悪党研究会編『悪党の中世』
評者・山田邦明 掲載誌・人民の歴史学139(99.3)


一九八八年以来研究会活動を続けてきた「悪党研究会」のメンバーが、力作を持ち寄って一冊の論文集を上梓した。『悪党の中世』と題された本書の意図と構成については、冒頭にある渡邊浩史氏の「荘園公領制と悪党」で述べられており、悪党を通して中世を見るという意図のもと、荘園・流通・内乱という三つのブロックに論文を並ベ、最後に史料論として「二条河原落書」(中島敬子・山本宮子両氏の執筆、落書の現代書訳がなかなかいい)と「悪党交名注文」(石原毅・海津一朗・楠木武 三氏の編集)を置いている。こうした構成はもちろん意味のあるものであるが、『悪党の中世』というタイトルの書物を手にした評者としては、どうしてもこの論文集で「悪党」がどう扱われているか、まず気になってしまう。そこで甚だ勝手ではあるが、「悪党」そのものを扱った論文をまず紹介し、ついでそれ以外のものに言及するというスタイルで話を進めていきたい。
最初に、「悪党」と呼ばれた、あるいは悪党的行動をした人物や、悪党がかかわった事件について正面から扱った論考を紹介したい。まず悪党問題が頻出しはじめる弘安期の南山城の相論を扱った海津一朗氏の「鎌倉後期の国家権力と悪党」がある。興福寺領大隅庄と石清水八幡宮領薪庄の住人間で発生した境相論が、興福寺と石清水八幡宮の争いに発展し、これを裁断できない朝廷が幕府に解決を委ねた結果、両庄ともに関東御領になったという事件の経緯を詳細に跡づけ、これは朝廷と幕府が共同で行なった当知行を制限する平和令であり、これに対抗した住人や神人たちの行動が悪党行為につながるとする。そして同じ時期に発令された高麗派兵計画の動員者の中に山城・大和の悪党が含まれていたことも、こうした事態と対応すると指摘している。
渡邊浩史氏の「悪党大勧進円瑜」は、延慶三年(一三一〇)に東大寺大勧進円瑜とその配下がおこした事件を分析したものである。大勧進の職を東大寺から免ぜられた円瑜の配下が、周防国の年貢を周防と兵庫関で襲撃したというのが事件の概略であり、張本の円瑜を中心とする広い人的ネットワークがあったこと、兵庫関が周防からの年貢・材木輸送の中継地であり、ここを襲撃することが大きな意味を持ったことなどを指摘されているが、氏の分析はこれに止まらず、事件の背後にある東大寺の内部抗争にまで及び、大勧進職をめぐって幕府とつながる一派と、これに反発する一派があり、円瑜を任命したのは後者であったことを解明する。悪党事件の政治的背景として領主権門の内部対立をあぶり出した点はとくに興味深い。
三藤秀久氏の「悪党道願考」は、正和元年(一三一二)に山城国拝師庄でおきた刈田事件に着目する。新領主東寺の預所が道願という百姓の田に点札を立て、これに反発した道願が刈田狼藉を行なったこと、この時期に多くの百姓による刈田行為が頻発していたことを指摘し、この道願の行動は一種の遵法闘争で、東寺が執拗に道願を排除しようとした理由こそが問われなければならないとする。そして拝師庄の耕地が紀伊郡北部に散在し、ここを耕作した人々は多数の権門、とくに日吉神社の影響を強く受け、日吉田を紐帯として結束し、その中心に道願がいたのであり、新領主東寺はこうした人物を悪党として排除してはじめて支配を進め得たのだと主張する。
小林一岳氏の「悪党と初期南北朝内乱」は、建武二年(一三三五)から翌年にかけて日向国国富庄付近でおきた局地紛争を分析する。鎌倉幕府滅亡後、国富庄と島津庄日向方が足利尊氏の所領となり、この地域に足利氏の支配が覆いかかるが、これに反発した伊東氏と肝付氏が連合して穆佐院政所と国富庄南加納政所を襲撃したのであるが、こうした経緯を分析しながら、彼らの行為は荘園の当知行を目的とする私戦としての面を強く持つが、上部権力の分裂によってこれが公戦化してゆくと指摘する。
以上が具体的な人物や事件を扱ったものだが、悪党の行動に関して全般的に論じたものが楠木武氏の「「悪党蜂起」再考」と櫻井彦氏の「路次狼藉の成立」である。楠木氏は史料上における「悪党蜂起」の意味を再検討し、「蜂起」とは単に「群がり起こる」ことであり、「悪党蜂起」とは既存の国家システムによって維持されている秩序に対する障害となる存在(=悪党)が横行している状態を指し示す言葉で、この語のみから悪党訴訟の激発を論ずることはできないと主張する。櫻井氏は鎌倉幕府において正和四年(一三一五)に検断沙汰に移管されたとされる「路次狼藉」について詳細に分析し、その場合の「路次」の語は「道中・通行中」という時間的意味も含みながらも、「交通路」という場的意味で用いられることが多く、また路次で人や物を強奪する行為である「路次狼藉」には、債権ありと主張するなどの行為の前提は必要ないことを指摘し、一四世紀初頭には路次が「生きた場」と認識されており、悪党らの行動の中に交通路にかかわるものが頻発し、それへの対応として幕府は路次狼藉行為を禁止するに至ったのであり、「路次狼藉」は他部局から検断沙汰に「移管」されたのではなく、この段階ではじめて成立したのだと説く。
高木徳郎氏の「播磨国矢野荘の荘園景観と政所」および蔵持重裕氏の「菅浦惣成立の特質」は、悪党を中心にとりあげたものではないが、悪党問題が在地社会にいかなる影響を与えたかという視角を含みながら荘園や村の変化を論じた注目作である。高木氏は永仁六年(一二九八)の下地中分以降における矢野庄の情勢と東寺の支配の展開を追い、悪党乱入に対抗するべく東寺の学衆が政所屋敷の要害化を図り、さらに荘園警固のための名主・百姓の防衛拠点であった奥山に城を築こうとしたことなどを指摘し、東寺は名主屋敷を巧みに利用することで荘支配の確立をはかったとする。地域空間を具体的に描きながら、その時代的変化をドラマチックに述べるその手法は鮮やかである。蔵持氏は村が自生的に惣村として発展してゆくという史観ではなく、惣村の成立を近隣との関係の中から考えるという視角のもと、悪党をキーワードとして近江菅浦惣の成立史を描く。菅浦の悪党が大浦の住人を殺害した事件が菅浦と大浦の対立に発展した一件や、大浦の「悪行百姓」が菅浦に逃げ込んだ事件などを分析しながら、菅浦が大浦から「異界」と認識され、その内部に共和的一体性を生み出すことになる事情を考察するが、近隣との「差異」を背景としつつ、その近隣との均一化が対外的緊張を高め、惣の形成を促すという説明は説得的である。
佐藤和彦氏の「内乱期社会と合戦の様相」は、合戦の様相を検討しつつ内乱期社会の特質を解明しようとしたもので、『峰相記』にみえる悪党集団のありかたや、『太平記』の合戦記事を分析し、悪党が「五十騎・百騎」と記載されるほどの勢力を持ち、播磨を中心に但馬・丹波・因幡・伯耆と広範に結集していたこと、数千人と記載される「野伏」が「案内者」として活躍したことなどを指摘している。この野伏について広く考察したのが梶山嘉則氏の「野伏の行動」で、『太平記』にみえる野伏は山城・大和・河内の、特に交通の要衝を一定の根拠とする人々であり、情報収集・処理能力を認められて活動し、戦場においては落人の物具等を奪い商品として売買するなどの行動をしていたと指摘し、彼らは商人に通じる者たちで戦場を商売の場ととらえて戦いに参加していたと説く。
悪党にかかわる論考は以上のとおりだが、このほか中世社会の諸側面にかかわる論文が四点ある。青木啓明氏の「大谷道海の活動」は一四世紀初頭に上野新田庄を舞台に活躍した大谷道海という人物に注目し、彼が新田一族の世良田満義から所領を買得し、それを世良田からの寄進という形にして長楽寺に寄進していたこと、やがて土地を一括して長楽寺に寄進し、政所職に任命されたことなどを明らかにしながら、彼は得宗勢力とつながりの深い「有徳人」であり、世良田氏も得宗被官勢力の圧力に抗するためにこうした人物とつながりを求めたのではないかと結んでいる。史料の乏しい鎌倉後期の関東において、地域有力者の実像に肉迫した力作であり、寄進行為の実態を解明した点も注目できよう。錦昭江氏の「中世的関所の構造的展開」は兵庫関を素材として鎌倉後期における中世的関所の経営実態を検討したもので、検校所が関務雑掌を指揮しながら管理にあたっていたが、関所をめぐっては諸勢力の紛争が多発し、その治安維持は六波羅や守護所の武力によらざるをえなかったことなどを指摘している。中世における寺家と関所について総合的に論じた力作で、ことに当時の寺院経済の中で関所からの収入が最も安定した財源であったという指摘は興味深い。松原誠司氏の「松尾社・西七条論ノート」は平安京右京西七条に設定された松尾社旅所と、そこに奉仕した神人たちについて考察したもので、西七条は比較的零細な人々が住む地域で、彼らが松尾社の祭祀を支えており、松尾社は東寺の圧迫に抗しながら西七条を中心とする旅所域を死守したことを明らかにしている。則竹雄一氏の「戦国期江戸湾の海賊と半手支配」は後北条氏の水軍であった山本氏の活躍や、「半手」と称する年貢を海の向かい側の領主に払って平和を保とうとした村の動きを解明しながら、戦国期の江戸湾をめぐる世界のありようを描き出したものである。北条氏が村の「半手」を敵方に輸送することを認め、その船便の安全保障を水軍に命じたという指摘は面白い。

以上、悪党との関わりの深い順に論考の内容を紹介してきた。すべての論文が悪党を扱っているわけではないが、一三〜一四世紀の社会変動をどうとらえるかという問題意識はほぼ共通しており、これらの論考をまとめてその特徴を論ずることも意味があろう。ただ評者は悪党研究の専門家ではなく、悪党にかかわる研究史をきちんと踏まえてこの論集の意義を浮き彫りにするといった芸当はできない。とりあえず一般的な感想を述べて責を塞ぐことにしたい。
論集全体を通して気づくことの第一は、悪党の行動そのものではなく、悪党行動をひきおこした社会的背景を論じたものや、悪党事件が社会に及ぼした影響を論じたものが目立つということである。朝廷・幕府による国家的支配、権門寺院などによる新たな荘園支配の展開、地域社会の変貌と惣村の成立といった、この時代の基本的問題と、悪党事件とを関連づけてみるという視角は、かなりの論文に共通のものとなっている。社会の側から悪党を見るという視角は、朝廷・幕府の私戦禁令に注目した海津論文や、東大寺内部の争いを照射した渡邊論文、新たな荘園支配の確立のために悪党を排除した東寺の論理をあぶり出した三藤論文などにみえ、一方悪党行動に対する領主や村の対応を論じた高木論文や蔵持論文は、悪党を切り口として社会の変化をとらえるという方法を用いている。
『悪党の中世』というタイトルではあるが、悪党そのものを深く追究したものが意外に少なく、むしろ悪党を論点としながら中世社会の展開を考えるといった形の論考が多いが、これは本書の問題点というより、悪党あるいは悪党行動のみを見るだけでは悪党研究が進展しないという現状をよく示す現象と考えたほうがよかろう。問題なのは悪党というより中世社会全体なのであり、悪党をキーワードにしながら中世社会の実態やその展開のさまを追うという研究方法はそれなりに意義のあるものと考えられる。
悪党の活動と流通や流通拠点の問題を関わらせて論じたものが多いことも本書の大きな特徴である。ことに東大寺領である兵庫関の実態については錦論文で詳細に解明され、渡邊論文でも円瑜一党の襲撃事件を見ながら兵庫関の役割について論じられている。路次狼藉を分析した櫻井論文は、広い視点から流通の発展を照射したものである。また野伏を扱った梶山論文でも、野伏が交通の要衝を押さえている人々ではないかという指摘がなされている。
中世社会が各地域地域で閉ざされたものではなく、水陸をあわせた広い交通網に沿って人々の活動が展開していたことは、すでに共通の認識となっており、悪党もこうした交通の要所にかかわって活動するという論は説得的である。ただ史料が限定されることもあって、「交通の要衝」やそこで活動する「商人」の実態はあまり明らかでない。「交通の要衝」とか「商人」などのタームは便利なので、ついつい使ってしまうが、安易に言葉だけで説明するのではなく、その中味を具体的に解明する努力がまだ必要であろう。
関係論文は多くないが、荘園の政所について注目すべき指摘が見られることも、個人的に興味をひかれた点である。高木論文では矢野庄の政所をめぐる東寺や守護勢力の働きかけを論じており、荘園支配を進める上で政所が持っていた意味の大きさを教えてくれる。また小林論文も悪党たちの行動の拠点としての政所に注目し、政所を城郭に構えながら、敵方の政所を襲撃するという日向の武士たちの行動を解明している。いずれも空間的な配置を考えながら政所の役割に迫った注目作であり、その視座は継承されるべきであろう。

とりあえず注目できる本書の特徴をまとめてみたが、内容豊かな論文が多く、一三〜一四世紀の転換と、そこにおける悪党の位置づけを考えるための大きな財産となりうる一書である。ただ全体を通読してみて、残された問題はやはり多いという印象も持つ。最後に若干の論点提示を行なって拙い書評の結びとしたい。
多くの論者が述べているように、「悪党」という語はそれを排除しようとする側の表現であり、「悪党」という特定の階層や身分が社会的に実在したわけではない。悪党研究のわかりにくさ、難しさの根源はこの辺にあり、悪党研究を進める場合、史料上「悪党」と見える人物に限定して考察を進めるか、「悪党」的な行動をした、あるいはそれをなしうる個人や集団全体をからめて議論するかが問題となる。しかし悪党の歴史的意味を考えるためには、史料に「悪党」とみえる場合に限定せず、「悪党」となりうる階層の人々の行動全般に注目するほうが生産的であろう。
そうすると悪党研究は一三〜一四世紀における支配体制や社会秩序の変化を考えるという、ごく一般的な中世史研究(中世中期の研究)ときわめて密接に重なりあうことになる。この激動の時代の動きを、多様な人々の活動をもとに跡づけることこそが、悪党研究の究極の課題ということになるのであり、貴族や有力御家人でも一般百姓でもない、いわゆる「中間層」の研究を進める際の重要な論点として悪党問題が存在するという見方もできるのである。
一三世紀の後半からなにゆえ悪党問題が頻発し、それがどのような力学で南北朝内乱を誘発するか、そして内乱を経て悪党がなぜ沈静化したかという筋道を、「中間層」に着目する中で解明することが今後の大きな課題であろうが、そこにはまずこうした「悪党」をどう評価するかという問題が横たわっている。古くからある議論だが、悪党行為を行なった人物や集団の存在を、新たな時代を切り開く先鋭的なものと評価するか、体制からドロップアウトした人々ととらえるかという問題は、やはり重要な論点であろう。悪党行為自体は確かに支配の再編の中で頻発するわけだが、体制から排除された人々が果敢に抵抗したことは評価すべきであるし、そもそもそのような実力があるからこそ排除されたと理解することもできる。悪党問題発生の背景を探るという視点を深めながらも、そういった社会の再編を促したこの時代の新たなエネルギー(中間層の台頭)をきちんと見据える視座を保ち続けることが肝要であろう。
次の論点は悪党と南北朝内乱のかかわりである。南北朝内乱の中で悪党(悪党的人物)がいかに活躍したかという研究は多いが、そもそも悪党問題と内乱がどうかかわるかを論じたものは少なく、小林論文は貴重な成果であるといえよう。悪党的行動としての私戦が、権力の分裂の中で公戦に転化してゆき、こうした私戦と公戦の循環によって内乱が長期化するという氏の指摘は重要である。南北朝内乱の発生や展開を、基本的には朝廷や有力御家人の争いとしてみるか、社会全体の変容(中間層の台頭や悪党問題の頻発など)と密接にからんだものととらえるかは議論があろうが、悪党問題と内乱との有機的関連づけの努力をいっそう進めてゆく必要はあろう。
そもそも「悪党」行為とは体制的に排除された人物が行なった際の表現であり、同じことをしても体制側の人物が行なえば悪党行為とはみなされない。だから南北両朝が並立し、全国的政権が完全に分裂すると、ある「体制」から排除された人は他の「体制」に随うことでその「反体制」的側面を払拭でき、「悪党」ではなくなることになる。こうした状況は「悪党」として排除されていた側としてはきわめて都合のいいことと考えられるのである。
悪党問題の背景には朝廷と幕府による国家体制の見直しや、東寺などの荘園領主による新たな支配の展開が存在する。こうした新たな体制からドロップアウトした人々が生まれ、これが悪党問題の温床になるわけだが、彼らの活動は簡単には抑圧し尽くせない広がりを見せており、それが広い意味では権力の分立を促したとみることもできよう。鎌倉後期から朝廷は持明院統と大覚寺統に分裂しているが、国家権力全体としては一応の一体性を保っていたのであり、この状況では体制外の人物はなかなか浮かび上がれない。しかし後醍醐天皇と足利尊氏の対立を契機として国家権力が並立し、それぞれが自己を主張して戦いを繰り返すようになると、かつての体制外の人物もその正当性を主張できるようになるのである。実証を伴わない議論で恐縮だが、南北朝内乱の発生とその長期化は、簡単にはひとつの体制に収束できないほど地域社会の矛盾や諸勢力の対立が深まった結果としておきた現象ととらえることができよう。
それでは内乱の終息後、「悪党」はいったいどうなったのか。この重い課題に答えなければならない。渡邊氏が冒頭の「荘園公領制と悪党」で述べているように、史料上「悪党」の語は内乱終了後に激減している。内乱が克服され体制が一元化したのであるから、反体制の「悪党」が復活してもいいはずなのに、そうはならなかったのである。このあたりの事情はよくわからないが、内乱のなかで彼らのエネルギーがかなり消耗し尽され、従来の「悪党」行為を許さない新たな支配体制が構築されたためと考えることもできよう。
南北朝内乱を経て確立した体制は、前代とは異なる新たなものであり、見方によってはより強固な支配が樹立されたととらえることもできる。「悪党」のエネルギーは圧伏され、より着実な支配が展開するが、社会の中で地盤を占めた中間層はより活発な活動を示すようになる。中世後期社会は「悪党」問題に象徴されるような矛盾を解決するための長い煩悶を経て生まれたものであり、その過程を解明し、中世前期社会と中世後期社会の違いを見据えることが今後の大きな課題であろう。
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