書誌紹介:戸川安章著作集『出羽三山と修験道』・『修験道と民俗宗教』
掲載誌:村山民俗19(2005)
紹介者:岩鼻 通明

 この度、岩田書院より、戸川安章先生の著作集が刊行されたので、本誌をお借りして紹介させていただきたい。
 まず、刊行の経緯に関しては、1冊目の宮家準氏の序文に触れられているが、基本的には単行本に未収録の論文を網羅した論文集のスタイルとなっている。戸川先生ご自身は、早い段階でまとめたいと考えておられ、岩田書院がスタートした際には、「私の本が最初の刊行物になりそうだ」とよく語っておられたことを思い出す。
 しかし、その当時に、「羽黒町史」をはじめとして、庄内の市町村史の刊行企画が相次いで進行しはじめ、戸川先生は自らの論文集の刊行よりも、市町村史への執筆協力を優先され、とりわけ「羽黒町史」の刊行にあたっては、鶴岡市立図書館に関連資料を一時寄託されるなど、全力を注がれた。そのご尽力は質量ともに充実した町史の刊行に結実したのであった。先生から最後にいただいたのは2000年3月に刊行された「立川町史 上巻」であり、同書では、古代の「信仰と文化」、中世の「宗教と文化」の項目を担当して執筆されている。
 市町村史の執筆を終えて、先生は著作集の刊行に向かわれたが、21世紀を迎える前後から、先生の耳の具合がかんばしくなくなってきて、補聴器を使われるようになった。それでも次第に聴力は失われ、さらに視力も弱ってこられたため、原稿の執筆も困難になりはじめた。
 そのような事情もあり、とりあえず、まとまっている原稿をいただこうと岩田博氏が鶴岡の先生宅に出向いて来られ、娘様と、今は故人となられた奥様の同席のもとに先生から原稿をいただけることとなった。その席でも、先生はもう一日だけでも手を加える時間がほしいとおっしゃったのだが、結局はその当日に原稿を持ち帰っていただくことができた。校正の段階でも、お手伝いをさせていただくことができ、本書のゲラ刷りを、戸川先生のスケールの壮大さに改めて感動しながら拝読した。
 さて、本来であれば、本書の内容を各論文ごとに要約して紹介しながらコメントを付すべきであるが、大部なこと、そして、一介の地理学徒にすぎない評者が、戸川先生の学問の全体に迫ることは困難なことから、読み進める中で、琴線に触れた文章を引用しながら、コメントさせていただくこととさせていただきたい。
 まず、第1巻の『出羽三山と修験道』の「出羽三山信仰にみる浄土観」では、1596年の修理以降、手向の黄金堂はコガネ堂と呼ばれるようになり、それ以前は山上の大金堂(本社)に対する山麓の小金堂であったことを指摘されている。その重要な聖地を明治の神仏分離以降は仏教側が支配している意味は大きいといえよう。
 次いで、「出羽の修験道」では、芭蕉が「奥の細道」の三山参詣で、東補陀落に廻ったことを指摘されている。曾良の旅日記の記載を単なる注記とみてはいけないと記されており、私見では、その時間的余裕はなく、やはり注記にすぎないとみたのであるが、今後の再検討が必要であろう。
 さらに、「羽黒修験と天台宗」では、天宥以前の羽黒山は、天台・真言・禅・念仏の寺院が存在して一山を形成していたことを指摘され、「わたくしが羽黒山の教団に関係があるためか、それを認めようとしない人もいる」と記されている。戸川先生は、自らの出自に関わらず、出羽三山信仰を相対的かつ総体的に把握しようとする立場に徹しておられた。それを理解しようとしない人もいることは残念である。
 また、「羽黒山の霞と霞争い」では、関東地方では、湯殿山の縁年である丑の年以外には三山参詣をしないのが普通であった、と述べられているが、評者の収集した関東地方からの旅日記によれば、丑年の参詣が多いことは確かであるが、その年以外に参詣しないわけではなく、先生の誤認といえよう。
 そして、「羽黒山の歳夜祭り」では、大晦日に羽黒山で行われる松例祭の大松明を「ツツガ虫」と呼ぶようになったのは、明治33年出版の『三山略縁起』以降であると指摘されている。病気の原因が究明されるとともに、このような説が広まったのであり、それを往古にさかのぼらせることに警鐘を鳴らされたといえよう。同じく、この祭礼に女性の参加が認められたのは戦後であることを指摘されておられ、この祭りがかつては女人禁制の一環であったことを提示されている。
 さて、「鳥海山と修験道」では、『出羽三山史』を執筆した阿部正巳氏について、すぐれた郷土史研究家ではあったが、修験道についてはまったくの門外漢のため、しばしば島津伝道の門をたたいた、と記しておられるが、実は戸川先生ご自身がかなり協力されたようだ。
 ところで、「羽前金峰山の修験道」では、秋田・岩手の村々では「七所詣り」といって、三山参詣に際しては七ヶ所の霊場を参詣しなければならず、その中に金峰山も含まれており、別の論文で、八聖山も含まれていると述べておられるが、評者にとっては初耳で、北東北の旅日記や民俗誌類に、そのような記載は見出せなかった。この「七所詣り」の解明も、今後の課題といえようか。
 なお、第1巻の最後を飾る「修験道羽黒派語彙略解」は、300を超える羽黒修験の用語解説として貴重な文献であり、昭和初期にまとめられていたことからも、戸川先生の学問的関心の深さをうかがい知ることができよう。
 次に、第2巻の『修験道と民俗宗教』に移ろう。まず、「修験道と民俗」では、修験者と農民の生活のつながりの深さに触れ、明治の神仏分離以降、手向の修験者には、神葬祭に転じたもの、仏葬祭のままのものに加え、葬式は神道で行っても、葬式後の儀礼は仏教という「半檀家」が存在することを述べておられ、神仏分離が真の宗教改革ではなかったことを指摘しておられる。
 「修験道における修道実践と民俗」では、小学校4年生で峰入りに参加した経験から、近年の山伏の世界が形骸化していることを問題視しておられる。この後にも、しばしば、実父の時代に比べて、修行が簡略化し、厳しさが薄れてきていることを指摘されている。そして、島津伝道氏が実父であることを明らかにされるようになるのは、1980年代に入っての論文からであり、それ以前は、教団関係者ゆえ誤解されることのないように、非常に客観的な記述をされており、評者自身も、親子の関係にあることに、なかなか気づかなかった記憶がある。
 また、「出羽三山の修験者と修行道」では、羽黒では、夕方のご来迎を拝むのを本旨とすると記しておられるのは興味深い。評者が見出した近世紀行では、朝日をご来迎として拝んでおり、この紀行文の作者が神道家であることと関わりがあるのであろうか。同じ論文で、明治に宮司を務めた西川須賀雄の日記をみて、非常に筋の通ったものの考え方をする人だったと評価されていることも関心を引く。そして、修験道を勉強するきっかけになったのは、柳田國男と岸本英夫との出会いであったと記されている。この論文の最後で、文政6年に覚諄別当が三山の御影札を書きかえ、湯殿山に代えて羽黒山を中央に移したことを記されているが、このことが、たとえば三山碑に影響したかどうかは不明である。ちなみに、昨年、この覚諄が福井県勝山市の近世には白山の別当寺であった平泉寺の出身であることを、勝山市立図書館の平泉館長からご教示いただいた。
 さて、「山岳信仰と山伏修行」では、戸川先生自身に宗教的な異常体験がほとんどなく、修験者となる素質がない、と記されているが、それは学問の道を進まれたゆえの方便ではなかろうか。
 それに、「わが山伏修行のひとこま」では、かつて三股沢の拝所を拝した際に、刀剣や人骨が散乱しているのをみたと記されているが、この洞窟は昭和5年の大雨で崩壊したとのことで、今となっては貴重な見聞録といえよう。
 さらに、「修験道と法螺貝」では、法螺貝は十音に吹きわけられるが、これは十界修行に対応しており、他派は高音を主とするのに対して、羽黒派は低音を主とするために、遠くまで音が届き、鎮魂儀礼としての入峰修行にふさわしいと述べられているのは印象的である。
 そして、「修験者の食べたもの」では、父が15歳で初山修行に行った際には、干し飯と焼き味噌と野菜の味噌漬けを大量に持たせられたと記し、味噌は単なる調味料ではなく、主食代わりに用いられる保存食でもあったとの記述は卓見で、戸川先生の民俗学の裾野の広がりを再認識する思いがした。
 また、「山に祈る」では、山伏の自然保護精神として「道幅は笠一つ」といって、菅笠の幅以上には広く伐採せず、枝は払っても、根元から伐採することはしないと述べられる。ただ、それゆえ、歩く人がいなければ道は消滅し、かつては自動車も走っていた荒沢寺を迂回する女人道の道方がほとんど残っていなかったことに触れられている。
 一方で、「寺と地域社会」は、ユニークな論文であるが、その中で、母親の裁縫教室に触れておられるが、父親の記述は多いのに比して、母親を語った文章は、これが唯一ではなかろうか。
 そして、「伝光明海上人の入定塚所見」では、ある女性について、伝承者よりもスポークスマンタイプと述べ、民俗学にとって、話者をえらぶことの大切さを説いておられることは重要な指摘といえよう。戸川先生は、被葬者が光明海とは断定しがたいと記されたのであるが、報告書では、その部分がカットされたのだそうで、今も昔も変わらぬ行政のご都合主義をみる思いがした。
 また、「羽黒山麓における農耕儀礼と穀霊信仰」では、月山の、いわゆる雪形に触れておられるが、それも、あちこちでの聞き取り調査の積み重ねから出てきたものであることを知らされた。
 それから、「お山まいりと精進」では、八十八夜の手向のお山まいりで採取してくる「お花」が、昭和33年ころに自然保護の観点から紙のおふだに代わったことを記されているが、評者のみたNHKテレビの「新日本紀行」では、紙のおふだではなかったのだけれども、これは演出であったのだろうか。同じ論文で、明治31年に入山切手の制度が廃止されたことを旅日記の記載から立証しておられるが、さまざまな史料をよく使いこなされた戸川先生の卓見といえよう。
 巻末の「柳田先生とわたくし」では、戦前の秋田の富木氏との交際や、その縁で、版画家の勝平氏が羽黒に来て、旧修験の芳賀兵左衛門氏宅で、所蔵の「三山雅集」の版木から印刷を行われたことなどが記されている。同家所蔵の絵図は、評者自身も、しばしば利用させていただいているが、これらの版木は貴重な文化遺産となっている。この文末で、昭和43年の日本民俗学会第20回年会を庄内で開催されたことに触れられているが、当時、地方で年会が開催されたことは画期的であった。しかしながら、戸川先生から、大きな会を開く度に庄内民俗学会のふところが苦しくなります、とお聞きしたことがあり、このような機会は、地元の協力なくしては成り立ち得ないとの思いを強く感じた。おりしも、2006年秋の日本民俗学会年会の山形開催が決定したばかりであり、戸川先生の運営に学んで、ぜひ成功裏に終えたいものである。
 最後に、蛇足ながら付け加えると、たとえば、山形県が出羽三山の世界遺産指定を進めようとしているが、本書には、そのために不可欠な課題が盛り込まれているといえよう。もちろん戸川先生の立場から言うまでもないようなことは触れられてはいない場合もあるが、重要な問題としては、文化財の保存と宗教的統合であろうか。
 実は、戸川先生ご自身が、著作集のみならず、史料集の刊行も念頭に置いておられ、名著出版と岩田書院から近刊予告まで出されたこともあった。可能ならば、著作集の企画に並行して史料集の刊行もめざしたいと考えはしたものの、あまりにも制約が大きすぎて、史料集の刊行は先送りにせざるをえなかった。羽黒修験に関わる史料集の刊行は、文化財保存の面からも大きな意味があり、手向の宿坊に所蔵されている史料も含めて、本格的な史料調査の必要が急務であり、それは世界遺産をめざす前提ともなろう。古文書史料の保存だけでなく、時代の流れとともに失われつつある茅葺きの宿坊の町並み景観の保全もまた急務である。これまた、世界遺産には不可欠の宗教景観といえよう。
 さらには、明治初期の神仏分離以来、出羽三山信仰は仏教と神道に分裂したままとなって、百年が過ぎている。戸川先生は活字にこそされてはいないものの、仏教と神道を統合する名案はないものかと腐心しておられた。高齢化や都市化にともない、出羽三山信仰の活性化が求められつつある現在、ばらばらに宗教活動を行っている時代ではないともいえるのではなかろうか。
 世界遺産は、観光面での発展を意図するものではなく、自然保護と景観保全を第一義とするものであることから、21世紀の今、出羽三山信仰が再び活性化できるかどうか、その出発点に、この著作集が位置づけられることを評者として願いたい。

 
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