関口功一著『東国の古代氏族』

評者:時枝 務
「群馬歴史民俗」31(2010.3)

  はじめに

 本書は、長年にわたり群馬県を中心とした地域の古代史を研究してきた著者の、はじめてのまとまった論文集である。本書には『群馬歴史民俗』に掲載された論文が三本も収録されている。『群馬歴史民俗』に書評も掲載されない状態では著者に対してあまりにも失礼であると考え、全くの門外漢であることを顧みず、紹介の労をとることにした。したがって、誤読や誤解、あるいは的外れな評言が多々あるかもしれないが、ご容赦願いたい。

  一 本書の構成と内容

 本書は、全体を「第一部 上毛野氏をめぐる諸問題」「第二部 『東国六腹朝臣』の意味」「第三部 東国地域の基礎構造」の三部に分け、冒頭に「序章 問題の所在と研究の現段階」、末尾に「終章 成果と課題」を置く。

 「序章 問題の所在と研究の現段階」では、本書の課題を「@上毛野氏の本質及びその変容の問題」「A『狭い意味での上毛野氏』と、『広い意味での上毛野氏』の可能な限りの分別」「B上毛野氏をめぐる渡来系氏族の問題」「C各地域に、上毛野氏と同化した氏族と同化しなかった氏族が在る意味」(一二〜一三頁)に設定する。

 「第一部 上毛野氏をめぐる諸問題」は、「第一章 ヒコサシマとミモロワケ」「第二章 白村江の戦いと上毛野稚子」「第三章 『上毛野』氏の基本的性格をめぐって」「第四章 七人の配流者」「第五章 上毛野君(→公)氏」「第六章 二つの氏族系譜」「第七章 上毛野穎人」の七つの章によって構成される。
第一章では、系図学的な検討を基礎に、上毛野氏を@「七世紀以前から続く本来の上毛野氏」、A「本来の上毛野氏の衰退に取って替わる形で登場する」「a田辺史氏を中心とする渡来系氏族」と「b上毛野地域出身の他姓氏族が、いきなり朝臣姓で改姓される場合」の「上毛野君(→朝臣)氏」、B「上毛野(地名+カバネ)氏」、C「カバネ不詳で分別できない」「上毛野氏」に分類する(三四頁)。
第二章では、白村江の戦いで上毛野稚子が戦死し、「新興勢力であった上毛野氏は、地歩を確保する意図でその後も対外的遠征軍に参加するが、特に白村江の戦いでは戦術上のミスのまきぞえをくって大きな被害を被った」と推測する(五〇頁)。
第三章では、史料にみえる上毛野氏を悉皆的に検討し、「『狭義の上毛野氏』の勢力は徐々に低落し」「緩い結合で並列する『広義の上毛野氏』へと徐々に変容する」八世紀の段階、「本来外郭を構成していたような渡来系氏族が、中心部分と全面的に入れ替わり、氏族としての本質が、地域出身者ではなくなった」九世紀の段階、「地域出身でも対外関係に由来する渡来人関係者でもない上毛野氏が新たに現れるようになり、古代氏族としての上毛野氏は全く無実化していく」十一世紀の段階の三段階に整理する(七六〜七七頁)。
第四章では、長屋王の変に関わって流刑に処された上毛野朝臣宿奈麻呂等七人を取り上げ、七人の特定を試みるとともに、復位・復籍をはじめとする事件後の動向を検討し、律令制下での中央における上毛野氏のあり方を考察する。
第五章では、上毛野氏の系譜を上毛野朝臣と上毛野君(→公)に整理し、それぞれ地方に在住した者と中央に出仕した者がいたとし、その動向を具体的な史資料で跡付け、「古代の上野国に朝臣姓とは別に上毛野君(公)氏は居住していた。但しその存在形態は、一般にイメージされるような地域に君臨する首長的な姿ではなく、カバネに端的に示されるように、多少は裕福であったかもしれないが、横並びな氏族のひとつに過ぎなかった」(一二一頁)と考える。
第六章では、『日本書紀』『続日本紀』『新撰姓氏録』などの史料に現れる上毛野氏を、「A『遠祖』を八綱田とする本来の上毛野氏に関する系譜」と「B『遠祖』を荒田別とする田辺史氏等に関する系譜」に整理する(一三五頁)。さらに、Bに関して「この上毛野氏は、あくまで個別氏族ではなく、各史料上でも明示されるとおり、a地域的属性、bカバネ、c職掌、d居住地などの多様な属性によって積み上げられた枠組みである」(一四九頁)と結論づける。
第七章では、上毛野穎人の事績を跡付け、「畿内在住の渡来人である田辺史氏の改姓した上毛野氏であるが、それまで何人かの同族の人々が試みながら、容易なことでは越えることができなかったカバネの格上げである公(君)→朝臣という階梯を、薬子の変への積極的関与によって越えることに成功した」(一七一頁)とし、「外部・後進の氏族の上毛野朝臣氏への同化の過程」(一七三頁)を考察する。

 「第二部 『東国六腹朝臣』の意味」は、「第一章 下毛野氏に関する基礎的考察」「第二章 佐味朝臣氏」「第三章 大野朝臣東人」「第四章 池田朝臣氏」「第五章 車持氏の問題点」「第六章 『東国六腹朝臣』」の六つの章からなる。
第一章では、下毛野氏の「改賜姓による氏族としての広がり」(二〇九頁)をあきらかにし、古麻呂の活躍に触れ、『新撰姓氏録』の下毛野氏が吉弥侯部・丈部系であることを指摘したうえで、「少なくとも、永続的に上毛野に勢力を持った上毛野氏、下毛野に勢力を持った下毛野氏という図式的な理解は、現在までの史・資料の残存状況からすれば、かなり無理がある」(二一〇頁)と考える。
第二章では、佐味朝臣氏の一族を整理した後、その出身地を越前国と推測し、虫麻呂・宮守の活躍に触れ、上毛野氏と関係をもったのは「和銅二年(七〇九)ないし神亀元年(七二四)の征夷戦争に参加した結果」(二二二頁)とみる。
第三章では、大野朝臣東人を取り上げ、一族に関連する史料を整理して、「大野君(→朝臣)氏は、本来、上毛野出身でも上毛野氏の同族でもなかった」(二三四頁)とし、その出身地を「越前国大野郡を中心とする地域」(二三六頁)と推測する。そのうえで、東人の経歴を振り返り、上毛野氏との関連について「様々な経緯で律令国家の東北政策に関与するなかで、そのような認識が発生した」(二四二頁)と考える。
第四章では、池田朝臣氏の一族に関する史料を整理し、その出身を「本来は上毛野地域に居住していたわけでなく、古い時期には上毛野関連氏族でさえなかった」(二五一頁)と推測し、「真枚が東北政策に関与してゆくなかで、あるいはそれに失敗するなかで、氏族としての利益を守るために、上毛野朝臣氏との関係を主張するようになっていった可能性」(二五七頁)を指摘する。
第五章では、車持氏の分布を概観したうえで、車持氏を車持君(→朝臣)・車持首・車持連・車持部(無姓)にわけて史料を検討し、「国家中枢に職掌を獲得し、負名氏として機能するようになった」(二七四頁)とする。上毛野氏との関連については、「付論 クルマ郡と車持氏」で、「大王の領域的所有に関する政治的意志」(二八一頁)との関わりに言及していることが注目される。
第六章では、「東国六腹朝臣」を「同時代の中央及び地方の政治情勢」(二八四頁)のなかに位置づけ、都宿禰氏の改姓、「因居地、賜姓命氏」の可能性、「腹」の意味、「東国」の範囲など、多角的な視点から検討することを試みた結果、「『東国六腹朝臣』とは、中国起源の渡来人が、その改姓に当たって常套的に使用した、幾つかの語句を組み合わせて作り出された言葉であって、本来同時代の日本の、具体的な状況に当てはめられるような内容を持っていなかった」(二九九頁)と断定する。

 「第三部 東国地域の基礎構造」は、「第一章 『上毛野国造』」「第二章 上毛野坂本朝臣男嶋とその一族」「第三章 地域支配の重層性に関する一考察」「第四章 畿外の渡来人」の四つの章によって組み立てられる。
第一章では、『先代旧事本紀』国造本紀所載の「国造」、『万葉集』東国防人歌の「助丁」、『続日本紀』の「上野佐位朝臣老刀自」の「本国国造」などを逐一検討し、「上野国には本来『国造』が存在しなかったと考えられるのではないか」(三二八頁)と考える。
第二章では、石上部男嶋を取り上げ、石上部君氏が上毛野坂本君に改姓したことをあきらかにし、「本来、石上部君氏は、律令制以前の重要交通路の通過する吾妻郡地域を本拠地とし、国家的事業である東山道駅路設定への参加などを契機として、新たに碓氷郡方面に進出したのではなかろうか」(三三七頁)と推測した。そのうえで、男嶋を「特別な背景を持たない地方出身の氏族として、可能な、最大限の昇進を遂げた」(三四一頁)人物と位置づけ、都市生活者としての側面を強調する。
第三章では、八世紀の上野国における石上部君の台頭と対照的に物部氏が地位を低下させていったことを史料・考古資料・地名から推測し、「?馬之党」や「平将門の乱」の背景にかつての物部氏の余韻が地下水のように流れていることを見出す。
第四章では、渡来人の移住と定住の様相を素描したうえで、その政治性を指摘し、在来勢力が「皮相的に移配された渡来人を含む政策的集団を排除していく」(三七九頁)可能性を指摘する。そして、「多胡郡成立の前提については、八世紀段階の渡来人の政策的移住の可能性も捨てきれないが、それとても、従来いわれてきているような、郡の住民の大半を占めるということはないだろう。同時期にある程度の渡来人の集住があるとすれば、むしろ七世紀前半以前のミヤケの設置に伴うものではなかったか」(三七九頁)と問題を提起している。

 終章では、全体を要約し、問題点と今後の課題について簡略に述べている。

  二 若干の感想

 さて、それでは、本書は群馬県の古代史研究にとって、どのような意義があるのであろうか。若干の感想を述べてみたい。

 第一に、本書は上毛野氏についての通説を、具体的な史料の検討にもとづいて完全に否定したことである。
かつて群馬県の中学校で副読本として使用されていた『群馬の歴史』(一九七〇年、煥乎堂)をみると、「上毛野氏と人々のくらし」の見出しで、「群馬・栃木両県地方は古くは毛、または毛野とよばれていたが、五世紀ごろになって渡良瀬川をおよその境にして西を上毛野、東を下毛野とよぶようになった。この上毛野に古くから住みついていた豪族が上毛野君で、大化改新(六四五年)以前には、上毛野国造として、このあたり一帯をおさめ、以後は大和朝廷の役人として京へ上ったり、ほかの国の国司になったりしている。上毛野君の本家は赤城山の南麓にいたとみられ、その一族は榛名山のふもとや碓氷川の流域、伊勢崎付近などにも住んでいた」(一八頁)と記されている。また、「上毛野君と赤城神社」では「上毛野君の本拠地は前二子、中二子、後二子古墳などのある前橋市西大室町の近くとみられ」(二一頁)とし、「上毛野氏の家系」では「一族には下毛野君・車持君(群馬郡―西)・垂水公(群馬郡―東)、上毛野坂本君(碓氷郡)桧前君(佐波郡)などがいたといわれる」(一八頁)とし、赤城山麓を拠点として上野国全体に及ぶ強大な勢力をもった上毛野氏像が描かれている。この説は群馬大学教授であった尾崎喜左雄の説いたもので、当時権威ある学説として学界のみならず、教育界においても承認され、県内の中学校などでごく普通に教えられたものである。
本書は、この強大な上毛野氏像を粉々に打ち砕いた点で、なによりも画期的な成果であることはあらためていうまでもなかろう。

 第二に、上毛野氏に関する史料を集成し、上毛野氏像の大枠を提示したことである。
著者は、「七世紀段階になって遅れてきた『地方』豪族としての上毛野氏が、東アジアの対外関係の進展のなかで、西日本の地方豪族の消耗のあとを承けて、氏族の命運を左右するような、朝鮮半島を舞台とする諸政策に参加させられていったことである。このことは、平安期には多くの渡来系氏族の始祖伝承の起点となった出来事であった。上毛野氏も、中央での一時的な地位の上昇をもたらすと共に、恐らくその段階を起点として、吉備氏や三輪氏といった氏族の例にならい、古い段階の氏族伝承を少しずつ架上していった」「氏族伝承の第一段階」(一一頁)、「上毛野氏(狭義の上毛野氏)は、中央政界へ進出を果たす過程で、通常の地方出身氏族がそうであるように諸官の歴任者を輩出し、藤原氏主流派との良好な関係も持っていた可能性があるが、国内外の治安維持的活動や、長屋王の変での立ち回りのまずさによって、徐々に勢力が低減されていった。その中心勢力の空白的時期に、地域出身の他姓者(上野国内・東北地方)及び渡来系氏族が、上毛野氏本流へ合流することになった(広義の上毛野氏)。渡来系氏族を中心に度々改姓が重ねられるが、改姓の段階に応じて系譜と氏族伝承の統合が行われ、今日知られるような氏族伝承も成立した。血縁的同族関係の上毛野氏は昇華され、改めて地縁的・意識的同族関係で再構成されて、古代氏族としての体裁が整えられた」(一一〜一二頁)第二段階を区分し、従来一枚岩のように論じられてきた上毛野氏の実態に迫った。
逆にいえば、この煩雑な氏族伝承の解析ができたからこそ、第一のような大胆な歴史像の改変が可能になったともいえよう。
そのほか、細かい点になればさらに多くの新知見に満ちていることはいうまでもないが、歴史像を大きく塗り替えた成果に比べれば、あえて指摘するまでもない小さなことに属するといえよう。

 しかし、そのような本書にも、問題がないわけではない。
第一に、もはや上毛野氏を上野国の覇者とみることができないとすれば、古代上野国の地域支配の実態はどのようなものであったのかという疑問に、本書がかならずしも十分に答えていない点である。従来の定説が個々の史料の批判的検討によって逐一崩された後に、明確な歴史像が描けていないとすれば、そのままでは抹殺博士といわれても仕方あるまい。かつて著者自身が『群馬県史』で叙述した歴史像を、二十年を経ていまだ超克できていない部分があると感じるのは、評者のみであろうか。
とはいえ、著者はそれを解く手がかりとして、「上毛野地域でその対極にあるのが、七〜八世紀代の氏族と直接連続するのか問題があるが、武蔵国北部や上野国西部に濃厚な分布が知られている物部氏である。『?馬之党』の関係者として東国地域の混乱状態の核にあったうえ、その鎮圧後にも継続して地域にあったのである」(三八五頁)点に注意を喚起している。上野国の物部氏が、歴史から抹殺されたにもかかわらず、雑草のように根強く生き続けたとすれば、その政治的動向はどのようなものであったのかぜひとも知りたいところである。そうした問題と深く連関する古代における地域編成に関しては、著者にはかなりの研究蓄積があるが、本書には一切収録されていないところから、おそらく今後新たな著作をまとめる野心があるのにちがいない。本書で通説を滅多切りした後に、次の一冊で、新鮮な歴史像が提示されることを、今から期待して待つことにしよう。

 第二に、上毛野氏をめぐる研究史について、本書が要点しか触れていない点である。通常、先学と異なる見解を公にする際には、旧来の学説を整理し、研究史的な展望のもとに批判することが求められる。その点、本書は尾崎喜左雄説などについて十分に紹介しておらず、むしろ正面から対決することを避けているように感じられる部分がある。直接対決を避けようとすると、相手方から、時に誤解を生むおそれがあることはいうまでもあるまい。これだけ斬新な見解を披露する以上、著者には格別の覚悟があったと思うが、なぜか研究史と取り組もうとする姿勢がみえない。
最近も、熊倉浩靖『古代東国の王者―上毛野氏の研究―』などのように、強大な上毛野氏像を提示する研究が跡を絶たない。多くの考古学研究者は、総社古墳群や大室古墳群などを、現在も上毛野氏の奥津城と説明してやまない。著者の実証的な研究が世に出てからも、こうした状況が続いている原因がどこにあるのかが評者には理解できないが、尾崎学説がそれだけ根強く残存しているとみることに異論はなかろう。それは、かつて中学校などにおいて、郷土の過去の栄光に満ちた上毛野氏の歴史を教えられた生徒たちが、今もその束縛から逃れられないでいる状況とみても大過なかろう。いや、むしろそうした栄光に満ちた古代史に心酔することで、暗い現代に生きる心労を少しでも癒そうとしているのではないか。それゆえに、一見夢がないようにみえるクリヤーな著者の見解に、耳を貸そうとしないのではないかと思う。
ぜひ、著者には、自分自身の研究も含めた研究史をまとめ、それぞれの学説の長所と短所を明確にし、無用の誤解を生まない土壌を培って欲しいと思うのは、評者ばかりではあるまい。

  おわりに

 以上、門外漢の目から本書のおもしろさと問題点を、個人的な印象として綴った。それは、評者に古代史の素養がなく、十分に内容を咀嚼することができなかったためである。読者諸氏にはご寛恕を請うとともに、ぜひ自ら読まれて、自分自身の見解をもたれるようにお勧めする。しかし、本書が、今後群馬県の古代史を研究するうえで、必読の研究書になると確信したことだけは、白状して置かねばならない。


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