大石 学監修『東海道四日市宿本陣の基礎的研究』
評者:上野 秀治
掲載誌:四日市市立博物館研究紀要9(2002.3)


 平成十三年十月に岩田書院から出版された本書は、四日市市立博物館に保管収蔵の四日市宿本陣清水家の文書を整理し、さらに調査・研究を重ねてこられた成果刊行物である。監修者の大石学氏(東京学芸大学教授)は、四日市市史編集専門部会委員として清水本陣文書などを担当され、『四日市市史 第十巻 史料編近世V』に当文書の中から主要なものを選んで採録する作業をされた。さらに『四日市市史 第十七巻 通史編近世』でも四日市宿の本陣について分析の結果を執筆された。このように市史編纂事業にかかわって本文書の史料的価値を認識され、未整理であった八九〇点の史料を、主に東京学芸大学の関係者によって発足した清水本陣文書調査グループ(経費は四日市市史編さん室が措置)を指導、整理され、目録を完成させるとともに、調査グループのメンバーと共同で調査・研究を深め、休泊帳のデータ化も推進された。これら共同研究の成果は、前掲の市史をはじめ、『四日市市史研究』第十、十二、十三号などに論文や報告、講演抄録として掲載されている。そして今回、正保四年(一六四七)から明治二年(一八六九)まで、途中空白期間はあるものの、よく揃って残されている休泊帳のデータなども加え、これまでの研究成果を公刊し、まずは清水本陣の基礎的な研究とされたものである。さて本書の目次は次の通りである。(中略)

 以上三部に分かれているが、序では大石氏が、本書刊行に至る経緯等を述べ、さらに四日市宿の本陣をどの家が勤めたか、という変遷を記している。四日市宿には二軒の本陣が存在したが、清水家は江戸時代を通じて本陣を経営、もう一軒は浮沈があって三家が時期を違えて存在していたことを明らかにしている。

 第一部は清水本陣文書を整理した最終報告となっている。太田氏によって保存状況が詳細に記録され、そして共同作業による文書目録が七十二頁にわたって掲載されている。文書の点数は八九〇点であるが、最も古い文書は天正十六年(一五八八)二月の屋敷の売券で、新しいものは昭和期である。これらを分類して、それぞれ年代順に配列、年代・表題・差出人→宛所・形態と数量・備考・配列番号を記した一覧表にしている。分類の詳細は省略するが、大きく分けて四日市宿と四日市町に関する公的文書、清水家の私的文書、史料整理・管理の痕跡の史料(但し、包紙や紐の類が多い)の三つにし、近年の学界の動向も視野に入れながら分類している点は評価されよう。

 第二郎は清水本陣文書を分析した研究篇に当たる。ただし既発表論文の再録や改稿の論文が集められている。第三郎は、厖大となったために、すべてを市史に掲載できなかった本陣の休泊帳のデータである。佐藤氏による概要とその分析の論考、および一七四頁にわたる正保四年から明治二年までの休泊一覧からなる。一覧表は、滞在年月日・滞在者・藩名や知行所名・石高・役職・滞在形態(休泊のどちらか)・滞在目的(中期までは上りか下りのどちらかのみ)・拝領・進上・備考の欄を設けて、史料に記されている内容を記入している。このデータは東京学芸大学の学生たちによって作成されたものであるが、大変な労作である。本陣の実態を解明するのにも有効なデータであろう。しかし江戸時代中期の享保三年(一七一八)から享和三年(一八〇三)までの八十数か年の記録が存在しないのは残念である。この期間は、四日市町が大和郡山藩(柳沢氏)の飛び地に縞入されていた時期(享保九年から享和元年)にほぼ相当する。藩領編入と史料の残存状況に何か関係があるかもしれない。

 以上、内容について簡単に紹介した。ところで、「本陣」の解説があとになってしまったが、宿場における本陣とは、街道を往来する旅行者のうち、身分の高い大名・旗本、幕府の役人や公家などが宿泊したり休憩をとる施設(簡単にいえば高級旅館)である。公家や大名、幕府役人などを相手にするところから、宿場の構成員の中でも指導的な地位に立っている。場合によると、宿での荷物の継ぎ送り(宿駅の本務)を扱う問屋を兼ねたりすることもあるので、本陣文書の分析は、その宿場を研究する上でも、きわめて重要である。東海道の宿駅の一つである四日市宿は、戦災によって多く史料が失われているため、清水本陣文書の整理・研究が四日市宿の歴史を解明する上で欠くことのできないものになっていることは言うまでもない。

 今回本書の出版により、文書目録や休泊帳のデータが公開され、研究推進のための環境は整ったといえる。本書所収の論考は、将来の研究の手引きとなる基礎的な諸事実を明らかにしてくれているので、今後は多くの人びとの参加を得て、清水本陣文書を駆使して多角的な分析がなされることを期待するものである。(うえの ひではる 皇学館大学教授)


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