島氏はこの内乱に宗教秩序の画期を置き、ここに中世宗教秩序の萌芽を求める。評者もこの画期を評価し、ここに中世的な神祇秩序の本質が内包すると考えたい。それは、制度史的に見ても、王権の危機に対応する形で、古代の延喜式神社制度から二十二社制(成立時は十六社制)・一宮制という中世的な神社秩序へと全国的に再編成されていくからである。これに対し、岡田氏は宗教イデオロギー的側面を含めた検討には禁欲的である。岡田氏は中央祭祀・国司祭祀の内実の解明に主たる関心があるため、承平・天慶の乱に特段の画期を求めない。この点は、一宮制と関わりの深い国司神拝の評価にも関わる。しかし、中世神祇秩序・神社制度の本質は、宗教イデオロギー的側面の検討を抜きにんては、的確に捉えることができないのではなかろうか。一宮制が二十二社制とは異なり、国ごとに多様性を持って展開することは、二次的な問題と考える。

 つぎに、中世一宮制の全面的な再検討を迫った、井原論文の国衙寺社体制について取り上げたい。井原氏は、中世の諸国一宮や惣社のみを国司と関係する特殊な寺社として評価し、一宮惣社制という国制的枠組みが存在したとの評価は再検討が必要であると論じる。井原氏は、全国的に上は天皇家御願寺から国一宮・国分寺、下は荘園鎮守・村落寺社まで同じ日に同じ儀式を行う護国法会こそ民衆統合システムであると主張する。そして、国衙を中核としたこの民衆統合儀礼の執行体制を国衙寺社体制とする。この国衙寺社体制は、国衙を核として、一宮のみならず一宮系以外の神社や寺院を包摂した一国レベルの宗教秩序を表しうるものと評価できる。ただし、井原氏は寺院・神社にて共通に行われた仏事を取り上げ、神社独自の機能の検討を捨象している。また、国衙による儀礼執行体制に焦点があるため、国内における縦の神祇秩序を過小評価する傾向がある。しかし、一宮・惣社の設置には国司が国司神拝などを通じて積極的に関与した。他にも、一宮では、護国法会以外にも国衙祭祀が催行されたり、造営にあたっては国衙が中心となって一国平均役で行われたりすることが多かった。このようにして、一宮と惣社は国内において他の寺社とは明らかに異なる性格を持つようになり、これを軸とした神祇秩序を形成していた。それでは、なぜ一宮・惣社が国衙と密接な関係にあったのか。それは、蒙古襲来時の一宮の興行が国家的危機に対応したものであったように、諸国一宮制の本質は、第一義的には「王土」「国土」の守護にあった。つまり、諸国一宮や惣社はあくまで王権や国家の問題が前提としてあり、国司・国衙との関係という側面からすれば、特殊な寺社と評価できるのではないだろうか。

 つづいて、鎌倉末・南北朝期以降の一宮制について触れたい。この時期の一宮制をめぐる研究は、成立期や解体期である戦国期に比べると格段に少ない。しかし、この時期の一宮の展開は、一宮制を考える上で、重要な問題を孕んでいる。なぜならば、この時期は一宮が中世前期に持っていた国家守護神的な性格を薄め、制度の本質の側面に曖昧さが増してくるからである。その要因として、@守護勢力の伸張による国衙機構の衰退、A一宮への地域権力の介入、逆にB経済基盤の衰退により一宮が地域権力ヘ依存し始めることがある。また、南北朝内乱は在地構造の変化をもたらした。これは、一宮の祭祀構造にも影響し、例えば、信濃国諏訪社では、在地構造に対応した形で祭礼の頭役勤仕形態が再編された(4)。また、榎原氏は、播磨国を事例として、一宮祭祀が在地の秩序を吸収する形で変化したことを指摘する(5)。このことは、社領・祭祀・造営形態などの面からも検討される必要があるだろう。
 以上のことから、この時期における一宮の実態、二十二社制、さらに伊勢・八幡といった全国的な信仰圏を獲得した神の検討を含めて、中世の神祇秩序がどのように変質したのか、今後、さらに解明されることが望まれる。

 つぎに、戦国期の一宮について。この時期の一宮をめぐる議論は、戦国大名が一宮の一国祭祀・造営役に付随する一国賦課権の掌握が論点となる傾向があった。しかしそれは渡邊論文で指摘されたように、戦国期の播磨国一宮の造営役が、国人宇野氏の勢力圏内である宍粟郡一郡規模で維持されていたこと、また、信濃国一宮諏訪社の頭役祭祀・造営役では、戦国期において実際に役銭収取を実現できたのは信濃国内の戦国大名武田氏領に限定されたように、地域権力の領域支配に限定される側面があった。したがって、一宮を基軸とする地域の実態のさらなる解明が必要となるだろう。
 また、国一宮の位置も戦国大名との関係によっていくつかの形態があったとみられる。それは、@諏訪社の事例のように戦国大名が一宮を積極的に利用する場合、A出雲国杵築社や大隅国正八幡宮のように、戦国大名は領国支配の有効性から保護するものの、一宮自体の位置は相対的に低下し、対照的に戦国大名の領国神とも言うべき神社が登場する場合があった。これまで、一宮が一国規模に対して祭祀機能や権威を保持していたことは、ともすれば自明の事として論じられる傾向があった。この点については、一宮が一国規模で保持した側面と失いつつあった側面を、一宮の実態に即して再検討される必要があるだろう。

 最後に、近世の一宮の問題に触れたい。中世諸国一宮制は、豊臣秀吉による太閤検地をもって終焉を迎える。これにより、社領は大幅に縮小し、社家や祭礼の存在形態も大きく転換を迫られるようになる。ただ、一宮の呼称は近世に至っても存続し、肥前国で千栗八幡宮と河上社が一宮相論をしたように、一宮は幕藩体制下においても一定の権威を持ちつつ存続したことが推測される。また、戦国期以降、吉田神道の動きも活発になり、神祇秩序は近世的なものへと再編される。近世の一宮の存在形態はいまだ十分に明らかにされているとは言えず、実態の解明は今後の課題となるだろう。

 以上、「中世一宮制」に論点を絞って卑見を述べてきた。本書により、一宮・一宮制のみならず中世神祇秩序の解明がなお一層進んだことは疑いない。ただし、一宮制の展開が多様性を持ち複雑なだけに、議論が分化し錯綜することは危惧される。引き続き、国ごとの地域的・歴史的特質を踏まえながら、一宮制の統一性・普遍性を追求することが課題となろう。本書は、現段階の一宮制研究の到達点を示す一書であり、これを基に中世一宮制研究、さらに中世神祇秩序の解明が一層進展することが期待される。
 最後に、評者の力量不足から、誤読・誤解により筋違いの批判をした恐れがある。また、全論文について論評を加えることができなかった。この点については、各執筆者・読者の御海容を願うばかりである。

(1)井上寛司「中世諸国一宮制の成立」(『歴史研究』二五九、一九八二年)、同「中世諸国一宮制と地域支配権力」(『日本史研究』三〇八、一九八八年)。
(2)井上寛司「中世諸国一宮制研究の現状と課題」(『中世諸国一宮制の基礎的研究』、岩田書院、二〇〇〇年)。
(3)佐藤弘夫「神仏習合と神祇不拝」(『日本史研究』五一一、二〇〇五年)。
(4)諏訪社の事例は、拙稿「中世後期における信濃国一宮諏訪社と地域」(『ヒストリア』照されたい。
(5)榎原雅治「中世後期の地域社会と村落祭祀」(『日本中世地域社会の構造』、校倉 書房、二〇〇〇年、初出は一九九二年)。


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