高梨一美著『沖縄の「かみんちゅ」たち−女性祭司の世界』

評者:奥田暁子
「総合女性史研究」27(2010.3)

 三冊(小平美香著『女性神職の近代』、高梨一美『沖縄の「かみんちゅ」たち』、アンヌ・ブッシイ『神と人のはざまに生きる』)はいずれも女性と宗教に関する著作であるが、著者たちが対象とする宗教はそれぞれに異なっており、問題意識にも違いが見られる。そのため、三冊を比較検討して論評することは私の手に余る。そこで、本稿ではそれぞれの本について、とくに私が関心を持った点を中心に紹介するというかたちになることを最初にお断りしておきたい。

(中略)

 『沖縄の「かみんちゅ」たち』
本書は、結膜メラノーマという目にできた悪性腫瘍のために五一才の若さでこの世を去った高梨一美の業績を惜しんで、同学の研究者たちが編んだ著者の論文集である。高梨は、本土では女性の宗教的な力が時代とともに後退していったのに対して、沖縄では女性が主導する宗教文化が維持されているのはなぜか、その要因を探るために、沖縄本島北部の国頭(くにがみ)地方とその周辺離島、そして宮古諸島に何度も足を運び、「かみんちゅ」の女性たちに実際に話を聞いて調査を行った。本書は大冊であり、最初から一冊の本として書かれたものではないために、読みやすいとは言えないが、「過渡期にある沖縄の祭司制度を記録に残しておきたい」という著者の切実な思いは強く伝わってくる。
本書に収録されている論文は古琉球の女性祭司の活動、「おもろさうし」研究、折口信夫の「まれびと」論研究、ノロと王権との関わりなど、時代もテーマも多岐にわたっている。ここではその中から近代に焦点を当てた「沖縄の女性祭司の世界」と「神に追われた女たち」を取り上げることにする。

 村落祭祀の司祭者
「かみんちゅ」(神人)とは、地域によって呼称が異なるが、各地の村落で村落祭祀を行うノロやツカサなどの女性司祭者のことである。神々と交信し、神を憑依させることができると信じられている。「かみんちゅ」に求められるのは航海の安全や豊饒を祈願することである。「かみんちゅ」は世襲の終身職で、前任者の死亡後一定の系譜(主として父系血縁)を辿って後継者が求められる。継承の仕方には特定の旧家に生まれた女子が継承する場合(オバから姪へ)と特定の家筋につながる父系親族集団(門中)に所属する女子の中から選抜される場合とがある。世襲制ではあるが、系譜関係によって自動的に「かみんちゅ」が決まるわけではなく、本人に強い動機づけがなくてはならない。
「かみんちゅ」には生涯を通して共同体に責任を負うことが要請される。また、結婚が難しかったり(「かみんちゅ」の夫は早死にするという言い伝えがあって、男性が彼女たちとの結婚を敬遠する傾向がある)、移動の規制があったりして(「かみんちゅ」はシマ=村からところを変えてはならないとされている)、個人生活に大きな犠牲を払わなければならない。そのため、「かみんちゅ」になることを決断するまでには大きな葛藤を経験することになる。動機づけを促すのは共同体の期待とユタの宣告であるが、最終的には本人が神の意志を感じて決断する。
一例として、T島の「かみんちゅ」となったAさん(大正二年生まれ)の場合、父親がT島のN門中の宗家であるN家の長男だった。N家の長男の長女は代々「かみんちゅ」を勤めてきた。Aさんの父親は与那国島にわたって漁業を営み、その地で結婚した。その後一家は台湾に移住し、Aさんは台北で鹿児島出身の人と結婚した。しかしなかなか子どもができなかったので、Aさんは台北にいるユタを訪ねてまわった。そのときユタから「拝むべき神があるのに、それを拝まないから子どもができない」と言われた。戦後与那国島に引揚げたAさんは三四歳のとき夫と死別した。その後沖縄本島に戻り、身体の調子が悪かったり夢見が悪いときには、T島へ行って拝所を拝んだ。その頃には自分が「かみんちゅ」にならなければならないと自覚するようになっていた。先代の「かみんちゅ」が亡くなると、門中の人たちから早く「かみんちゅ」になるようにと言われ、Aさんは正式の手続きを踏んで「かみんちゅ」になった。
Aさんが頼ったユタも沖縄の民俗宗教の担い手である。「かみんちゅ」が共同体のパブリックな祭祀を担当するのに対し、ユタはプライベートな宗教問題を担当するというかたちで、両者は補完し合って沖縄の民俗信仰を支えてきた。ユタは一代限りで、男性もいるが、多くは女性である。ユタは神憑りしてハンジと呼ばれる宣告を下す。その内容は病気や不幸の原因解明、運勢や吉凶の判断、夢の解き明かし、系図ただしなどである。
「かみんちゅ」やユタになる女性はときに突き動かされたように宗教的事象に惹きつけられ、さまざまな葛藤を経て神霊と人との間を媒介するノロやユタになっていく。彼女たちは幼少時から身体虚弱、原因不明の病気になるなどマイナスの素質を持っていることが多い。このような女性はかえって尊ばれ、「サー高生まれ」と言われる。彼女たちは生まれつき高度の霊的資質に恵まれ、それが実生活のうえではマイナスの特徴となって現われるのだと信じられている。Aさんも子どもの頃から体が弱く、食が細かった。小学校の高等科を終える頃ユタに診てもらったら、「あんたは人と変わったところがある。神様を拝まねばならない人だ」と言われた。「かみんちゅ」になってからはAさんは健康になり、病気一つしないという。

 本土化の影響
沖縄における祭祀組織の原型は古琉球の時代に遡る。琉球国時代に、国王の近親女性がなる聞得大君(きこえのおおきみ)を頂点とし、村落の女性司祭者を末端とする祭祀組織のヒエラルキーが誕生した。明治維新で王国が崩壊すると、聞得大君などの王府の女性司祭者は廃絶されたが、村落の女性司祭者の組織は存続した。アジア太平洋戦争下では沖縄本島は戦場となり、多くの人命が失われたが、沖縄独自の祭司制度は今日まで辛うじて持ちこたえられてきた。
しかし本土化が進むなかでこの制度は現在危機的状況にあると著者は憂慮している。行事の縮小や出費の抑制を迫る生活改善運動、復帰後に押し寄せてきた外来宗教の圧力、ユタの影響力の増大(ユタが村落祭祀に進出し、祭祀の内容を変えたり、新たに拝所を設けようとしたりして「かみんちゅ」との間に葛藤が生まれている)などの要因が重なって、伝統的な祭祀が消滅寸前に追い込まれている村もあれば、ノロが別の宗教に転じて祭祀が廃絶した村もある。戦後生まれの女性はノロになることをなかなか引き受けたがらないという問題もある。

(中略)

 民俗宗教の行方
明治政府が巫覡を払拭し、梓巫女などの口寄せを禁止するという布告を出したのは明治六年(一八七三)年であり、以後、民俗宗教ないし民間信仰は迷信や陋習として徹底的に弾圧された。にもかかわらず、神憑りや憑依、託宣などの民間信仰が廃絶してしまうことはなく現代にまで地下水脈のように存続してきたということは、人びとが拠り所とする民間信仰は法や制度の改変では規制することはできないということを示している。
アンヌ・ブッシイは、シゲノの生涯を知ったことで、「彼女のような宗教職能者たちは決して消滅間近の、日本の最果ての地だけに住む周縁的なマイノリティではない」ことを確信したと書いている。
一方で、高梨一美は、沖縄では本土化が進むことでノロは孤立化、縮小化の傾向にあると、その将来を案じている。民俗学者の谷川健一も、沖縄の神は風土や人間に内在する神で、風土と一体であり、風土の魂が神であるとさえ言い得るから、風土や人間が変化すれば、生きながらえることはできないのではないかと言っている(『沖縄−その危機と神々』)。本土化の動きは今後ますます強まるであろう。そうであれば、沖縄の祭司制度はやがて消滅する運命にあるのだろうか。
オダイとノロとでは成巫過程も違うし、役割も違うが、共同体の存在が彼女たちを支える重要な役割を担っているという点では両者には共通点がある。共同体の崩壊が言われている今日、彼女たちにもなんらかの影響が及ぶことは避けられないように思われる。しかし人間が抱える不安が完全になくなることはないし、科学がどんなに発展しても科学では解明できない事象もある。そして今日では、グローバリゼーションと新自由主義政策の下で格差は拡大しつづけているし、社会的孤立を余儀なくされる人びとは増えている。そのようなことを考えるなら、民俗宗教の命脈が尽きることはないと考えることもできる。
私はこれまでシャーマニズムや神憑りに関してはどこかで胡散臭いという思いを捨てきれず、病気直しのような奇跡に対しても半信半疑であったが、ブッシイは「憑依やシャーマニズム、神憑り、託宣といった事象はグローバル化とともに、消滅するどころか、かえってそれによって生じる社会的、政治的分化によっていっそうの活気を帯び、また、各国の現代社会に適応する必要性から新たな道を探っているように思われる」と、国際的な広がりのなかでこれらの事象を捉える必要があると示唆している。

 最後に女性と宗教の関係についてであるが、高梨やブッシイの著作から私たちは女性が宗教職能者として重要な働きをしていることを知った。過去にも神憑りした女性として天理教の教祖中山みきや大本教の教祖出口なおがよく知られている。このような事例から女性には、男性に比して、強い霊力が付与されていると思いがちである。しかし女性と霊力を結びつける見方には疑問も出されている。私は、民間信仰で女性の働きが目立つのは、制度化された宗教においては男性支配が確立されていて、女性の活動する場がほとんどなく、結果的に女性の宗教職能者たちは民間信仰に向かわざるを得ないということが一因だと思う。沖縄でノロ制度が保持されたのも、沖縄では仏教の影響が希薄であったことが一つの要因である(高梨)。いずれにしろ、日本の宗教について考えるのであれば、キリスト教や仏教のような普遍宗教に注目するだけでなく、民俗宗教や民間信仰が果たしている役割の大きさにも気づく必要があるだろう。


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