悪党研究会編著『悪党の中世』
中世悪党論の現在―『悪党の中世』によせて―
評者・新井孝重 掲載誌 民衆史研究 58(99.11)


はじめに
若い研究者たちによって悪党研究会が発足したのは、ほぼ一○年前の一九八八年のことであった。以来着実に研究活動を積み上げてきた同会は、一九九八年三月『悪党の中世』という総ぺージ数四○○頁にのぼる研究論集を世に出した。研究会発足当初からのメンバーで、後進の指導にあたってきた佐藤和彦氏の還暦を祝い、かつ同会の一○周年を記念して企画されたものであるという。中世杜会に占める悪党の存在感はきわめて強烈である。このため、多くの研究者がこれに注目してきた。しかし悪党の発生と存在については、時期や基盤あるいは発生の局面において、いまだ共通の認識に達しているわけではない。
「悪党」の概念や意味をめぐる理解のちがいとも絡んで、悪党が何時どの様にして、いかなる局面に発生したのか、研究者によって認識はまちまちである。こうした現状は学界のなかで極端に異なる悪党像をうみだし、さらに悪党が活躍した時代そのものの像をもばらばらなものにしている。悪党と悪党の時代に関する今日的な研究状況は、中世の全体像までを、掴みにくいものとしているのである*。悪党研究会がうまれ、集団かつ組織的に悪党が研究されることになったのは、こうした状況を止揚したく思う学問の客観的な要請によるのだろう。私たちはこの研究会の結成と活動を喜ぶと同時に、活勤の成果として世に問うた本書を注目しないわけにはいかない。
* 一九七○年代から一九八○年代にかけて、戦後歴史学の枠組みは確実にその効力を失いつづけ、それにともなって学界はある種の型のない自由によって覆われていった。こうした状況があらゆる固定観念から学問を解き放ち、歴史の叙述に面白みを添えたことは否定しえない。しかし一方で、いちじるしい研究の多様化・分散化をもたらしたのも事実である(新井「戦後歴史学の軌跡と『いま』」『日本の科学者』一九九五年、vol.30・No.5・通巻三二八号)。型のない自由状況の功罪について、そろそろ総括する時点に学問自体が立っているのかもしれない。
1.
さて本書の目次構成は次のようである。
(目次省略)
各論文の要旨を紹介しながら、若干の批評を加えることにする。そのさい筆者の問題関心とかみ合う論文を注目するあまり、すべての論文を均等に扱うことができぬかもしれない。非礼をお許しねがいたい。巻頭の佐藤・渡邊両氏の文章は、悪党研究の今日的な問題の所在を、六〜七○年代の研究到達点との関連で、あるいは八〜九○年代の研究状況とのかかわりで、明らかにすべく配置されたものである。ことに渡邊氏の文章は、論題が付いているところを見ると、問題の所在を総括的に開示すべく一個の論文として配されたものであろう。論集の全体をあらかじめ、その狙いも含めて明らかにすることは、読者にとってはありがたい。三つの章(荘園・流通・内乱)が「悪党研究を通して中世を見る」ための切り口として設定したもので、『悪党の中世』なる書名がここに由来するものであることは分かった。
第一章。海津論文は山城国の大隅・薪両荘の間に発生した、弘安四から五年にわたる境相論を素材に、悪党問題を発生させる鎌倉幕府の権力のありようを分析する。氏によれば、この時期の西国地域紛争に、朝廷の「聖断」はもはや解決能力をうしなっており、かわって幕府が紛争解決の責任をもたされる格好になっていた。紛争の解決策として両荘が関東の直轄領にされたこと、このことがかかる事態を雄弁にものがたっていた。直轄領になればそこでの自力救済の地域秩序はとうぜん否定されることになった。この期の悪党とは、平和令の思潮の波に乗って自力救済を否定する、かかる「徳政」の動きに抗し、自力で「当知行」秩序を推持するものたちの事であったという。「ナワバリ維持の当知行行為こそが、悪党問題の温床だった」という論旨は、まことに明解である。高木論文は播磨国矢野荘の下地中分関連帳簿類から同荘の景観を復元し、支配拠点としての政所とその移動について究明する。下地中分によってひき払う前の領家方政所「中ハサミ政所」が荘内のいかなる場に立地していたか、下地中分線となった小河川の旧河道と、矢野川河道に挟まれた微高地の景観から論ずるのは、幾度もの現地調査を踏まえてのものだけに説得性がある。また同荘領家方を引き継いだ東寺が現地を支配するための政所建設にいかに腐心し、どれだけ在地に依拠していたかという点も、深く読み込みこんだ史料を基礎にしているために分かりやすい。それにしても、悪党乱入の時代に名主屋敷が在地防衛の拠点として転用され、そのことの故に政所たりえもしたというのは、力による在地掌握が領家の側にとっても中心問題になっていることを表しているのだろう。
松原論文は松尾社による右京西七条の旅所経営の分析を通して、都市住民の経済的ありよう、あるいは変容を押さえ、中世神社の都市社領を動的に描く。零細手工業住民の経済的衰退と右京旅所拠点であった西寺の荒廃が、東寺からの社領侵略をまねき、そうした趨勢に規定されながら、松尾社領は再編を余儀なくしたという。行論の中で、住民が神人たりうるには、公的・視覚的な行為としての旅所祭祀を必要としていたという指摘は、身分の具体的な存在のしかたを考える上で興味深い。しかしこれは、悪党論ではない。三藤論文は山城国拝師荘から出現した悪党道願を素材に、寄進された荘園に対する東寺の支配が、すでに形成された村落(散在する日吉田を支点にする共同体)の機能を吸収することによって実現されていたことを明らかにする。散がかりの荘園であっても、在地には勧農と用水の管理をになう村落が実在しており、これを無視して東寺は荘園の支配を行うことができなかった。したがって村落機能を掌握する道願を東寺は排除せねばならず、道願は悪党となって東寺に敵対せざるを得なかったというのは説得的である。青木論文は十四世紀はじめの上野国新田荘に生きた有徳人大谷道海の活動を素材に、土地の買得と長楽寺への寄進、寄進の形式の背後にある人間の社会関係、あるいは幕府・得宗勢力のありようを解明する。道海の長楽寺に対する土地寄進が、たんなる寄進ではなく、寄進後には長楽寺の支配機構にしっかり食い込んでいたという指摘、また寄進自体には土地の領主世良田氏の得宗勢力の圧迫をかわし、所領を再編しようとする意図がはたらいていたという指摘は、東国の悪党的環境の醸成を考える上でおもしろい。
第二章。蔵持論文は、近江国菅浦と隣接する大浦庄に焦点をすえて、惣村の発生原理を解明する。氏の論説によれば、他の村との関係(同化と矛盾)のなかに姿を現す諸機能に当該村落の惣的進化の根源があるのであって、それは村と村の個人同士がつくりだす紛争とそれに対応する法人としての村落のありよう、つまり個人の紛争が村の戦いに転化する論理構造のなかに見いだされる。村は近隣村との「差異」によって自己を認識し、「差異」を同化しようとする志向によって対外緊張をたかめた。また、そうした作用が村内の公と私の一体化をうながし、かつまた高家との契約の主体にもなっていったという。惣村をもっぱら主体力量の成長から説明してきたこれまでの方法を乗り越えたといえる。錦論文は摂津国兵庫関を素材に、中世関所の制度と実態を明らかにした。兵庫関には検校所と関務雑掌という役所・役務がおかれており、検校所は現地の実務にあたる関務雑掌の上位に位置し、東大寺側の窓口となっていたという。関所収入は検校所が管理し、その三分の二を寺家に納付し、三分の一を検校所の運営費に充てていたという。鎌倉末期の兵庫関は東大寺経済の中でもっとも確かな財源としての位置を占めていたが、東大寺は自力で関務撹乱の諸勢力を排徐することができず、もっぱら幕府の力に頼らねばならない問題もはらんでいた。人と物が動くところを財源とする経済構造の特質を、悪党状況の出現の背景として描き出した手堅い作品である。

櫻井論文は正和四年(一三一五)「検断沙汰に移管」されたという路次狼藉の内容を検討することによって、この狼藉が実は「行為の前提」(債権ありとの主張)を構成要件とするものではなく、「場」(路次)と「行為」(強奪)の二点を満たせば成立する犯罪概念であることを論証した。そしてこのような広い概念によって構成された路次狼藉は、それ自体としては訴訟の対象になりにくかったが、鎌倉末期の悪党状況が物と銭の動く交通路でことさら発生するようになると、「路次狼藉」という検断沙汰が全く新たな法令として、幕府によって成立させられることになったという。後醍醐軍の軍法(光明寺残篇)にみえる「路次狼藉事」の条文も、櫻井氏の犯罪概念にてらして読むとわかりやすい。路次狼藉論はこれによって、確実に一歩前進したというべきである。渡邊論文は、東大寺大勧進円瑜が兵庫関と周防国の二か所同時に引き起こした悪党事件を分析し、この事件の持つ意味と政治的背景にせまろうとしたものである。渡邊氏によれば、東大寺にとっての兵庫関はたんなる財源てはなく、周防国からの年貢諸物資を寺に運び込む交通中継地であった。このために悪党円瑜は大勧進として指揮権を行使しうる周防国のみならず、兵庫関を押えようとした。交通要素を悪党事件にうまく組み込み、さらにその背後に幕府の口入を拒否しようとする勢力を、寺内政治の問題として想定したのは面自い。しかし惣寺を対幕協調路線、院家を対幕協調阻止の勢力と見做し、十三世紀末の東南院は反幕勢力であったと、きれいに割り切れるだろうか。院主が後醍醐を擁護しても、そのことが直ちに院家という組織の政治方針を表すものとみてよいか、なお検討を要する。則竹論文は後北条氏と対岸房総の里見氏らの海賊が、戦国期江戸湾を舞台にいかなる活動をしていたか、海からの攻撃を避けるための沿岸村落の対応を視野に入れつつ、文書を通して丹念に考察したものである。
第三章。楠木論文は「悪党蜂起」という言葉の意味を解明することによって、悪党研究の緒をつかまえようとしたものてある。「蜂起」の理解を切り口に問題の所在を明らかにするのは、運動現象としての悪党を究明する上で重要な作業である。梶山論文は『太平記』その他各種史料から、野伏の具体的な行動を追い、彼らの実像に迫ろうとする。合戦に動員された彼らの実体は、兵器・兵粮の調達や、情報の収集ならびにそれらの処理を担当する商人か、それに類する特殊技能集団てはなかったかという。これまでのような戦力としての視角からだけでは見えてこない野伏の実態が、この論稿から浮かび上がってきた。内乱論を社会史として豊かならしめる作品である。野村論文は若狭国明通寺その他の諸寺院につたわる寄進札の分析を通して、仏教における女人救済=女性差別思想の登場時期を明らかにした。デーク処理の手際よさと論理の確かさが、作品全体に説得性を持たせている。ただしこの論文は悪党論てはない。
小林論文は足利尊氏の後醍醐離反をきっかけに日向国に勃発した地域扮争・悪党蜂起を素材に、私戦と公戦との接点をさぐりつつ、内乱が地域から常に発生する構造と内乱長期化の秘密を説き明かす。建武二年(一三三五)末、日向国では伊東氏・肝付氏を中核とする武装勢力が蜂起し、足利氏所領の拠点である政所をめぐって、土持氏との激しい戦乱状態にはいった。この地域紛争の背景には、尊氏による日向国の「料国」化と、これによって既得権を脅かされる伝統的在地勢力の反発、あるいは在地伊東氏庶家と新たに下向した本宗家との対立などが存在していた。そうした諸矛盾が、所領の一円領化・地域の自律化にともなって政所・城郭の実力占拠(…「当知行」の宣言)という私戦を引き起こした。「私戦」「公戦」概念を使って、地域の紛争と全国レベルの戦争を、統一的かつ構造的に描写するのに成功した論稿である。佐藤論文は『峰相記』『太平記』その他の史料を使って、これまでに明らかにされた合戦の諸相を、内乱の歴史経過にそって位置付けなおし、もって転換期における悪党・野伏の客観的な役割を確認したものである。所論の中では、情報の収集と的確な判断が内乱を生きるものの必須の条件であったことが随所で指摘されている。この観点は小林論文の「私戦」と「公戦」の循環構造を媒介する要素としても、今後深められるべき論点であろう。
第四章。中島・山本論文は『二条河原落書』古写本(内閣文庫甘露寺本)の影印収録・翻刻・口語訳・注釈をほどこし、その上でこの落書がだれによって作られ、どの様に機能したかを都市と情報の観点から分析する。現代を生きる人間であっても、内乱時代の社会の空気を強烈に感じ取れるのが、この落書である。歴史の感性を豊かにしてくれる最も良質な材料と言うべきである。この材料にいかに接するか、その手解きを見せてくれている点で、これから研究を始めようとする人々にとっても有り難い。ただし落書の口語訳はあくまで試案であって、他の解釈が成り立ちうることほ言うまでもない。石原・海津・楠木論文は「悪党交名注文一覧」を提示し、交名にみえる悪党の実態、事件の類型、交名注文の史料学的意味を論じたものである。交名一覧に登載された悪党の人数は、のべ一二○○人以上にのぼるという。史料上に重複する場合も多かろうが、それにしてもこの数に表された悪党は壮観である。彼らの実態、事件の類型が交名からだけで解明できないのは当然であるが、この交名一覧が研究材料としての「悪党」を検索するのに、重宝な利便を提供してくれることは間違いない。また史料学的に「悪党交名」がどのように扱われ得るか、これまでに明らかにされた悪党検断システムを分かりやすく紹介すると同時に、その可能性を披瀝する。

本書の評価すべきところを挙げると、次のようなことが言えよう。収載されたテーマ別の個人論文は十五本をかぞえる。一つひとつの論文は、各自の問題関心にもどづき、まことに多様かつ個性的である。かような性質は、執筆者がそれぞれ研究の根拠地ともいうべきものを持ち、己の世界に徹底的に沈潜し、そこのところから立論していることによる。それは実証的確かさを保障して論文自体に価値を持たせると同時に、悪党研究の蓄積をさらに豊ならしめるものとしての意味をもつ。悪党についての特殊的で具体的な個別研究は、いぜんどして重要な学問作業である。さてつぎにもう一つ本書の評価すべきところを挙げるなら、悪党ならびに悪党の時代を全体として見る(全体像を造る)こころみが、論文によっては顕れてきている事である。これまでの学界の状況に対して、悪党をめぐる独自の理解をかなり正直に押し出し、一個のまとまった中世史像を出そうとしている。
そこでたとえば海津氏の論文をみると、大隅・薪両荘の堺相論という限定したところで展開する悪党事件から、国家の治安・警察システムを浮かび上がらせている。従来の氏の所論(1)を出るものではないが、個別事例から己の所論を補強しようとしているため、氏にとっての悪党の時代像がより明確となっている。鎌倉時代の後末期、自力救済(実力闘争・実力占拠・当知行)を前提にする民衆の地域秩序が放棄させられ、公権力の平和(…当知行の制限・徳政)が受容される思潮のたかまりとともに、悪党は地域秩序の側からあらわれた。公権力の徳政の実現によって、自力救済に身を挺する<地域の英雄>は、一転して「違勅」の輩=悪党として国家から認定されたという。
海津氏の議論にある自力救済というものは、小林論文と論理構造的に結び付いて、これまでにない新鮮な十四世紀内乱論を生んだ。海津論文にみえる自力救済の「私戦」は、小林論文の中で「地域の自律化(=一円領化)」をめざす在地の動きとして位置付けられ、これこそが内乱期の悪党であると評価されたのである。ここでは古くからの諸権利を維持(当知行)しようとする在地領主の志向が、はじめは無数の私戦となって発火し、やがてそれらは南朝と北朝の二項対立に収斂し爆発する。南朝ないし北朝からの正当性が付与された私戦は公戦に転化していく。かくして私戦と公戦の循環は、列島全土に戦火を拡大しながら、南北朝の内乱を長期化させたと言うわけである。
悪党の問題は公と私の概念を意識させつつ、いまや中世の軍事力・戦争の問題へと発展すると同時に、鎌倉末・南北朝期社会を立体的かつ構造的に明らかにするための重要な環となりつつある。したがって以上は悪党論の到達点と言えよう。しかし悪党にまつわるこうした捉えかたに疑問がないわけではない。かかる捉えかたをもって、はたして中世のわが国の時代像は真に明瞭にし得るのだろうか。ことに鎌倉時代の悪党の一切を、国家の政治・政策・理念、ならびに強制の仕組み(…追捕の仕組み)に対置させ、もって権力側から抵抗するものへ貼り付けた治安の標語として理解することが、時代の像を民衆の視点にたって解き明かす方法になり得るのだろうか。海津氏の所論の中では、権力に正面対置し、上から「違勅」の輩として弾圧される悪党は、どこまでも〈地域の英堆〉いがいでは有り得ない。となれば、中世の都市や農村の堂宇・在家を焼き、合戦騒ぎをひきおこし、居合す群衆を喜ばせ、あるいは恐怖させる武装の徒はどう評価すれば良いのだろうか。快活と剽軽、欲望と残忍。彼らの生態を現場にそくして観察すれば、「悪党」なるものを概念的に成立させる契機はけっして単純ではない。私が見る限りでは国家権力との矛盾、あるいはそこに至る訴訟敵対関係よりも、庶民の中に生きている厳然たる規範に背反するか、はみ出すものへ庶民がいだく独特の意識―御霊にも似た荒々しさを畏怖する意識と、荒々しさ故にその力を快哉する意識―の方が重要である。それが「悪党」概念を成立させる契機になっていたと思う。悪の観念は庶民の中に存在していた。恐怖と嫌悪にみちたものであり、しかも畏敬すべきもの・祝祭すべきものとして「悪党」は、民衆の中に観念され生み出されたのではなかろうか。
では庶民の規範とは何か。それは私的な「武勇」(武装と暴力)を互いに縛り合う力ではなかったかと思う。寺院・農村を問わず民間の社会にあって、衆(共同体)の規範から外れたところで、私的に武装することがいかに厭うべき悪の行為であり、それだけにまた小気味の良い強烈な悪の姿であるか。こうしたことについては、先年論文その他小著にて縷縷説明したつもりである(2)。おそらく庶民世界の「武勇」に対する禁忌の意識・祝祭の意識がはじめにあって、これを共同体機能を吸収ないし代行しようとする公武権力が、私的武勇・私合戦を取り締まる、このような筋道で悪党は理解されるべきであろう。ちなみに荘園体制を構成する村民は、本所への闘争態勢をくむにさいして、神水・起請・上申・逃散の手続きは踏むものの、武装することはしなかった。荘民と本所はともに、ひとが武装することを、悪の姿になるものと考えていた。荘園体制それ自体が一個の共同体をつくっていた頃(鎌倉時代)のこうした伝統は、武装することのない近世の百姓一揆に引き継がれたようである。甲州でおきた一揆は、その中に鉄砲を所持・発砲するものが現れた段階に、藩権力による「悪党」認定が行われ、武力攻撃をもって鎮圧された(3)。

人びとの武勇に対する意識のズレが悪なる観念の成立契機になっていたとすると、そのズレはいかなる条件の下に発生していたのだろうか。こうした観点を民衆の視点から考えるなら、網野善彦氏の「非農業民」「無縁」「公界」は依然として無視されるべきではない。「非農業民」は前期中世社会の人間範疇としては、誤解されかねない言葉であると思う*。しかし網野氏は、これを含む三つの言葉によって、諸共同体の間には共同体の発生とともに古い時代から、独自の世界(前期的資本・高利貸資本)が存在していたこと、そしてそこには独特な意識が人びとの間で脈動していたことを、はじめて明らかにした。近代資本主義の形成過程にはいってのみ、すなわち農民層の分解に伴う共同体の崩壊過程にはいってのみ、前近代における諸共同体は相互の隙間を広げて、前期的資本の活動を活発化させるとみるのが網野氏以前の常識理論であったと思う。ところが共同体外的人間としての「非農業民」「無縁」「公界」の民を、中世社会の私的売買の世界から発生する商人・高利貸し・地主のなかに見いだし、さらに彼らの活動と絡ませながら、武勇の輩・芸能の徒を想定することによって、戦後歴史学は村の秩序意識(価値意識)とは異なる別の意識の存在を発見した、と私は考える。
前近代では、社会結合の基本的性格は人格的で、共同体ごと(土地ごと集団ごと)に狭く限定されている。いわゆる〈交換価値による物象化された関係〉(K・マルクス)が存在しないから、どのような関係も、それぞれの共同体を無限に同化させることはない。しかし資本主義のように社会全体を徹底的に同化させることが無いと言うことは、論理的には多様な経済制度が同時に混在しているということでもある。したがって、なかには諸共同体間の隙間―共同体からのいかなる制約もうけない〈社会的真空地帯〉(大塚久雄)(4)―を場として生息しうる前期的資本が「非農業民」「無縁」「公界」という形をとって、中世の古い時代から存在していても一向に不思議ではない。もちろん純枠の〈交換価値による物象化された関係〉ではないから、前期的資本の様態に濃厚な宗教性・呪術性が付着していることは言うまでもない。また農業生産を軸に共同体意識が強固になれば、それとのいざこざ(コンフリクト)の故に共同体外的なるものは行動と表現のどぎつい刺激を発したはずである。おそらくずれたところ、衝突するところに沸騰する時代の精神にこそ、悪党にまつわる思想・文化・芸能の豊饒な鉱脈が伏在しているのだろう。本書が第二章「流通」にて、蔵持・錦・櫻井・渡邊・則竹の各氏が意欲的に共同体外の場を注目し、また第三章では梶山氏が野伏の商人としての性格に着目してはいるが、思想・文化・芸能にかんする章立てが成されなかったのは、いかにも残念である。悪党の問題には、理論的な位置付けから必然的に、文化の問題が浮上してくるはずなのである。その点で、第三章にて佐藤氏が触れたバサラは、本書の中の他の研究者によってもっと大切にされるべきであった**。
*「非農業民」は農事専業民の存在を前提にする対概念のごとく理解されかねず、そのように理解してしまうと、江戸時代ですら「百姓」がただちに農民を意味するものでなかったと言う網野氏自身の明らかにした事実まで、逆に曖昧になりかねない。おそらく氏も言われるように(『蒙古襲来』日本の歴史10、小学館、一九七四年)、前期中世社会における村落はいまだ強い閉鎖性を持ち合わせてはいず、村民が道を歩く盲目の芸能法師をうけいれる鷹揚なところを持っていたことからも、共同体としては未熟・未完成であったことは明らかである。これは荘園の本所が在地の生産機能(山・用水など)を管理掌握して、住民の側の手には帰していないことによると同時に、個々の住民が土地と堅く結合していない事情にも由来していた。したがってかような段階での住民は、土地との関係が弱い分、それだけ非農的生業が生活のなかに入りやすく、彼らの交通とのかかわりを常につくりだしていた。私はかつて氏の業績に対する理解の浅さから、「非農業民」を山民・海民・芸能民を農業から離れた全くの別世界のものと考えたが(拙稿「鎌倉時代の漂白民信仰と悪党」(民衆史研究会編『民衆史の課題と方向』三一書房、一九七八年、のちに拙著『中世悪党の研究』吉川弘文館、一九九○年、収録)、いまは「非農業民」に関しては右のように理解をしている。

**かつて網野氏は、戦後第二期の中世史研究が石母田領主制の欠落せる部分(庶民を見る視点)を放置したまま、理論だけを継承し発展させていったが、すでに戦後第一期の時点(一九五五年まで)に松本新八郎氏がこの欠落せる部分に反発し―中世庶民の芸能・民話を題材にした研究、あるいは当時の見方からすれば紛うことなき古代の権力であった寺院僧兵を、治承寿永内乱期の革命的勢力であったとする研究をうんだ―、林屋辰三郎氏ら京都史学と共鳴しあいつつ豊かな可能性を胚胎させていたと述べている。松本史学にはその後の領主制論が忘れ去ったもので、しかも活かされるべき論点が含まれていたという(網野「悪党の評価をめぐって」『歴史学研究』三六二号、一九七○年。のち同氏著『悪党と海賊―日本中世の社会と政治―』法政大学出版局、一九九五年、収録)。この指摘は、戦後史学史の脈絡をつかみ、現在の悪党論を位置付け模索するうえで示竣にとむと思う。

むすび
かつて石母田正氏が『中世的世界の形成』を著わして以来、半世紀以上の月日がながれ、いまや私たちは二十一世紀を目前にしている。その間に、石母田氏の理論的枠組みは、政治状況の変動とともに疲労し、意味を失ったといわれてすでに久しい。ことに一九八○年代末の社会主義国家群の崩壊は、単系の歴史発展法則を急速に色褪せたものにした。しかしこのさい確認したいのは、学問の思想と公式としての「理論」は、次元を異にするということである。石母田氏の学問の思想はすでに幾多の研究者によって、アジア・太平洋戦争と天皇制とのかかわりから細部にわたり論及された(5)。現実との緊張関係の中でのみ生命を持ち得る学問の思想は、神国日本の特殊性に抗して普遍的で法則的な歴史を描こうとするものである以上、歴史描写を常に世界史的なものとし、全体史にせずにはおかなかった。
ここでは石母田氏のファンダメンタルなこの立場を特に想い起こしたい。これは「理論」ではなく、まさに思想の問題なのである。人間が砂のごとく分離・分解し、麻薬と暴力と知の衰退が幅をきかせるこの国の現在にあって、社会総体の崩壊すらを予感するのは私のみではあるまい。階級関係と政治関係・権力関係のみえにくい、しかも確実に腐朽しつつある日本資本主義を凝視し、さらにその向こう岸を見透そうとする立場に立たなければ、悪党論を全体史に向かわせることは難しいと思う。
石母田氏が生きた戦時期とは全く異なる時代に、私たちは生きている。異なる時代の状況の中から、石母田氏の扱ったものと同一のテーマを対象に、『悪党の中世』が世に出された。この書物を書評することから、右のごとく現在を見つめる立場の必要をあらためて感じた次第である。思想とか立場といったものを他者に押しつけることは、わたくしの信条とするところではない。しかし、全体史としての悪党論をいかに構築するかという問題は、石母田氏の時代とは異なるこの時代にあっても、なお現在の状況そのものが私たちに突き付けている課題であると思う。本書はまさにかような問題を討論するための道標として世に出されたものと考えたい。

(1)海津一朗『中世の変革と徳政』(吉川弘文館 一九九四年)、同氏『蒙古襲来―対外戦争の社会史』(吉川弘文館、一九九八年)。
(2)新井孝重「中世民衆の一揆と武力」(歴史教育者協議会編『前近代史の新しい学び方』青木書店 一九九六年)、拙著『悪党の世紀』(吉川弘文館 一九九七年)。
(3)安藤優一郎「百姓一揆における鉄砲相互不使用原則の崩壊」(『歴史学研究』七一三号、一九九八年)。
(4)大塚久雄『共同体の基礎理論』(岩波書店、一九五五年)。
(5)太田順三「荘園と『地域一揆体制』―石母田正著『中世的世界の形成』をめぐって―」(『佐賀大学教養部研究紀要』第十二巻、一九八○年)、石井進・岩波文庫版『中世的世界の形成』解説(一九八五年)、新井「石母田正『中世的世界の形成』を読む」(『獨協中学・高等学校研究紀要』第十号、一九八六年、のち拙著『中世悪党の研究』吉川弘文館、一九九○年、収録)。
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