大石 学監修『東海道四日市宿本陣の基礎的研究』
評者:渡辺 和敏
掲載誌:交通史研究51(2002.11)


   はじめに

 近年、江戸時代の本陣に関する研究が再び活性化してきた。その中で、平成七年に旧東海道四日市宿の清水本陣文書調査グループが結成され、そのメンバーを中心にして精力的な同文書の整理と研究が進められているということは聞いていた。そしてその成果が、今回、全体で三八六ページにも及ぶ大著として出版された。

 本書は、江戸〜明治初期に東海道四日市宿の本陣であった清水家が所蔵(現在は四日市市立博物館へ寄託)する古文書の調査記録と、その資料を駆使しての清水本陣の総合的調査研究報告書である。単なる研究報告書でない点に大きな特徴があり、今後の古文書の総合調査に大きな示唆を与える書物である。

 従来、一宿・一軒の本陣についての資史料集はあったが(例えば『中山道安中宿本陣文書』)、本書のような総合的な調査研究報告書の出版はなかったように思う。その意味でも、あるいは実際の内容の広さにおいても画期的なもので、高く評価すべきである。そうであるが故に、以下に忌憚のない論評をすることを許していただきたい。

   一 刊行の経緯と四日市宿本陣の特徴

 本書の内容は、大別すると次の四点からなる。すなわち、まず本書監修者の大石学氏による序文と四日市宿の清水本陣の変遷、次に第一部として調査グループ代表者の太田尚宏氏による調査方法の紹介と同グループによる清水家文書目録、次に第二部として大石氏とグループメンバーの池田真由美・保垣孝幸氏による清水家文書を中心にして執筆した清水本陣の研究、最後に第三部として佐藤宏之氏による清水本陣の休泊帳の解説と二三名の合作による休泊一覧表である。

 以下、順に内容を紹介しながら感想を述べる。大石氏は巻頭の「序」で、四日市宿本陣清水家文書の伝来と本格的調査の再開の経過、および本書の刊行の意義について論じている。その中で本書刊行の意義については、四日市地域の地方史研究と近世交通史研究の基盤整備、地域への研究成果の公開、この三点にあると指摘している。その意義については、指摘しているものよりずっと多面にわたると思うが、謙遜してこのように述べているのであろう。

 次いで「四日市宿本陣の変遷」と題する大石氏の論文を収録し、同宿本陣の在り方について四期に分けて紹介している。すなわち、近世前期〜享保八年(一七二三)の第一期は四日市宿が清水・吉田の二本陣体制であったが、やがて吉田本陣が経営難に陥り、享保八年から第二期として清水本陣と吉田家に代って太田家が御用宿になったという。その際、太田家は本陣としては無理であるが御用宿ならば了承すると応え、旅籠屋も従来の吉田本陣の廃業について「旅籠屋ももともと下宿の商売人を相手にすることが多いので、とりたてて支障はない」と応えたという(二四ページ)。その後、寛政八年(一七九六)に御用宿の太田家が二番本陣に昇格して第三期を迎えたが、文化八年(一八一一)に太田家が経営難を理由にその本陣を止め、代わりにそれまで脇本陣であった黒川家が二番本陣に昇格して第四期に移行したという。これらの記述は、本書全体を理解するための基本的事項であり、大きな意味を持っている。

 ただしいくつかの点で気になることがある。まず第一に、「当宿草創之本陣」として清水家は「宿場の成立以来本陣を経営した」という指摘であるが(二九ページ)、これは同家の系図を鵜呑みにした記述と言うべきであろう。大石氏は、第二部においても清水家は「元亀年間(一五七〇〜七三)に本陣をたて(中略)幕府から苗字・帯刀の特権を与えられ」たと記しているが(一七一ページ)、これも明治元年(一八六八)の由緒書をそのまま信用したり拡大解釈した結果の記述である。

 一般に本陣の成立時期は宿場が成立した後のことで、大名の参勤交代との関連で考えるべきであろう。仮に、それ以前より大名を宿泊させていたというなら、それは大名宿と言った方がよい。なお、「幕府から苗字・帯刀」の記述についても、同氏が引用したと思われる明治元年の由緒書には「諸侯方御用をも相勤候付、苗字帯刀免許」とあり(『四日市市史』史料編第十巻近世V一七六ページ、以下同書は『市史』十巻と略す)、清水家は幕府からではなく、諸侯から苗字・帯刀を許されたと解釈すべきである。

 第二に、一期から二期への移行期の際、同氏の引用資料からは旅籠屋は次のように応えたと解釈すべきである(『市史』十巻三一六ページ)。すなわち旅籠屋としては、従来の吉田家は本陣とは言いながら実際には旅籠屋の稼働範囲である下宿や商人宿をも営んでおり、本陣を廃業しても差し支えないし、むしろ旅籠屋の顧客を奪われないから歓迎すべきこと、と応えていると読んだ方がよい。

 第三に、当初は御用宿を選択した太田家が、何故に途中から本陣を志向しはじめたのかということの説明がない点である。資料的に明らかにできないのかも知れないが、こうしたことは他に類例が少ないので、推測の範囲内でも指摘があってよかったように思う。     

   二 調査方法と文書目録

 本書の目次案をみると、右の清水本陣の変遷に関する大石氏の論文は第一部の前にあるから、言わば「前提」としての位置づけであろう。そして以下の第一〜三部が本論ということであろうか。

 第一部は「清水本陣文書の整理と目録」と題して、太田尚宏氏の「四日市宿清水本陣文書の保存情況」という調査報告文と、八名による「四日市宿清水本陣文書目録」からなる。通常の刊行物では、こうした内容のものは巻末に付録的に収録されるのであるが、そうしていないところが本書らしい新しい試みである。

 太田氏の報告を掻い摘んで紹介すれば、このメンバーによって清水家文書の調査に着手したのは平成七年のことという。そこでは、かつて吉田伸之氏や安藤正人氏等が提唱した資料の「現状記録」論や記録資料学による資料整理論を下敷きにし、綿密な計画に基づいて調査した経過が記してある。その方針は、あくまでも文書群・一括形態を重視して調査したもののようである。

 例えば、まずもともと三つの箱に収納されていた同文書が、『四日市市史』編纂などの過去の調査によってどのように移動したのかを推測し、保存情況を丹念に記録しながら、資料の塊を薄皮を剥ぐように紐解くのであるが、その際にもその塊の情況を写真やスケッチなどにより記録したという。そして資料の全容をほぼ把握した上で、同文書を、T四日市宿・四日市町、U清水家、V史料整理・管理の痕跡、この三つに大分類し、さらにそれらを中・小に分類するのであるが、それらには当初の保存情況を示す番号が付してあるので容易に元の保存形態に戻すことができる。

 その結果、清水家文書は、昭和五十九年(一九八四)の四日市市史料調査委員会による目録稿本では四九五点であったものが、今回の調査で八九〇点であったことが判明したという。なお本来の資料保存情況は、市史編纂や資料所蔵者等によつて何度か改変されているが、一部に江戸時代における整理秩序が維持されていたものもあったという。

 以上の調査方法の論評については、次の「目録」の紹介の後に一括して行う。清水家文書の八九〇点は、次のように分類して目録化されている。

T四日市宿・四日市町
1宿方(@支配、A運営、H助成、C絵図)。
2本陣(@公武通行・休泊[先触 宿割・請書・断書 御用取扱 関札 休泊記録 下ヶ金 判形・判鑑 路銀借用 定宿 その他]、A本陣間廻達・他宿本陣、H相本陣・脇本陣・御用宿、C助成[助成 本陣借用金運用]、D修復・普請、E出府・交際、F情報・知識、G絵図)。
3御総督賄方。  4宿内頼母子講。  5戸長役場・町役場。  6鞠鹿野開拓目代。  7郵船取扱人。

U清水家
1家・家系・由緒。 2土地・屋敷。  3金融。  4経営・雇用。  5諸役。  6租税・諸費。  7縁戚。  8信仰・宗教。  9教養・趣味。  10来信。
V史料整理・管理の痕跡
1整理・管理の痕跡。 2断簡・その他。

 以上の分類には、さまざまな異論もあろう。評者も、かつて自ら担当して発行した文書目録に対し、さまざまな異論を唱えられた経験がある。文書調査の体験者の多くは、それぞれ自分の考えていることが最も正しいと思っているものである。

 それを前提にして、二〜三の感想を述べる。まず第一に、これだけの量の文書にしては分類が細か過ぎないかという点である。例えば、Tの1B・C、2@の項目には、それぞれ四点の文書があるだけである。一〇点を収録するUの1と、八点を収録するUの7を同一の項目にしても、その項目名を変更すれば問題はないように思われる。小項目主義は、ややもすると後の資料利用者に研究方法を誘導することになる。

 第二に、表題のつけ方である。例えば、Tの1@の番号9については、その表題が「道中奉行所御触書之写」とあるだけで、それがどのような内容の触書かわからない。同様に、Uの3には多くの借金証文が目録化されているが、借金証文についてはせめてその金額だけでも入れた方が目録としての価値が増すように思う。

 第三に、形態・数量の項目についてである。例えばTの2@b「関札」の項目の形態について、単に「関札」とだけあり、これでは板に墨書されたものか紙に書かれたものかわからない(なお後掲の池田論文でこの関札はすべて紙に書かれたものと記してある)。数量についても、特に冊子については丁数(不可能なら厚さでもよい)が記入されていれば、利用者はそれがどの程度のものか凡その判断ができる。

 前に戻るが、太田氏の報告文については、全体的に評者にとっていささかカルチャーショックの内容であった。と言うのも、正直に告白すれば、こうした調査方法が検討され、一部にそれが実施されていることは知っていたが、その成果をじつくり拝見したことがなかったからである。太田氏の報告文を読み、今後はこうした方法を用いなければ、資料調査をする資格がないのかと自問自答したりもした。

 大勢のグループで十分に時間をかけて調査する場合には、あるいは未調査の資料群に出会った際には、なるほど、こうした調査が可能であり、またこのようにすべきであろう。ただし現実は、この清水家文書がそうであったように、過去に調査の手が加わって原型が崩れている場合が多く、また個人で調査をせざるを得ないこともある。個人でこうした方法を踏まえて調査すれば、その進捗はこころもとない。自問自答せざるを得ない所以である。
 
   三 清水家と同本陣の研究

 第二部は「四日市宿本陣の研究」で、四編の研究論文からなる。まず、池田真由美氏による「本陣史料の基礎的研究」は、四日市宿の清水本陣で作成・保管された休泊業務関連文書の内容や書式について、本陣とその利用者との折衝のあり方を、T休泊以前の手続き、U休泊当日、V本陣の日常活動、この三つに区分し、従来の研究史を踏まえて分析した好論文である。

 特に多くの紙数をさいたTでは、その手続き順に、利用者からの先触、本陣からの応否の回答、利用予約が重複した差合の際の取り扱い方、利用者の到着前の宿割役人からの指示書の提示、本陣利用者とその従者が分宿するための宿割の書類、本陣や分宿の利用料の取り決め、当日に掲げる利用者の氏名を書いた宿札・関札・掛札の提示、というようなことを清水本陣文書によって具体例を示している。

 次にUについては、利用者に対する出迎え、本陣から利用者への献上品と利用者からの拝料金、清水本陣の休泊記館の紹介、この三項目を記述している。次にVでは、利用者との定宿契約の仕方、定宿を確保するための挨拶状・献上品の送付、本陣相続のための情報収集、助成金の依頼、等について項目別に記述している。

 いずれも手堅い手法によって従来の研究成果を再検討し、宿札は関札の異称ではなく下宿札のことであることや、関札は定本陣が、掛札は実際に休泊する宿が頂戴するもの等々、随所に新見解も示している。ただし些細なことではあるが、若干の勘違いもあるようである。例えば、先約者の休泊キャンセルに閑し「当日の二時までに通知があれば後約者を第一本陣へ案内するが、午後四時以降に通知があった場合は、利用者の希望を開き」(二二七ページ下段)とある時間の解釈は「未刻」を誤解したものであり、手紙文の「御席之節」(一五四ページ)は「御序」と読むべきであろう。

 次は、大石学氏による「元禄赤穂事件に関する清水本陣文書」と、同じく「尾張宗春失脚に関する一史料」という二点の短編論文である。前者は、いわゆる四十七士が四日市宿に休泊した際の宿割記録(偽文書)と、明治三十八年(一九〇五)頃に清水家の当主が書いた浅野長矩が投宿した際の関札についての記録・書状の写を分析し、国家主義が台頭する中でこうした「義士」ものが記録された意味を問うている。後者は、尾張藩主徳川宗春が元文四年(一七三九)に将軍から隠居を命じられた際の風聞書を紹介し、その政治史的な意味を論じている。いずれも清水本陣文書の中から見出したものを、政治史的な視点から検討したものであり、地域資料の活用方法に一定の示唆を与えている。

 ただしここでは、大石氏の引用資料が本書T部の目録の中でどれに該当するのかがわからず、前者の本文に「図はこれをわかる範囲で」(一六六ページ)とあるもののその図がない。本書は、従来の発表論文の単純な寄せ集めではないのであろうから、初出論文のままではなく、全体と歩調を合わせて一定の手を加えるべきであったと厳しく指摘せざるを得ない。また前者では、まとめの部分で「おそらく長矩の休泊記録は、安政の大地震で焼失したのであろう」(一六九ページ)としているが、そのような結論であれば、その地震で焼失したものと残ったものの検討が必要である。後者については、何故にこうした風聞書が本陣文書中にあるかを問う必要がある。

 次の保垣孝幸氏による「明治初年における鈴鹿郡石薬師村鞠鹿野開拓について−旧四日市本陣清水家の役割を中心に−」は、四日市宿旧本陣の清水太兵衛が「仮願人」になり、尾張藩士によって行われた士族授産による開拓の経過について、太兵衛がどのように関わったかを資料によって立証したものである。それは、開拓地から二里程の距離に住む太兵衛が尾張藩士等に依頼され、明治三年(一八七〇)閏十月に出願して五町歩の開拓がはじまり、明治十二年には開拓地の名義人である目代職を石薬師村の住人へ譲渡するのであるが、この間、清水家は旧本陣として開拓仲間の休泊施設となり、鞠鹿野開拓の拠点となっていた。それと同時期、同じ四日市の住民で豪商の印田久四郎も、太兵衝の開拓地の二十数倍の土地の開拓に乗り出したものの、これはほとんど失敗に帰したという。

 手堅い手法での立証であるが、何故、清水太兵衛が開拓の「仮願人」になったのかが明確でない。最初に願書を提出した明治三年閏十月は、あたかも本陣名目が廃止された時であり、本書が『本陣の基礎的研究』であるなら(本書名)この点からの検討も必要であったように思う。また印田久四郎と太兵衛の関係や、両者の開拓の仕方の相違についても触れていない点が残念である。

   四 休泊帳の紹介と休泊者一覧

 第三部は「清水本陣の休泊一覧」で、佐藤宏之氏による「四日市宿清水本陣休泊帳の概要と分析」と題する解説文と、佐藤氏をはじめとする二三名の合作による「四日市宿清水本陣休泊一覧」からなる。

 佐藤氏の解説文は、同本陣の休泊帳の紹介とその利用者の旅の様相を概観したもので、付録に利用者への清水本陣からの進上品一覧とその逆の拝領品一覧を紹介している。進上品については、その用語解説もしてある。

 佐藤氏によれば、清水家には休泊帳が三〇点残っており、それは形態的に@「竪帳の厚い合綴」とA「横半帳」の大福帳、H「御休泊録」と題された「横帳」の三つ、それにC「公武往来記録」とか「公武往来記」と題された「横帳・横半帳・竪帳」、およびD任意に書き留められた休泊記録の五つに分類できるという。形着分類はわかりやすいが、その帳簿の大きさも紹介して欲しかった。

 と言うのも、東海道筋だけでも四日市宿のほかに草津・池鯉鮒・二川・神奈川宿で本陣宿帳がまとまつて残っており、断片的にはこれ以外の数宿分のものも知られていて、それらにはいくつかのパターンがあることがわかっているからである。清水本陣の宿帳の大きさがわかれば、そのパターンのどれに属するのか、あるいは新しい形態のものなのかを判断することができる。

 なお、この@〜Bの休泊帳の紹介では、解説文を熟読すればわかることではあるが、全体を通じて年代の欠けている部分や重複部分に関する充分な説明も必要であったように思う。CやDにより、@〜Bで欠けている点が補えるものか否かも明確でない。少なくともCの解説文によれば、慶長六年(一六〇一)〜寛政九年(一七九七)まで、何らかの形で休泊名簿が完備しているように読み取れるのであるが、如何なものであろうか。

 次の「四日市宿清水本陣休泊一覧」は、右の@〜Bを表示化したもので、全体で一七三ページに及ぶ大作である。すなわち正保四年(一六四七)〜明治二年(一八六九)における清水本陣の利用者について、その滞在月日、滞在者名、藩名・知行所名、石高、役職、滞在形態、滞在目的、拝領、進上、備考に項目を分けての一覧表である。単に宿帳からの転載だけでなく、宿帳に記していない利用者の身分を調べて記載してあり、大変な作業をしたことに敬意を
表したい。

 ただしここでも二〜三の問題がある。その一は、表示記載の正確性である。因みに、本書二六〇ページの元禄元年(一六八八)の表示と、その原本に当たると思われる『市史』十巻一七七〜一九〇ページ所収資料とを照合してみたが、一〇箇所以上にわたる差異があった。その中でも、滞在目的の登り・下りの誤記は致命的である。もし『市史』十巻の方が間違っているのなら、そのことを明記すべきであって、これでは読者・研究者はどちらを信用してよいかわからない。

 なお、この元禄元年の進上物のうちに頻出する「なから」(二六〇ページ)が何であるかを確かめようとして、前記の佐藤氏の解説文を読み直すと「不明」ということであった(二一〇ページ)。評者の知るところでは、この「なから」とは、きさご(喜佐古)という巻貝のことで、評者の住む辺りでは「ながらみ」と言い、四日市辺りでは現在でも「ながら」と呼んでいるはずである。本書のように地域から発信する研究書では、地域の人々が昔から有する知識を汲み取るべきであり、それこそが監修者が「序」で述べている四日市地域史研究の基盤整備の初歩であると思う。

 その二は、すでに指摘したことであるが、原典となる資料が一部欠けていたり重複しているのに、その解説がない点である。Aの分類に属する元禄十二〜正徳五年(一六九九〜一七一五)の休泊帳と、@の分類に属する元禄十三〜宝永五年(一七〇〇〜八)のそれを、本書では両方とも表示した点は正しい判断である。ただし前記の佐藤氏の解説文によれば、Aは「@を簡略化したもの」(二〇三ページ)とあるが、この二つを比較するとその利用者がほとんど異なっている。そのことから、少なくとも@とAの両方が揃うことにより、清水本陣の利用形態がわかることになる。

 その三は、右のことにも関連して、この「一覧」の大部分は、実際には@の休泊帳を表示化したものであり、これが清水本陣の利用実態の全容を示しているとは限らないであろうということである。編者や「一覧」作成者は、もちろんそのことに気付いていると思うが、そのことを特記しなければ読者が間違った解釈をする恐れがある。

   おわりに

 以上、『東海道四日市宿本陣の基礎的研究』について、その内容を紹介しながら若干の論評を加えてみた。一部に重箱の隅をつつくような指摘をした部分もあるが、それは本書がはじめて一軒の本陣を総合的に調査研究した画期的なものであり、今後の交通史研究に大きな影響を及ぼす可能性が高いと思ったからである。内容面で、執筆者や目録・「一覧」作成者の意図と評者の理解が異なっているなら、それはあくまでも評者の力量不足によるものであろう。

 ただしこれも評者の勘違いかも知れないが、本書の執筆者全員が、「本陣の休泊者は大名・旗本・公家・オランダ商館長・流球施設・宗教者など」の特定の人だけが休泊した施設と限定して認識しているように読み取れるのである(例えば二〇五ページ)。もしそうであれば、それは認識違いであって、宿帳にはこうした特定の人だけを記したのである。

 一例を示せば、安政二年(一八五五)四月二十五日、後に勤皇運動に関わる浪士の清河八郎は母と供を連れて四日市宿の本陣に泊まつている(『西遊草』岩波文庫)。もちろん清水本陣の宿帳にはその記載がなく、あるいは当時の二番本陣の黒川家に泊まつたのかも知れないが、いずれにしても浪士でも本陣に泊まることのある事例である。特定の人を宿帳に記録するのは、次回の通行の際の参考にするためであったのである。

 何しろ本書は労作であり、しかも残された課題も明白であるので面白い。清水本陣調査グループをはじめとする同本陣の調査や研究に携わった方々により、益々この方面での研究が深化することを期待している。と同時に、特に東海道筋の本陣文書を残している地域では、その文書と本書を比較すれば新たな交通史像が浮かび上がってくるであろう。実は、評者も現在、東海道池鯉鮒宿の本陣宿帳の分析をしはじめており、本書を大いに参考にしているところである。

 なお、本書執筆者の内の太田尚宏氏と佐藤宏之氏は、平成十四年五月十二日の『交通史研究会第二十八回大会』で、本書を踏まえた新たな研究報告を行っているが、評者は今回のこの書評の執筆に当たってはそれを考慮しなかったことをお断りしておきたい。


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