著者名:一宮研究会編『中世一宮制の歴史的展開』上・下
評 者:上杉 和彦
掲載誌:「日本歴史」694(2006.3)

この二冊の書物は、井上寛司氏を中心として一九九四年五月に発足した「中世諸国一宮制研究会」(二〇〇〇年五月に「一宮研究会」に発展改称)が、十年あまりにわたって進めてきた中世一宮制に関する研究成果をまとめた論文集である。

 まず上巻について、巻頭の井上寛司「中世一宮制研究の現状と課題−発刊に当たって−」のみ後述することとし、個別論文の内容を紹介したい。
 井上寛司「中世長門国一宮制の構造と特質」は、各国一宮制の多様性および成立期にとどまらない中世全時期にわたる一宮制の歴史の解明という課題にこたえるべく、長門国の一宮(住吉神社)・同二宮(忌宮神社)の秩序の展開を国衙・建武政権の守護厚東氏・大名大内氏の支配と関わらせて論じたものである。
 榎原雅治「三つの吉備津宮をめぐる問題」は、「吉備津彦」(備前)「吉備津」(備中・備後)というほぼ同名の社号を持つ三国の一宮の歴史的関係を検討しながら、神官組織や祭礼の相互比較を試みたもので、あわせて一宮と総社の関係、流鏑馬の起源などに論を及ぼしている。
 日隈正守「薩摩国における国一宮の形成過程」は、律令国家期から平安時代、鎌倉時代前期にかけての薩摩国内神祇体制の変遷を追い、古代より開聞神社が「薩摩国鎮守」として権威を持っていたものの、「国一宮」については、元寇に際し八幡新田宮が初めてその地位を得たことを主張する。
 岡野友彦「中世多度神社祠官小串氏について」は、室町幕府奉公衆であり、北伊勢の大社で事実上の伊勢国一宮であった多度神社の祠官を勤めた国人小串氏に注目し、室町幕府奉公衆が国一宮と関係を持つ事例の広がりを示唆する。
 後藤武志「伝領からみた熱田社−鎌倉後期から南北朝期を中心に−」は、尾張国熱田社領が、鎌倉時代後期以降に持明院統荘園として伝領されていく過程を検討し、正平一統の際に「官社」に位置づけられた事実を、建武政権による諸国一宮・二宮の本家・領家職停止政策に対応するものとしてとらえる。
 上村喜久子「中世地域社会における熱田信仰」は、地域社会における中世熱田信仰圏形成の問題と関係づけて、熱田社で見られた「中世日本紀」の主張が尾張周辺の地域社会にどのように受容されたかを考察し、村落熱田社の分布の実態・在地寺社縁起における熱田神の位置づけなどを明らかにする。
 鈴木哲雄「香取社海夫注文の史料的性格について」は、香取大禰宜家に伝来した香取社海夫注文の史料学的な検討を通じて、その政治史的意味を考察したもので、あわせて香取社の祭礼にも論を及ぼし、香取海の海夫たちが、香取社や鹿島社の御船遊びとの深い関わりを持っていた、と指摘する。
 山本高志「中世後期における守護河野氏と伊予国一宮」は、中世後期における一宮の多様な側面を、[中央−国−在地]という枠組みの中でとらえなおすために、一国単位の公権力を保持した守護権力と一宮との関係を、伊予国一宮大山祗神社(三島大明神)と守護河野氏の事例から考察したもので、祭礼神事・神職補任・法楽連歌などの諸要素の検討より、領国支配の補完のために河野氏が大山祗神社に依存していく過程を明らかにしている。
 福島金治「中世後期大隅正八幡宮社家の存在形態」は、大隅国一宮である大隅正八幡宮の中世後期における存在形態を検討したもので、島津氏の領国形成の過程で島津氏に屈服し社家が被官化していく点のみが注目されてきた中世後期の大隅正八幡宮の実態について、本家との関係・社内組織・守護代本田氏などをめぐった新知見を提示する。
 渡邊大門「中世後期における播磨国一宮伊和神社の存在形態」は、専論の乏しい播磨国伊和神社に関し、十五世紀における守護赤松氏の領国支配強化との関係および十六世紀に造営・修理に携わった宍戸郡の郡代宇野氏の役割について検討を加えたもので、十六世紀後半にいたっても一宮の自立性が保持され、一郡規模での修理・造営がなされるという播磨国の特異性を浮かび上がらせる。
 堀本一繁「戦国期における肥前河上社と地域権力」は、国鎮守が固定せず、一宮を称する大社が複数存在するという特徴を持つ肥前国の中で、河上社をとりあげ、国内諸社の中での位置づけと戦国時代における修造と地域権力の関係の展開過程を分析し、近世の佐賀藩主鍋島氏の保護を受けるにいたる歴史的前提を明らかにする。

 続いて、下巻に収められた諸論考の内容を紹介する。
 岡田荘司「平安期の国司祭祀と諸国一宮」は、国家祭祀体系・制度として二十二社制と国一宮制の関係を論ずる従来の説に批判を加え、国司初任神拝・臨時祭における神宝奉納・東遊奉納などの国衙祭祀・神事の検討により、朝廷による地域限定の自己完結的祭祀体制と多様性を持つ中世諸国一宮体制と二十二社制との方向性の違い・制度的な溝の深さを指摘する。
 上島享「日本中世の神観念と国土観」は、神祇を取り込もうとする護持僧の活動にあらわれた、密教僧による神仏習合の展開の検討により、「中世のごく普通の民衆」の国土観の形成過程の解明を目指したもので、鎌倉時代中期頃までに、法会へ勧請される神々を通して、在地の百姓が自らの生活領域を包み込む「王城」および五畿七道に対する意識を持つにいたったことを論じ、神国思想の形成を展望する。新史料である勝覚筆「護持僧作法」の紹介と全文翻刻が含まれている。
 横井靖仁「「鎮守神」と王権−中世的神祇体系の基軸をめぐって−」は、在地領主制の問題と連関させた従来の中世一宮制研究のあり方とは別に、一宮制神社制度の特質の探求を中世一宮制研究の第一義的課題ととらえる観点から、中世一宮制における祭神の性格や祭祀の構成を分析したもので、一宮制の前提となる国司神拝・「鎮守神」の成立・一代一度の大神宝制などの検討をふまえ、二十二社や一宮の祭神が、「国家之鎮守」と位置づけられた神祇を基軸とする中世の神祇体系の中核にあったことを強調する。
 田中健二「宇佐宮における本家近衛家の家領支配について−宇佐宮奉行とその発給文書の分析を中心に−」は、宇佐宮関係文書に見られる袖判奉書を、本家である近衛家の系列に連なる発給文書ととらえ、文書様式の変化の把握と袖判を加えた人物の確認作業を通じて、宇佐宮における本家支配を考察したもので、宇佐宮奉行の地位にあった者たちを詳細に検出する。
 井原今朝男「中世の国衙寺社体制と民衆統合儀礼」は、民衆統合儀礼のために国衙が行なう一国レベルの寺社経営に関する研究の蓄積をふまえ、院政期以降の地方国衙による国内寺社の再編成の実態を考察したもので、国衙による寺社の実態の把握あるいは国衙により把握された寺社の性格を明らかにし、あわせて弘安〜建武年間にかけて展開した諸国国分寺・一宮興行令の展開過程を、常陸・薩摩・周防・伊予などいくつかの国の事例にそくして追い、さらに室町期における国衙寺社体制の変質までをも展望したものである。
 伊藤邦彦「鎌倉幕府「異国降伏」祈?と一宮−守護制度との関係を中心に−」は、氏が長年進めてきた鎌倉幕府の一宮政策の歴史的意義に関する研究の一環に位置づけられるもので、諸国の寺社に対する鎌倉幕府の「異国降伏」祈?指令の経過を、建治・弘安・正応・永仁・正安・嘉元・延慶と年次を追いながら検討し、得宗北条貞時が没するまで、襲来の情報が届くたびに祈?指令が発せられていたことを明らかにする。
 海津一朗「異国降伏祈?指令体制と諸国一宮興行」も、伊藤論文同様のテーマをとりあげ、異国降伏祈?体制の実質を諸国一宮・国分寺の興行に求める自説を前提に、興行政策を受容する国内寺社勢力側の動向を考察したもので、薩摩・宇佐・紀伊で起きた神馬相論、一宮の地位をめぐる紀伊国での神社間の相論などの検討を通じて、対モンゴル戦争が国内寺社勢力に与えた影響の様相を説き明かす。
 水谷類「「宗教センター」と「宗教サロン」−中世尾張・三河宗教文化圏のダイナミズム−」は、「中世日本紀」という表現に集約される、中世に再創造された神話的言説が、中世の人々の生活・人生に現実にどう活かされていたか、という問題設定の下に、尾張・三河地域、さらに具体的には、足助八幡宮の縁起および南北朝期における猿投社の祭礼を事例として、「中世日本紀」を生産し提供する人と場あるいは伝達ルートを論じたものであり、中世神社が持つ宗教センターとしての要素と、それをとりまく宗教サロン・ネットワークの存在を指摘する。
 大塚統子「「一宮記」の諸系統−諸本の書誌的考察を中心に−」は、西田長男の研究に依拠しながら、「一宮記」の呼称に一括される諸国一宮の社名・祭神・鎮座地を列挙した史料の類本の系統を総括的に論じたもので、『諸国一宮神名帳』および『大日本国一宮記』それぞれの現存諸本の書写関係を調査し、精密な系統分類図を提示した上で、卜部家の一宮認識といった点にまで論を及ぼす。
 吉満史絵「薩摩国及び大隅国一宮本殿における巻龍柱について−薩摩藩における近世神社本殿について−」は、薩摩藩領内の神社本殿に多く見られる、龍が巻きついた柱(巻龍柱)の意味を考察したもので、同じ薩摩藩領内の中でも、薩摩国・大隅国地域と日向国・大隅国境地域を比較した場合に、前者においては、一宮である神社に巻龍柱が見られ、後者では一宮にはあらざる有力神社である霧島神社に見られるという相違を指摘し、近世における一宮の存在形態の一側面を建築史的アプローチから明らかにする。

 以上に紹介したような、豊かな内容を持つ諸論文の内容をふまえて、会の中心である井上寛司氏は、上巻冒頭の「中世一宮制研究の現状と課題−発刊に当たって−」において、会活動をふりかえりつつ、諸国一宮制の持つ地域多様性が明らかにされ、従来偏りの見られた一宮研究の対象の時期の広がりが見られるようになったことなどを会活動の成果として総括し、@「一宮」の呼称の見直し(実は「国鎮守」であった場合もあること)、A二十二社制と一宮制の関連と相違、B中世一宮制論への批判としての「国衙寺社体制」論、C寺院を含む神社相互間の宗教ネットワーク、D近世一宮の実態、という五つの論点が新たに明確にされたとする。
 これとの重複を承知の上で、評者なりに両論文集が新たに提示した論点を指摘すると、院政期(中世成立期)だけが国一宮制成立の画期ではないこと、(これに関連して)「変質」ではなく一宮の「成立」の画期として蒙古襲来をとらえうること、一宮制と中世初期に完成を見た制度であることが明らかな二十二社制の連関性は自明ではないこと、大名権力の領国経営との関係の問題を含めて中世後期固有の一宮の実態がかなりの程度解明されたこと、複数の国にまたがる「一宮」の存在が示唆されたこと、といった諸点があげられると思う。
 両論文集の内容の充実ぶりは一目瞭然であり、今後の中世史研究の発展に大きく寄与することは疑いない。そして、会活動の隅の方にいながら、ひたすら諸氏の研究成果に学ぶ一方であった評者が痛感することは、一宮の研究は決して神社史あるいは宗教史の枠にとどまるものではない、ということである。一宮の理解が、政治史・経済史・民衆史などの分野に大きな関わりを持ち、たとえば中世の国家をどう理解するかというような、ともすれば抽象的・思弁的になりがちなテーマに関しても、議論の前提となる実態認識の共有が可能となったのではないか。
 今後の幅広い議論の継続に期待しながら、拙い書評と紹介の一文を閉じることとする。
                  (うえすぎ・かずひこ 明治大学文学部教授)
 
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