社寺史料研究会会報

社寺史料研究会  
代表:西垣 晴次

第13号(2005.1.14)
【 会員の近況と史料についての情報 】
・ 2004年度大会『近世の社寺と祭礼』の概要と展望
 祭の研究はこれまで、民俗学の独占領域とみられるか、あるいは社会史のごく限られた分野のテーマとして採り上げられてきたにすぎない。歴史学の大方の動向では、宮座研究にしろ頭役祭祀研究にしろ、あるいは祇園御霊会等に関する多くの論考にしろ、社会史研究のサブテーマとしての地位しか与えられてこなかった嫌いがある。言葉足らずによる誤解を怖れずに陳べるとすれば、祭という社会的な営み自らが標榜している「非歴史性」、すなわち祭は悠久の昔から大きく変わることなく続いてきたものであり、歴史に左右されにくいもの、という祭の伝承主体である社会そのものの主張を、無批判に歴史学、民俗学が鵜のみにしてきてしまったのが原因であるとするのは言い過ぎだろうか。祇園御霊会など世情に敏感に反応して消長を繰り返すような派手なフェスティバルは例外として、小さな都市的場や村落で行われてきた祭が政治や経済にそれほど左右されて伝統を改変する、とわれわれは考えてこなかったのではなかったか。もちろんひとつひとつの祭の研究、芸能や祭祀組織の研究からは、時代ごとに祭の様相が様変わりしてきた様子が伝えられているけれども、一般的にはその真の姿は 伝わってきていない。わずかな事例でしかないけれど多少とも祭研究をこころざしてきた者として、祭は何時の時代にも大きく変化し、むしろ変化のエネルギーを失った祭には継続するエネルギーさえも残っていない、というのは私の感想なのであるが。
 今年度の社寺史料研究会は「近世の社寺と祭礼」を大会テーマとして開催された。社寺史料研究会としての意図は、祭の記録は、多くの社寺史料の中でも特殊な位置に置かれており、これまで見逃されてきた史料群でもあるから、学会・識者に注意を喚起したい、というものである。事実、各地の自治体史編纂事業のなかで祭関係史料の報告、翻刻は決して多いとは言えない。その理由はいろいろ考えられるけれども、ひとつには祭関係史 料の残存の仕方に原因があるだろう。祭に関わるのは神社であるとは限らない。大方の神社が文書記録類を保持している場合は少なく、むしろ地域に密着した寺院(神社の別当として機能していた)にそれに関連する史料が残存し易いことはよく知られている。それ以上に、祭の主体が村役人や町組の自治組織にあった関係上、地方(じかた)文書の中に祭関係史料が紛れ込んでいることが多いが、その点がまだ充分強調されるに到っていない。つまり地方文書として残存してしまっているために、地方にしか関心のない研究者にとっては祭関係史料および社寺関係史料は「雑」のうちに含まれてしまうことが多いのである。このことは社寺史料総体についても言えることだろう。いまひとつの理由は、明治期の神仏分離政策が多くの祭史料、社寺関係史料の散逸を促進したことだが、ここではふれない。
 さて、今回の大会テーマ決定のきっかけとなった『嘉永四年神田明神祭礼御用留』も、地方の祭史料が散逸しながらも奇跡的に残存した例である。この御用留を記録したのは江戸湯島町名主の山本六右衛門で、六右衛門は嘉永2年山王祭、同4、6年神田祭の祭礼取扱掛名主であった。この史料はその経緯は不明ながら、現在栃木県鹿沼市の個人所有となっていたのである。詳細は報告者の皆川義孝氏の本報告によるとして、天下祭として名高い江戸の神田明神祭礼に関わる町方の記録であり、類例は他に知られていない。これまで詳細の知れなかった天下祭運営の実態をほぼ一年間にわたり、町方の立場で記録したものとして貴重である。「旧幕引継文書」所収の「神田祭礼一件」等天下祭関係町奉行所関係文書なども平行史料として存在し、また町名主でもあった斎藤月岑の日記、「藤岡屋日記」などと相互補完的に使用することで、多くの成果が期待できるものである。 
 同じく大会で福原敏男氏が報告された『神田明神御祭礼御用御雇祭絵巻全六巻』(文政9年、国立国会図書館蔵)も、一部の研究者以外には知られていな い絵画史料のひとつである。大会ではその絵巻に描かれている氏子各町の山車番付と附祭の有様が明らかになった。同氏は他にも、祭礼番付が多数手付かずの祭礼史料として放置されていることに触れ、祭礼研究の可能性を示した。
 これらふたつの報告は、新資料・未発掘史料を通して、近年盛んになりつつある都市の祭礼研究に一石を投じるものとして、今後大きく発展することが期待されよう。なお現時点では、社寺史料研究会の兄弟研究会として「都市と祭礼研究会」が結成され、史料翻刻と関連研究報告を行なっていることを付け加えておきたい。  
大会では神田明神に関する前記2報告に前後し、高橋秀英氏『称名寺の寺僧日記にみる祭礼』、浅草法善院住職塩入亮乗氏『浅草寺の年中行事』、重田正夫氏『川越氷川祭礼に関する文献史料調査について』、菊池誠一氏『縁起に見る赤城神社の祭礼』など、関東各地の社寺祭史料についてのコメントが行われた。
 詳細はこれも発行予定の会誌7号に譲るが、祭史料の発見が都市研究、地域史研究の進展とともに徐々に拡がりを見せはじめていることを感じさせる内容であった。
 それにしても急速に史料保存が難しくなりつつある現在、祭研究といい社寺史料の調査保存といい、われわれ研究者にとっては急務の課題となっていることを実感させる
大会であったと言えるだろう。 (水谷 類)
《事務局だより》 
※大変、遅くなりましたが、『会報』13号お送り致します。今回は、事務局長の水谷類氏に昨年11月30日(土)に神奈川県立金沢文庫で開催されました大会・総会について、総括にかえた原稿を掲載させて頂きました。今回の大会・総会には、例年になく多くの方々の参会を頂きました。会員以外の方々の参会が目立ちました。
 研究会創立5年がたって以来の盛況であったように思います。こうした成果を得ること可能にして頂きました高橋秀栄・鈴木良明の両氏を初めとする金沢文庫の方々のご協力とご配慮に改めて御礼を申し上げます。本会の存在と活動内容が、内外に周知されてきた証であると思います。会員名簿を拝見致しましても、全国的に会員の裾野が広がってきたように見受けられます。こうした事は、本会の日常活動だけでなく、本会報のような社寺史料に関する研究状況や研究活動の紹介、さらには会誌のような研究成果の公表という本会の活動に対する関心の増大があったればと思います。それだけに、再三、申し上げていますように今回のような会報の発行の遅延は、あってはならない事だと銘記すべき事と思います。ここから、遅延につきましては、重々にお詫び申し上げます。その意味でも、先日もお願いを致しましたように、会報・会誌への原稿の投稿を積極的にお願い致します。会誌は年1回の発行ですが、本会報は年2回が原則となっております。メール(編集担当:seisan@sakura.cc.tsukuba.ac.jp、または事務局宛:tagui@f6.dion.ne.jp)で結構ですので、 何時でも原稿をお寄せ頂きたく存じます。原稿用紙(400字詰め)2〜3枚程度でお願い致します。ちなみに会報のい既刊分は、岩田書院のホームページにも掲載させて頂いております。是非ともご活用下さい。
 なお、現在、会誌『社寺史料研究』の第7号の原稿募集中です。こちらも、よろしくご協力の程お願い致します。またご意見・ご要望などございましたら、お寄せ頂きたく存じます。また、会報は、近年、E-メールでお送り致していますので、事務局へ近況報告とアドレスのご案内をかねて、E-メールをお送り 頂ければ幸いです。(編集子)

※今年度の大会・総会にむけて、活動の方針と内容について、事務局を中心にただいま計画の立案中です。昨年度と同様に、事前の月例会なり研究会を数回開催して、今年度の大会・総会へと"コマ"を進めたいと考えております。
近々、事務局で原 案を検討する予定でありますが、会員の方々のご意見やご要望、また、この際に是 非とも"当地"で大会・総会を開催してほしいとのご提案がありましたら、ご連絡頂ければ幸いです。(事務局)

第12号(2004.7)
【 会員の近況と史料についての情報 】
東大寺図書館案内
 東大寺図書館は、南大門の東側、築地塀に囲われた旧東南院の一角にあります。明治三十六年(一九〇三)に創立された当館は、昨年百年の節目を迎えました。当館では、その設立の当初から仏教関係の図書・古書・古文書・考古資料などを蒐集保存し、広く一般に公開してきました。
 架蔵図書は仏教書を中心とする一般図書約六万冊ですが、特別収蔵庫に貴重書・古文書として次のような史料を収蔵しています。
貴重書 経巻・聖教・絵図・拓本類 約一万点奈良時代以降の古写経では、重文・続華厳経略経疏刊定記 巻第二他 五巻(奈良・平安時代)、などがあります。版本では、宋版をはじめ、院政期以降の各種春日版や南都古版経があり、なかでも重文・大方広仏華厳経随疏演義鈔四〇巻は、現存唯一の高麗義天版として世界的にも貴重です。聖教では、鎌倉時代の学僧、宗性の写本類(347冊・99巻)・凝然撰述の自筆章疏(146巻)が重文に指定されているのをはじめ、平安以降、近世に至るまでの大量の章疏・論義史料・講式・縁起類が残されており、室町時代以降のものは、宗派別に架蔵しています。その他、近世東大寺の日記類を初めとして、多くの記録類を架蔵しています。
 貴重書の目録は未公刊ですが、図書館備え付けのカードで検索が可能であり、必要に応じて調書の閲覧もできます。
古文書 古文書・記録類 国宝東大寺文書(9、495通)ほか多数江戸時代まで、東大寺の諸蔵(印蔵・新造屋・戒壇院ほか諸塔中)に分蔵されていた古文書は、明治以降に図書館に収蔵され、整理架蔵されてきました。その数は、未整理の文書を入れると数万点に及ぶと推測されます。現在、国宝・東大寺文書(総計9,495通)と呼ばれているのは、中世までの文書で、明治29年に巻子装にされた「成巻文書(979通)」と大正年間に京都帝国大学中村直勝により整理された「未成巻文書(7、942通)」が中心です。そのほか、東大寺本坊経庫(印蔵)に宝物として架蔵されていた「宝庫文書」や、前述の貴重書、さらには戦後図書館に寄贈された薬師院文書があり、その中の古代・中世文書も国宝・東大寺文書に編入されています。宝庫文書からは、「太政官宣旨・宣旨(延暦二十四年)一巻」等が単独で重要文化財に指定されています。その他、近世の未整理文書が文書箱にして約百二十箱あり、現在調査中です。
和装本 近世和本 約5,600冊 
 主に近世の仏書を中心に、和歌、神道書、あるいは漢籍を含み、幅広い分野の本が収蔵されています。目録は未刊行ですが、備え付けカードで書名検索は可能です。
考古資料 瓦ほか発掘・採集・修理後収蔵品
 瓦類200点余、土器類多数。明治年間から境内で採集されたり、諸堂修理・発掘時に出土したものが中心。「東大寺図書館 古瓦台帳(附・写真・拓本)」(昭和45年5月、奈良国立文化財研究所製作)で検索可能。

<利用の手掛かりとなる文献>
貴重書
 東大寺図書館編『義天版 華厳経随疏演義鈔目録』(私家版)
 東大寺図書館編『東大寺図書館蔵 宗性・凝然写本目録』(昭和34年)
 東大寺図書館編『(東大寺図書館新築記念)東大寺蔵国宝重文善本聚英』昭和43年
 木村清孝編『東大寺図書館蔵 松原文庫目録』(東大寺図書館、平成11年)
 奈良県教育委員会『奈良県所在 中国古版経調査報告書』(平成13年)
東大寺文書
 奈良国立文化財研究所編『東大寺文書目録』全6巻
 東大史料編纂所編『東京大学史料編纂所所蔵の影写本収蔵古文書検索システムの開発』「編年東大寺文書目録(寺外流出分)」
 『大日本古文書』家わけ第十八 東大寺文書
 東大寺図書館編『東大寺遺文(謄写版)』1〜6、8(7は未刊)。

<所蔵史料の利用について>
 以上の貴重史料は、原則として研究者等に限り公開しています(東大寺図書館長の許可が必要)。但し、貴重書・古文書等の原本閲覧は、制限を加えることがあります。申請資格・申請方法等は、書面にて下記までお問い合わせください。
〒630−8211 奈良市雑司町406ー1 東大寺図書館(横内裕人)
・訃報を書くということ
 訃報を書くとは思いませんでしたが、多分、本会会員の木村 衡氏については、書かざるを得ないと思いあえて投稿させて頂きました。木村 衡氏は、平成15年5月17日に38才で死去しました。
 私は、歴史学という時間について厳密さを要求されている学問に従事ながら、あまり記憶力の良くないほうですので、以下の記述に時間的な誤りや誤解が多々あることを最初にお断りしておきます。木村氏と最初に会ったのは、明治大学文学部の非常勤講師と同大学文学部2年生という関係で、1987年に明治大学和泉校舎であったと思います。
 学部の3年生になりますと講義外でも古代史関係の院生・学部生とが、主に『続日本紀』を読む研究会がありましたので、ここでも木村氏と会うことが多くなリました。学部卒業後、大学院に進学し、下出先生のもとで古代寺院史に関する研究を進めることとなりました。しかし、彼は、思いっきりが良いというか、大学院での研究生活を修士課程の修了後直ちに押し止めて、見事難関の公務員試験をパスして、相模原市役所に奉職することとなりました。当初の配属先は、税務課と聞き及んでいます。次いで教育委員会を経て相模原市立博物館に配属されました。残念ながら、私は、こうした仕事場での彼の様子は知りません。時々、会って話す機会があると、仕事場での諸々の出来事の一端を知る程度です。こうした点については、いずれ職場の方々からのご紹介があるものと思います。あまりの「潔さ」に私をはじめ、多くの人々が、その進路の選択にいろいろなことを語っていたように思います。その頃からだと思います、彼が、研究一辺倒の人々に対するある種の違和感を感じ始めたのは。私は、生来の鈍感さ故に、何も考えず、ことあるごとに彼を調査という「遊び」に引き込み、加賀・若狭さらには会津へと誘いました。道すがら何を話したかは、忘れました。どこで仕入れたか、彼は見当がつかないほどに綿密に調査地に関する資料を入手していました。お陰様で、小道すら間違えることなくスムースに調査を進捗させることができました。私は、これ幸いにと諸々の論文に成果を反映させて頂きました。それは一度成らず数回でした。行基に関する関係地の実踏は、彼なくしては語れません。
 大学院修了後の私と木村氏の関係は、職場であるとか研究会というレベルではなく、いわば全くの私的な関係といったほうが、良いかもしれません。むしろ彼は、それを望んでいたようです。ですから、社寺史料研究会への参加も、当初は、乗り気ではありませんでした。ただし、会誌の印刷の問題であれこれと相談した時に、彼の仕事上のつきあいのある印刷会社を紹介してくれました関係から係わることとなり、会誌の発行の基本的なかたちを作ってくれました。ちなみに会誌の題字は、彼の御尊父の手になると聞き及んでいます。
 それから暫くして、彼の病気との戦いが始まったようです。私と会っているときは、病気について一切語ろうとしませんでした。もぱっら博物館のことや自分が関心を持っていることだけでした。それに対して、私は、時として、「そこまで言うなら論文にしたら」というだけでした。そのうちの一つが、岩田書院から刊行した『奈良仏教の地方的展開』に掲載された「東国における仏教関連遺跡ー様相と予察ー」という意欲的な論文でした。今になってみれば、病床にまで、私は、原稿の催促をしたように思います。病状の経過について、一切知りませんでした。あたかも「奪衣婆」の如き催促であったように思います。
 論文のタイトルに「予察」とあるのは、これから始めようと言うことが、まだまだあるというメッセージであるとことは、言うまでもありません。彼の研究は僭越ながら、ようやく出穂の域に達し、もう少しで「みのり」を待つばかりであったと思います。でもひょっとしたら、「予察」というのは、私のように生き長らえている「不逞の輩」への遺言なり宿題ではないかと思います。私は、本年6月に刊行された木村氏の論文集『古代民衆寺院史への視点』を参考として、宿題を早々におえて、「境」の向こう側で再会できるのを楽しみにしています。彼の得意のポーズである、最初は、絶対に他人の眼を見ない再会となるでしょうが。彼は、多分、今頃は、「境」の向こう側で、地図ならぬ「ナビ」を見ながら自動車のハンドルを握っていることでしょう。死して一年がたちましたが、未だにご冥福をお祈りしますと言えないのが現状です。(根本誠二)
《事務局だより》
※ 会報12号をお送り致します。大変、発行が遅れましたことをお詫び致します。  
会報への原稿の投稿が少なく、発行を躊躇していたからですが、何よりも編集子の怠慢による事は、いうまでもありません。今回、特にお忙しい節にご無理を申し上げて、横内裕人氏(東大寺図書館員・東大寺史研究所主任研究員)に東大寺図書館についてご紹介頂きました。心から御礼申し上げます。ご承知のとおり南都仏教・東大寺の研究はもとより日本の荘園研究のメッカでもあります。是非ともお読み頂きたく存じます。

※本年も大会・総会を10月30日(土)に予定致しております。発表者を募っております。自薦他薦にかかわらず、積極的にご連絡ください。
 ※先日もお願いを致しましたように、会報・会誌への原稿の投稿をお願い致します。 
 会誌は年1回の発行ですが、本会報は年2回となっております。メールで結構ですので、何時でもお寄せ頂きたく存じます。原稿用紙(400字詰め)2〜3枚程度でお願い致します。なお、現在、会誌『社寺史料研究』の第7号の原稿募集中です。
何卒、よろしくご協力の程お願い致します。またご意見・ご要望などございましたら、お寄せ頂きたく存じます。
第11号(2003年4月10日)
【 会員の近況と史料についての情報 】
三ノ輪浄閑寺過去帳の保存と公開について
 三ノ輪浄閑寺 浄閑寺は東京都荒川区南千住にある明暦元年開創の浄土宗寺院で、旧地名から「三ノ輪の浄閑寺」と呼ばれる。新吉原の遊女を供養した「新吉原総霊塔」(荒川区登録有形文化財)があり、「投込み寺」の俗称で名高い寺である。浄閑寺から日本堤を浅草方面へたどると右手に新吉原の廓があり、この日本堤が新吉原の遊女らの遺骸を運ぶ弔いの道となっていた。寺伝では、安 政の大地震の新吉原での犠牲者の遺骸を一穴に葬ったので、「投込み寺」「無縁寺」と呼ばれるようになったという(1)。
 浄閑寺過去帳について 「浄閑寺過去帳」(内訳参照)は、寛保3年(1743)?大正15年(1926)に至る全10冊からなる史料で、1989年2月に荒川区指定有形文化財(古文書)となった。指定理由は、新吉原や遊女の歴史を知ることができるばかりでなく、江戸の世相をみる上で、歴史人口学的にも貴重な史料であるということにある。この理由付けは、歴史人口学における日本初の専門研究を手がけられた速水融氏の仕事(2)に触発されたものであることはいうまでもない。

>> 過去帳のなかには、檀徒のほか、新吉原の遊女やその子・水子などの名前が記されている。中でも、別冊の安政2年(1855)の「地震焼死横死帳」は、安政の大地震の際に圧死・焼死した人々の記録であり、浄閑寺に葬られた横死者220余名のうち、9割は新吉原の遊女らであったことが確認できる。

 日常の不健康な生活や流行病による病死、客との相対死した者、「客に殺害さる」と記された者など、薄幸の新吉原の遊女達の姿を垣間見ることができることが注目されてきたが(3)、摘発され新吉原に預けられた私娼「売女」(例えば、第一号過去帳記載の明和4年3月没の「甲州屋預り俗名サノ」は「法誉性念売女」という謂われない差別的な戒名が付けられている)、遊女屋の主人・家族・遊女屋の経営を支えていた男性(例えば、妓夫と思われる第三号過去帳記載の文化10年12月の「照雲信士 廿九日 吉原升見屋久兵衛家来」)、八百屋・豆腐屋等遊女屋出入りの商いをしていたものなども含まれることに注目すべきである(4)。さらに詳細な分析を行なうことにより、浄閑寺などの投込みという葬送を担ってきた寺院の経営の実態や、近年研究が進んできている江戸の社会構造を検証する上で重要な史料となりうるであろう。

内 訳

1│ 第一号 寛保3年(1734)?安永八年(1779)
2│ 第二号 安永9年(1780)?享和元年(1801)
3│ 第三号 享和2年(1802)?文政7年(1824)
4│ 第四号 文政8年(1825)?嘉永6年(1853)
5│ 第五号 安政元年(1854)?元治元年(1864)
6│ 第六号 慶応元年(1865)?明治8年(1875)
7│ 第七号 明治9年(1876)?明治20年(1887)
8│ 第八号 明治21年(1888)?明治27年(1984)
9│ 第九号 明治28年(1895)?大正15年(1926)
10│号外一号 地震焼死横死帳 安政2年(1855)

 過去帳の保存と公開 今回紹介した浄閑寺過去帳は、郷土史研究者グループ荒川史談会の会誌や『新修荒川区史』下(1955荒川区役所)、『三の輪町史』(1969 同編さん会)などにその存在は紹介され、御住職のご理解のもと研究者に限らず関心を寄せる人に公開されてきた。しかし、史料としての本格的な調査・研究の対象となるには、1986年度の荒川区の文化財登録、1988年度の同文化財指定、『荒川区史』(1990荒川区)に収録された浄閑寺過去帳の戒名分析(執筆:片倉比佐子)を待たねばならなかった。
 1989年8月には東京大学史料編纂所によるマイクロフィルム撮影が行なわれた(5)。同編纂所の江戸 時代の過去帳調査は異例であるが、浄閑寺過去帳が1988年度の荒川区有形文化財に指定されたことが契機となって実施された。当時、同編纂所助教授で荒川区文化財保護審議会委員をつとめていた千々和到氏(現國学院大学教授)がこの調査・撮影のメンバーで、氏の尽力により実現した調査・撮影であったといえる。しかし、御住職のご協力、行政の仲介(本来行政側の支出で行われるべき調査であろうとの批判もあろうが財政上困難で取り組めなかった)、同編纂所の積極的な対応のうちどれを欠いても実現しなかったであろう。
 さて、寺院の過去帳の調査・研究といえば、松戸市の本土寺過去帳や高野山の過去帳など古代・中世の過去帳がまず念頭に浮かぶのではあるまいか(6)。これらは、寺院と信徒の結縁や供養の記録としての過去帳であり、寺壇関係が確立した江戸時代の過去帳とは性格を異にしている。これまで、後者の調査・研究が進まなかった事由として、人権的配慮(檀家それぞれの人権に関わることが配慮されているのであって、被差別問題に限られたことではない)の求められる史料であり、それゆえ所蔵者も積極的には公開せず、また研究者も関心の対象とならなかったためか積極的に公開を求めてこなかったことがあげられよう。しかし、近年、近世以降の寺院の過去帳を史料として調査・研究することを試みる仕事が少ないながら目に止まるようになってきた(7)。過去帳の多岐にわたる研究は、史料の公開という大前提の上に成り立つものであるから、各研究者は個人として、または所属する機関として所蔵者との良好な関係を築くために相当な努力をされたであろうことは、想像に難くない。過去帳の調査・研究にあたる個人・機関が、調査・研究の目的を明らかにし所有者との信頼を得た上でこれを利用し還元するという、至極当たり前の行為を怠ってはならないのだ。
 先の東大史料編纂所の調査後、浄閑寺は紙焼きの製本を製作し、以後の公開には原則としてこれがあてられている。浄閑寺過去帳(実物・紙焼き)の閲覧に当たって、荒川区の文化財保護を担当している区立荒川ふるさと文化館が仲介することがあるが、確立されたシステムではない。しかしながら、区の指定文化財である以上、不用意な言動によるトラブルで今後公開の窓口を狭めないためにも当館を窓口にしていただきたい。当然、社寺史料研究会のメンバーには老婆心ながらの提言であることをご容赦願いたい。

(1)尤も「投込み」という埋葬のあり方は、「日雇」層=単身の労働力販売層など都市の下層社会に構造的に滞留する人々に施されたもので(都市紀要37『江戸の葬送墓制』(執筆西木浩一 1999 東京都公文書館)、安政の大地震の言説は日常の「投込み」を象徴的に語ったものであろう。
(2)速水 融『近世農村の歴史人口学的研究』(1974東洋経済新報社)、同『江戸の農民生活史宗門改帳にみる濃尾の一農村』(1988 日本放送協会出版)など。
(3)『荒川区史』(1990 荒川区)、『あらかわの文化財』(三)(1996 荒川区教育委員会)。
(4)拙稿「浄閑寺と新吉原」『荒川ふるさと文化館常設展図録』(2000 荒川区立荒川ふるさと文化館)。
(5)『東京大学史料編纂所報』25(1990 同編纂所)。筆者は荒川区教育委員会職員としてこの調査に同行した。なお、撮影は、現代の檀家につながる可能性のあることを配慮して第七?九号については行なわれなかった。
(6)本土寺過去帳の研究としては、加増啓二「東京低地の村と信仰」(『東京低地の中世を考える』1995 名著出版)、中山文人「本土寺過去帳をめぐる諸問題」(『地方史・研究と方法の最前線』1997雄山閣出版)等があるが、ここでは史料論的な論考を試みている中山論文を参照されたい。高野山の過去帳については、有元修一「史料紹介高野山清浄心院蔵武蔵国供養帳について」上・中・下(『埼玉地方史研究』第46・47・48号 2001?2002年)など。有元氏の史料紹介では全文を翻刻している。
(7)たとえば、遠藤廣昭「黄檗派江戸八ケ庵の古跡並御免とその機能」(『江東区文化財研究紀要』1号 1990 江東区教育委員会)、今井規雄「史料紹介 草加の寺院過去帳」(『草加市史研究』第7号 1989 草加市)。
(野尻かおる)
《事務局だより》
 会報11号をお届けしました。今回は、荒川ふるさと文化館に所属されています野尻かおる氏に、ご無理を申し上げてご投稿をお願いしました。社寺史料のなかでも、貴重な地域史料となりうるものでありながら、その解析にあたっては多くの問題点を抱えている「過去帳」について、その整理と公開にたずさわった立場からの真摯なご報告を頂きました。
 ちなみに、高野山関係の「過去帳」については、一部ではありますが、『高崎市史』・『鹿沼市史』、さらには、『寒川町史』でも公開とそれにかかわる報告がなされています。地域史料であるとともに、中・近世史における高野山信仰をめぐる信仰史料としても解析が進捗しつつあります。
 世情は、慌ただしさを増しています。社寺史料研究をめぐる学問は、歴史学・民俗学・宗教学など多彩です。いわゆる文科系の学問ですが、対する「実学」の優である理科系の分野から虚学であるとの「揶揄」の声が時々聞こえてきます。しかし、学問には、「実学と虚学」の区別はないと思います。本来、学問は一個の職業として、分野を問わず存在していると思います。その見地からするならば、文科系の「学問」も、職業として十分に存在価値を持っていると思います。
また、学問の社会還元という言葉もあります。「実学と虚学」を問わず、その一環としてシンポジウムや市民講座、さらには講演会へ、積極的に参画すべきであるとの声が喧しい昨今です。そのことには、賛成ですが一個の職業に従事する者として、基本的な素養の錬磨や人間的な資質の涵養ということも大切ではないかと思います。学問という職業に従事している者は、まずは自からの世界で明らかにすべきことがらを明らかにし、それを自らのペースで少しずつ公のものとしていくことこそが大切ではないでしょうか。異業種間交流と称して、笑顔を交えてかみ合うはずのない論議を、無責任に語り棄てる行為はいかがなものでしょうか。時には、自らの見解に固執し他者の場をわきまえない、昨今の「ディベート」と称する展望なき論議は何なのでしょうか。読み・書き・考えることすらままならない者が、シンポジウムや市民講座、さらには講演会に参画し、自からの研究業績を切り売りすることが、社会還元なのでしょうか。さらには、それらをも研究業績とし、研究費の配分の根拠に加えるという軽薄短小さには、何も言えません。多くの人々の理解を得るために、わかりやすい言い方や文章を書くことは、ことに学問を職業とする人々には何にもまして基本的な素養であることは承知しているつもりです。それが十全に果たし得ないもどかしさも、わきまえているつもりです。
 世の中は、社会還元・効率重視等を「大義名分」として、すべての分野でリストラ時代です。文科系の学問も、その対象となるのでしょうか。その存在感を真摯に問うということであるならば、シンポジウム等も有意義でしょう。莫大な研究費を得るため、ないしはそれを消化するためのものであるならば如何でしょうか。本会が、昨年、大会を含めて三回わたって行った研究会は、自画自賛ですが、同業者だけでなく異業者も参画してのミニシンポジウムの繰り返しでした。しかし、違う事が一つありました。それは、莫大な研究費を得るため、ないしはそれを消化するためのものではなかったということです。今後も、このような状況は続くでしょう。そうした状況にある本会には、いつもながらの言葉の繰り返しですが、会員諸氏のご協力とご意見をお寄せ頂くことが何よりも大切なことだと思います。本会のような研究会の開催という実践の積み重ねが、本会の会員の多くが携わっている文科系の学問をリストラの対象とさせない一助となると思います。学問には、むだなものとそうでないものとの区別はないと思います。(編集子 )
第10号(2002.12)
【会員の近況と史料についての情報 】
「定本飯野家文書 中世青」CD−ROM版刊行にあたって
飯野文庫代表 飯野 光世
 飯野家文書は、鎌倉幕府政所執事伊賀光宗を祖とする飯野八幡宮宮司飯野家に伝世する鎌倉期から明治初期にいたる文書で、平成6年に1683通が国の重要文化財に指定されました。東北地方屈指の中・近世文書群と言われております。
 このうち中世文書は209通。国学者大国隆正の言を容れた飯野盛容によって、明治4年(1871)頃178通が9巻の巻子に装丁され、そのほかは未成巻のまま秘蔵されてきました。
 その内容は、関東下知状など好島荘の相論に関する文書、南北朝期の足利尊氏感状・同直義感状など武将としての伊賀氏の動向に関する文書、飯野八幡宮縁起注進状案・飯野八幡宮鳥居造立配分状など八幡宮に関する文書に大別されます。これらは、鎌倉期の好島荘の状況を明らかにし、南北朝の動乱期における伊賀氏の活躍を伝えており、あわせて奥州管領の権限をもうかがわせるものです。また室町期から戦国期における岩城氏の大名他の過程を示す資料でもあります。江戸時代には、新井白石が元禄15年(1702)に著した「藩翰譜」に引用しています。
 この「定本飯野家文書 中世篇」C D−R OM版は、飯野家の祖伊賀光宗が宝治元年(1247)に時の執権北候時頼から好島荘預所職を命ぜられてより750年目にあたる平成9年を契機として計画いたしました。指定後、存在が確認された文書を含めて合計216通を収めました。
 従来の活字のみに依存していた「史料集」にはその精確さに限界がありましたが、原本をカラー画像として表示することにより墨色や虫損などを判然とさせ、画像が持っている文字以外の情報の読み取りをも可能にしました。
 保存上の問題からながく非公開とせざるを得なかった当文書をこうした形で公開できたことは、中世史研究に益するところ実に大きく、さらに学問の深化を加速させるものであると信じています。多くの研究者が活用されることを願ってやみません。
(上記のご案内は、いわき市の小野一雄氏のご提供とご了解を得て掲載させていただきました。なお、詳細については、www.noteplan.net/i-bunkyo/にてご覧くださいとのことです。)
【事務局だより】
 会報10号をお届けしました。本号の発行が大幅に遅れましたことを、まず、お詫び申し上げます。前号でもご案内しましたように、本年は、本研究会が発足して5年となります。それを期して、7月と9月に2回の事前の研究会を行い、先月11月9日に本年度の大会・総会を大正大学で開催することができました。二回の事前研究会をふまえて当日は、福島金治・山澤 学の両氏の発表を中心に、例年にない充実した大会・総会となり、本研究会の今後の活動のあり方が真剣に討議されました。
 総会では、本会の事務の運営について、近年のIT時代に対応して、E-MAILやインターネットを活用したらどうかという要望がありました。会員の本会への要望も反映しやすくなることこの上ないのですが、その対応はいまだしです。E-MAILはすでに、会員への連絡や原稿の投稿などで活用されています。おそらく本会報の発送も行われることでしょう。インターネットについては、会員への情報の提供と広く本会の存在を知って頂くためにも、一刻も早く実現したいと思います。せめて何らかの形で、これまで刊行されてきた会誌の目次や会報の一部を掲載できればと考えています。
 なお、大会の成果については、これまでに2回行われてきた事前の研究会の成果ともに、大幅に刊行が遅れています会誌第5号に掲載される予定です。会誌への投稿を早々にしてくださった方々には、心からお詫び申し上げます。
 大会・総会の当日は、多数の若い方々がご参会頂き一段と活気に満ちたものになりました。当日、お力添えいただいた方々、ご参会頂いた方々、そして、何よりも会場の設営にご尽力頂いた坂本正仁氏をはじめとする大正大学の方々にも心から御礼を申し上げます。
 例年になく若い方々が参会して頂いた、今年度の大会・総会で醸し出された新たなエネルギーをいかに吸収して、今後につなげていくかが、実は、何よりも本会の課題であると思います。数十年前と比較すると研究会や学会の持つ意味も大幅に変わりました。ともすると学術的な総会・大会は、若い方々の「猟官運動の場」であった時代がありました。昨今では、そうした「場」の魅力もうすれ、研究活動を持続させるための緊張感の再生産の場であればとさえ言われている例もあると聞き及んでいます。せめて求心力の持続のためにと、いつまでも軽薄短小な運動論を掲げても致しかたないと思います。 本会のあり方を模索することは、現実的な課題ではありますが、難問中の難問です。しかし、本会の場合は、その解答が少しづつ出てきたように思います。卑俗な言い方ですが、社寺史料を扱うということでの世代を越えた「同業意識」を、いかにしたら醸成できるかについての端緒が垣間見えてきたように思います。この端緒を「一つの芽」として、「大木」に育て上げるためにも、初心を忘れず、とにもかくにも資料館・博物館・大学といった職場や活動の場の相違を乗り越えて、ともに「同業者」として愚直なまでに本研究会が、実践の積み上げと真摯な意見交換の「場」を設定・提供し続けるということが必要であるとの意見の一致を見出したように思います。そして、こうした「場」をステップとして、会員の一人一人が、研究成果を広く世に問う著書の上梓へとつながって行くことを願いたいと思います。
 昨今の出版界の厳しい状況は、単に出版界の問題に帰結すべきではなく、所謂、「書き手」である研究を生業とする私たちの品格のなさや、深化し得ていない成果の粗製濫造と閉塞的な世界に陥っている状況を黙視しまっている私たち自身と人文社会学系の学問世界にこそ原因を求めるべきであると思います。それは、歴史家でありながら、「時代の声」を聞き分けける「力」さへ喪失してしまったということに端的に表れていると思います。
 さりとて「いい成果」ですら、千金万金を積まなければ上梓しえない昨今です。まして粗製濫造の成果をやです。しかし、本会の会員の中には、こうした厳しい出版状況に果敢に対峙し、なおかつ周囲を巻き込むかたちで、初志貫徹して著書を上梓した「猛者」もいます。この果敢な所業は、諸手をあげて敬意を表します。こうした所業の積み重ねが、直接的にも間接的にも、次なる世代に本会の存在感を伝えていく原動力となることと確信しています。ここには、賞賛こそすれ、「小事」をもって云々する余地はまったくありません。むしろこうした「猛者」の陸続とした輩出を促すことも、本会の使命であると思います。これについては、すでに微力ながら若い方々へ、会誌や会報への原稿の投稿依頼等を通じて対応してきたつもりです。今後も、より積極的に行うべきでしょう。
 本会は、「職場の相違、序列や年齢の差は一切無用である。社寺史料をめぐる真摯な情報と意見の交換の場である」と思っています。今後もそうしたいと思います。なにごとにつけ、会員諸氏のご協力を、今後も心からお願いする次第です。いずれにせよ、これからが、本番です。来年も、何卒、宜しくお願い申し上げます。今回も、長広舌となってしまいましたことをお詫びしつつ、良い年をお迎えくださることを心から祈念させて頂きます。(編集子)
事務局
〒271-0063 松戸市北松戸1−9−5ペガサス北松戸404  水谷 類方
tel 047-364-3801 e-mail tagui@f6.dion.ne.j
第9号(2002.4)
【会員の近況と史料についての情報 】
●『上野国神社・寺院明細帳』の刊行
 各地の社寺の実態を示すものとして、「寺院・神社明細帳」が知られている。
 市町村ごとあるいは郡単位で刊行した事例はあるが、都道府県単位で刊行した事例はないようだ。幸いに群馬県庁文書に寺院・神社明細帳がすべて保存されていたので翻刻している。『上野国寺院明細帳』第一巻を平成5年12月に刊行し、全八巻で完結し、その後『上野国神社明細帳』第四巻を昨年12月に刊行した。一年に2冊弱のペースだ。
 内務省は明治12年年6月に府県に対し「神社明細帳・寺院明細帳」を調整し、同年末までに提出することを命じた。これにもとづいて全国で統一した調査項目・書式により神社・寺院明細帳が作成されることになったのである。政府に提出された原本は神祇院に備え付けて社寺台帳として使用され、文部省宗務局に引き継がれ、昭和36年に文部省史料館(現、国文学研究資料館史料館)に移管した。府県で作成したものは火災等で焼失したものもあるが、社寺台帳として府県庁文書に所蔵されている。市町村役場や郡役所文書に府県に提出した控が散見する。明細帳は町村、郡、県、国で四種類を作成したのである。
 群馬県庁文書に数種類の明細帳があり、各社寺・戸長役場が作成し県に提出した「明細帳原本」は、多くが戸長役場の罫紙を使用し、県の係官による訂正が多い。「明細帳」は群馬県の罫紙を使用し、「原本」をもとに県が作成したものである。朱字および付箋による訂正が多く、最下限は昭和20年である。「社寺台帳」として使用したことを反映している。
 県による訂正は単純な誤り以外に、由緒、神名などにわたっており明治初年の宗教政策を反映している。また、明細帳作成後の住持・神官の任命、建物の改廃、なかでも寺社の統廃合の追記は、その後の寺社を中心とした地域社会の歴史的変遷を示す史料としても貴重である。そうした訂正、追記、付箋を煩雑ではあるが、忠実に再現することに留意しているので、一年に二冊弱のゆっくりとしたペースで編集し活字化している。
 刊行は群馬県文化事業振興会(前橋市元惣社町67、tel 027−251−1212)(丑木幸男)
●事務局よりの提案
 本会の創立から5年を経過して、今後の活動について検討する必要があることは、本会報の8号ですでに、ご案内したとおりです。事務局として、関係の方々とご相談して研究会の現状報告と今後の活動をめぐり、以下のような提案を致したいと思います。
(1)研究会の現状
@事務局体制及び事務分担
事務局・連絡先・編集体制→若干のマンネリ化。  
A経理上の問題点
収入・会費納入率の低下。
支出 会誌制作費・通信発送費の負担増による原資の減少。
(2)研究会の活動の概括
研究会の使命の達成度は、一定程度評価できると思う。評価すべきは、下記の通 り。
・現状の地方史(地域史・自治体史の編纂)の問題点ないしは再考の余地が多分 にあることを提言。
・新出・未出の社寺史料の紹介の場としての機能を果した。
・既存の博物館・資料館の現状とその課題をめぐる情報交換。
・既存の地方史運動に対する補完的な機能。
(3)提案
内在的な限界と一定程度の成果を果たし得たと言うことで、世代交代なり研究会の 革新を目指すべきである。2002年度は、役員交代の時期にもあたるので、上記 の課題・問題点の解決の時期としては最適であり、以下のような提案をしたい。
@会誌第5号の刊行を記念号的な形式で充実化をはかる。掲載論文を6〜8本として、地方(域)史運動への提言・社寺史料の紹介・地域史研究の再検討・宗教史研究への提言を中心的なテーマにすえて、原稿の投稿や依頼をお願いする。(現在、投稿原稿は、1本ある。)
A執行部の大幅な世代交代なり、事務局の機能充実化と各役員の役割分担を明確化する。
B編集実務を一新する。
C世代交代をうながすために、会員各位が新会員の開拓を行う。そのためにも、大会・総会の会場の設定を工夫する。
D今年度の大会・総会を上記の目標の達成のために、2002年10月に開催し、事前の準備作業も充分に行う。
E研究会の活動を再検討するために、検討会を設置する。これについては、時間的な都合もあり、既に検討会のメンバーに役員及び関係各位にお願いしている。そして、第1会の会合を5月17日(金)に開催する予定である。 (文責・根本誠二)
 なお、上記の提案などについて、ご意見をメール(根本誠二宛も可)などで事務局に頂きたく存じます。検討会に提案したいと思います。       
【事務局だより】
 「世の中」の不安定さの故であるとは、申しませんが、何かにつけ予測不可能、ないしは、これまでの「常識」なり「申し送り」では考えられないことが、多すぎるように思います。本会の運営は、全くそうしたことと関係は無いと言えばそれまでですが。それでも近年の行政改革と称する「善なる世界」への指向性による「向かい風」は、予想以上に厳しいものがあり、一般企業や行政機関、さらには会員の多くが所属している研究機関などへの事務の合理化や予算の削減という、いわゆる「兵糧責め」が目立つ昨今です。企業でいえば、中高年のリストラの対象になりかねない世代が比較的に眼につく、我が研究会のメンバーにとって、決して対岸の火事ではありません。されど「武士は喰わねど高楊枝」を気取り、「我ら文化系の学問には銭はいらぬ。それが文科だ」と言い切れるかどうかがせめぎ合いのように思います。「上」も決して「銭」を出さないといっている訳ではないことは理解していますが、果たしてどの様な学問内容であるならば、「銭」を出すのかということになると、必ずしも見識がクロスしているようではありません。一方はで「こうで」、一方では「ああで」と言い合い、歩み寄りが見えないのが現状のようです。
 文化系では、産学共同というような、比較的に「うまい話」はありませんが、いずれはこうしたことも模索せねばならないのでしょうか。「たゆたうとした文科の流れは、何処へ行った」という「聲」は、この「舊字的な世界」がすでに過去のものとなってしまったように前代の遺失物となってしまったのでしょうか。
 平和が叫ばれている今日この頃ですが、上記の「文科」をめぐる問題は平和であるとか社会の基盤が変化したからということに関わらすべきではないと思います。そして、今日この頃の状況を「追い風」として文科の存在感を、「砂漠」の彼方に忘れ去るようなことがないようにしたいものです。そのためにも、より多くの方々に本研究会の存在なり、せめてもその存在意義をご理解頂きたいと思います。(壹編集子)
事務局
〒234-0055 横浜市港南区日野南3-9-3 西川武臣方  
tel 045-835-0506
第8号(2001.11)
【会員の近況と史料についての情報 】
●授与記類と中世末の関東真言宗 
 真言宗を宗団史の立場から、全国または関東のような地域を対象に、本格的に論じたものは少ない。櫛田良洪博士の一連の新義真言宗を対象とした成果ぐらいであろう。これとても近世が中心で、前史となる中世期の状況には余り言及されていない。空海創始の真言宗が、寺格という階層に組み込まれた全国の寺院を構成員とし、その間に意志が伝達されうるような組織体を形成したのは決して古い時代ではない。宗団の定義付けにもよろうが、筆者はその萌芽は中世後半であり(全国にわたる広汎な真言寺院の出現は南北朝以降である)、到達時は真言宗が新義と古義の両宗に分立した近世半ばと考えている。この期の寺院数は両宗で二万をはるかに越え、本末関係の整備、触頭制度(諸事務事項伝達機構)や修学制度など宗団を規定しうる基本的な条件が整ったからである。
 近世の本末関係では、田舎本寺は上方の大本寺(法流本寺)の法流末寺でありながら(実質的な支配は受けない)、一方で自己の末寺や門徒寺院に強い支配力を及ぼした。田舎本寺を核とする本末関係の形成過程は、田舎本寺寺院の創始と発展過程に一致するのが普通である。多くの田舎本寺の創始は南北朝期以降であったから、近世に確立する本末関係は明らかに中世半ば以来の運動の所産である。
 それでは田舎本寺が醍醐寺や仁和寺などを大本寺に仰ぐに至るのはいつ頃か、どの様な契機があったのかということが問題となる。その好史料に文明から天正にかけて醍醐寺や東寺憎が自院で、あるいは主に関東などの田舎で濯頂や印可を授けた際の記録がある。これまでに確認した分は@澄恵僧正授与記(三宝院文書三六〈東京大学史料編纂所〉)A授与引付澄恵(醍醐寺文書聖教目録130−41)B授与引付俊聡(同目録130−42)C授与引付俊天聡文二年六月十二日(醍醐寺文書聖教目録130−43)D亮恵僧正門弟名帳(東寺宝菩提院三密蔵)E尭雅「授与記」上・中・下(醍醐寺文書聖教目録130−44−1・2・3F源雅授与記(同目録233−82)G源雅授与記(同目録233−82)などである。この中「亮恵僧正門弟名帳」は先に全文を翻刻紹介した(『豊山学報』44号、平成13年9月)。受者数は各史料間に差異があるが、亮恵の場合、三六九人の多数に上る。 
 受者は単に上洛の序でや根来寺などでの修学を終えた序に受法したのではない。またたまたま田舎を廻国していた大本寺の僧に受法したのでもない。授者側も思いつき的に田舎の本寺を廻り開壇したわけでない。南北朝期後の関東では、直伝ではない大本寺の法流(賓勝方や西院流など)や、大本寺の法流の分流・支流(慈猛意教流・願行意教流・公珍方など)の展開が見られた。つまり田舎僧や田舎寺院が既に受け入れていた大本寺の法流を直伝すること、分流や支流の根源となる法流の相承を目指す動機が一連の授法記類の背景に存在していたのである。こうした機運が室町時代半ば以後に生じた理由も興味深いが、今後の課題である。一方、これらの受法の由緒が近世になり、田舎本寺が法流本寺としての上方の大本寺を決定する根拠になっている例が圧倒的に多いことも確認されている。授法記類は田舎と上方の交渉の実態を浮かび上がらせることで、その帰結を示唆しているといえる。
 現地に乏少な史料を本山史料で補いつつ、関東など田舎の真言宗史を考える方法はもっと積極的になさるべきであろう(余宗史研究でも同様であろうが)。真言寺院が濃密に分布する関東では、地方史一般の深化にも貢献するはずである。 (坂本 正仁)
・最近披見した近世神主家史料
 近世の村に居住した神主は寺院の住僧とともに地域社会の宗教や生活に深く関わった存在であったにちがいない。所謂「神主」・「神官」と呼ばれる宗教者の地域社会における存在を「村明細帳」などの資料によって、断片的には窺い知るものの、その実体、また地域社会との関わりや宗教的職分としての活動など、その実体としての姿や変遷の研究・報告は従前けっして多くはない。
 近世村内の仏教系寺院住僧は、本末制度によって身分的、経済的、職能的にも、また村落内の地位や活動が従前の研究によってある程度イメージ化して捉えられてきているが、それに反し神道系の神主については、史料上の制約もあってか寺院住僧の姿ほど明確ではなく、その存在すら等閑視されているかのようである。
 筆者は近時『相模湖町史』の編纂に携わり、偶然にも近世神主関係史料を披見することができ、そして村落における神主家について史料やその残り方の意味を考えつつ、近世地域社会における神主の姿に思いをはせる機会を得た。
 『新編相模国風土記稿』の津久井郡寸沢嵐村条に浅間祠に関わり「神職遠藤備前 吉田家の配下」と記載されている。その後裔の遠藤氏は旧地を離れてはいるが、寛永期ころから幕末まで約40点ほどの近世史料を所蔵していた。史料の内訳は、経営関係と叙任関係に大別できるが、経営関係は土地・貢祖のほか争論関係、叙任関係は吉田家の神職免許状・補任状などで、史料群として量的には決して多くはないものの、きわめて大切に伝蔵されてきた点に注目すれば神主家史料のありようの一タイプなのであろう。
 遠藤氏の出自は明確ではない。ただ寛永期の年貢受取手形を伝えているので、百姓としての存在であった家が、元禄頃からは村内神社の祭祀を受け持っているように神職としての成長があった。この間所有田畑の増加、すなわち村内における経済基盤の上昇があり、同時に「神主」としての官位要求を吉田家宛におこなている。また、村内および近隣神社への祭祀権拡大は別当寺との間に、神社祭礼時の散銭帰属をめぐっての争論にまで発展している。このような神主関係史料の残り方は、一事例であって直ちに一般化されるべきではないが、例えば寺院や御師家史料と対比してみると、近世村落内の職能者としての一神主の姿をよく反映しているように思える。
ところで、昨今神社や神主の史的研究がようやく盛んになってきた感がある。因みに「神社史料研究会」は橋本政宣・山本信吉編『神主と神人の社会史』(思文閣出版 平成10年)として論集を編み、法政大学多摩地域研究センター・青梅市教育委員会は武州御獄の社家金井家の膨大な文書調査を実施して目録の刊行(『武蔵御獄神社及び御師家古文書学術調査報告書〈T〉ー金井家文書目録』、2001年)を果たし、また本研究会の菊池誠一氏は「寛政期神祇管領長上吉田家江戸役所の活動の一端〜上野國勢多郡大洞赤城神社白川家奉額出入を中心として」(『社寺史料研究』三号、2000年)赤城神社社家文書を紹介・分析するなど、神社関係史料に注目した研究調査がみられるようになってきた。
 神社史料は神仏分離や国家神道化政策によって史料の滅失とともに史料公開上の諸問題も抱え研究の伸展ではやや遅れたきらいがある。しかし、地域社会に残された関係史料を丹念に集積することによって、特に前近代社会における神社や神主、宗教環境研究の前進が見込めよう。その意味からも神社史料の保存集積とともに公開が待たれる。(鈴木良明)
【事務局だより】
 本年度の大会・総会を6月16日(土)に、神奈川県立歴史博物館にて開催しました。大会では菅根幸裕氏「近代の大山信仰―講の再編成と信仰の変容―」と亀川泰照氏「小笠原の火葬寺の展開―浅草寺中遍照院末安楽院を中心にー」の2本の報告がおこなわれ、報告終了後、活発な討議がおこなわれました。菅根氏の報告は千葉県の事例を題材に明治時代になってからの大山信仰の変容を明らかにし、大正期に至る大山信仰の実態を紹介したものです。また、亀川氏の報告では、火葬寺の成立や活動の実態が明らかにされました。どちらの報告も、従来、あまり取り上げられたことのない研究で、貴重な研究蓄積となりました。
  総会では2000年度の活動報告と会計報告がおこなわれ、出席者の了承を得ました。また、今後の活動方針についても報告しました。さらに、大会・総会終了後、懇親会が開催されました。
  会員から定期的な研究会をもう少し頻繁に開催して欲しいとの要望があります。また、会誌の発行が遅れるなど、事務局や会誌編集担当へのお叱りの声もあります。今後は、こうしたことのないようにしたいと考えていますが、会員にあっても原稿締切の厳守と発表などへの積極的な参加をお願いします。
 編集子より・・・何もかも、遅延していることをまず心からお詫び申し上げます。本会報も約1カ月遅れとなってしまいました。坂本正仁・鈴木良明の両氏のご協力に心から御礼申し上げます。『会誌』4号につきましては、現在、校正作業中です。年内には、刊行可能な状態となっています。                               
事務局
〒234-0055 横浜市港南区日野南3-9-3 西川武臣方  
tel 045-835-0506
第7号(2001.4)
【会員の近況と史料についての情報 】
●・花園大学歴史博物館開館紹介
 「花園大学歴史博物館」は、平成12年(2000)に京都府より博物館相当施設の指定を受け、開館されました。京都の宗門系大学で、博物館をもつのは、はじめてのことであり、注目されています。
 この「花園大学歴史博物館」の開設で、市民の皆さんの生涯教育に寄与する機関として、広く社会への貢献ができることになり、「開かれた大学」の中核施設として、期待に応えることになりました。また、博物館学芸員課程を設置している花園大学としては、学生の学芸員資格取得のための環境づくりでもあり、専門的な実習を修めた学芸員を世に送る上での重要な施設ともなります。
 歴史博物館は、花園大学情報センター(図書館)がある「無聖館」の4階に置かれ、展示室(2室)・学芸員室・収蔵庫などからなっています。
 第1展示室には、本学文学部史学科の調査、研究活動によって蓄積された所蔵物の中から、考古学部門、民俗学部門、美術・禅文化部門、歴史学部門にかかわる資料300点余を常設展示しています。
 考古学部門は、京都市伏見区桃山町黄金塚二号墳(4世紀末)出土の埴輪、本学構内などから出土した平安京関係遺物、臨済宗の名刹である妙心寺の塔頭から発掘された出土品などを陳列しています。京都の文化を古代から近世に至るまで、考古学資料により通覧できる特色を持っています。
 民俗学部門では、民俗学の研究成果として収集された民俗資料を展示しています。服飾、食事、農耕、山樵、手工、染織、諸職、狩猟、漁労、交通運搬、交易、社会生活、年中行事、宗教など生活分野の諸相を網羅しています。消滅しつつある日本の伝統文化を見直してもらえる展示をおこなっています。
 美術・禅文化部門では、墨蹟や禅画など禅の造形を展示し、文化史、美術史、禅宗史上に意義をもつ、禅文化の一端を紹介する展示となっています。禅林文化は、日本の文化史に大きな影響をおよぼしているであり、また国際的にも注目されています。白隠慧鶴、盤珪永琢などに関する展示もされます。
 歴史学部門では、中世文書『俣賀家文書』(22点)をはじめ、近世の京都における行政文書「京都町触」、近世の宮大工の一括文書「大工関係文書」などや、明治時代の教科書資料などを展示しています。
 第2展示室は、歴史博物館が独自に企画・立案し、「観る読む悟る白隠 −傑僧とその一門− 」(第1回特別展)のように、ユニークな展覧会を開催する特別展示室となっています。
 開館期間などについては、「利用案内」の如くですが、あらかじめ電話などで館にご確認された上、ご来館ください。お待ちいたしております。

利用案内
展示室  花園大学無聖館四階
開館期間  春期(4〜7月)と秋期(9〜12月)
※その年の開館期間は、新年度開始時館長が定めます。
開館時間  午前10時〜11時30分、午後1時〜4時(土曜日は午後2時まで)
※臨時に変更有り
休館日  公開期間内の日曜・祝日
入館料  無料(特別展に限り、有料の場合があります)
交通機関  
JR嵯峨野線(山陰本線)円町駅下車、徒歩8分。
市バス「太子道」下車、徒歩5分。 
市バス・京都バス「西ノ京馬代町(花園大学前)」下車、徒歩2分。
市バス「西ノ京塚本町」下車、徒歩2分。
所在地  
〒604−8458 京都市中京区西ノ京壺ノ内町8−1 花園大学歴史博物館
tel 075−811−5181(代) fax 075−811−9664
http;//www.hanazono.ac.jp/
(竹貫 元勝)
●鎌倉時代の僧侶にみる『覚禅抄』の書写と学習
 年来、鎌倉時代の僧侶における密教図像の書写、学習ということについて、関心をいだいています。とりわけ『覚禅抄』の受容について深く知りたいと思っております。密教図像は、その当時、密教の真髄を会得する一つの手段として重要視されたようです。弘法大師空海の『御請来目録』には、「密教は深遠にして図像を借りなければ真意を会得できない」という意趣が明記されています。そこで空海の法孫たちは図像の書写、収集に努めたのです。その傾向は鎌倉時代になって一層盛んになりました。一二〇巻をこす大部な真言密教の代表的な図像集『覚禅抄』は、そうした信仰上の理由を背景として生れたものなのですが、いったいどのような僧侶が、その書写、学習に取り組んでいたのでしょうか。またそれはどのように活用されていたのでしょうか。いろいろな理由が存在したかと推察されますが、一つの理由として注目されることは、密教修法(加持祈祷)の作法次第を正しく会得するためであったことです。このことは鎌倉二階堂の永福寺に居住していた定仙の『仙芥集』という書物に、「近代ハ皆ナ修法等、覚禅抄ニ依テ之ヲ勤ムナリ。物ノ日記ニ伴僧等、一々ニ之ニ委リ、明僧ハ修法等ヲ承テハ先ズ覚禅抄ヲ見ルナリ。」と記されています。
 さて鎌倉時代に『覚禅抄』を書写した僧侶は相当な数にのぼります。筆者の手帳には、高野山、醍醐寺、法花山寺、称名寺、八幡宮などの社寺名とともに約30名を数える僧侶の名前がメモされています。実に多彩な顔ぶれです。例えば、兼寛(元久二年)、貞玄(承元三年)、寛性(建暦三年)、兼成(建保二年)、澄恵(貞応三年)、実信(仁治四年)、頼賢(寛元四年)、俊誉(文応元年)、厳雄(文永三年)、円海(文永三年)、成鑁(文永八年)、守兼(文永十年)、実融(弘安元年)、真淳(弘安三年)、禅雲(弘安四年)、頼空(弘安四年)、覚 (弘安六年)、定宣(正応四年)、寂性(正応五年)、定仙(永仁四年)、覚深(正安三年)、覚誠(正安三年)、印玄(延慶二年)、実如(正和元年)、源海(正和元年)、賢爾(正和四年)、乗一(元亨元年)、良円(元亨二年)、恵海(嘉暦四年)らです。これをもってしても、鎌倉時代には、いかに多くの僧侶が『覚禅抄』を必要とし、書写し、学習していたか、ご理解いただけるのではないでしょうか。
 ところで、京都山科の勧修寺本を原本(底本)とする『覚禅抄』は、密教修法の指南書とみなされただけに、書写がくりかえされ、それにともなって、原本と本文の違うテキストが出現することにもなりました。一字一句に異同が見出されるために、正確なテキスト作りが求められています。先年、京都国立博物館の泉武夫氏が、愛知県の万徳寺所蔵の『覚禅抄』を底本に選び、他本に見られぬ本文、図像の異同を詳細に調べ上げ、密教図像に関心をもつ研究者に提供されました。筆者もその恩恵にあずかり、多くの裨益をうけました。密教図像の世界は興味が尽きません。これからも関心を寄せていきたいと思っています。    (高橋秀栄)
●『諸国御宮在之寺院記 乾』に関する考察
 吉宗政権は享保二〇年(1735)に全国の諸大名に勧請された東照宮の所在調査と神領調査を寺社奉行に命じた。調査方法は、東叡山寛永寺の子院よりその檀家である大名が奉祀する東照宮の所在とその御宮料の調査をするというものである。明和元年(1764)十一月、寺社奉行の土岐定経・酒井忠香より老中首座松平武元に「諸国御宮并御別当寺名前書付」「御宮料有無之儀ニ付申上候書付」が提出された(1)。これは諸大名が勧請した東照宮の所在と別当寺と神領高を書き上げたものである。天台宗に関しては東叡山執当からの報告をもとに寺社奉行がまとめたもので、それ以外に増上寺・大樹寺・金地院・高野山など幕府によって修復が行われた神殿を有する寺院が11ヶ寺書き上げられている。この様に幕府はたびたび諸大名が勧請した東照宮について調査を行っているが、その様な興味から『国書総目録』を見ていく中で、東京国立博物館書蔵の『諸国御宮在之寺院記』(乾・坤)に行き着いた。
 『諸国御宮在之寺院記』(乾・坤)は、東博本の蔵書のうち和書三万余冊の「徳川本」と称されるものに属する。「徳川本」は、一橋徳川家(徳川宗敬氏)旧蔵本で、昭和十八年(1943)に帝室博物館時代に寄贈されたものである。一橋家の蔵書は、一橋学問所の旧蔵のものと、達道氏の収集したものに大別される(2)が、この史料がそのいずれかは確定できない。
 東京国立博物館所蔵の『諸国御宮在之寺院記 乾』には、二百一の御宮(東照宮)が掲載されている。 目次は 「 一 天台 御三家方国主領主建立共 二 浄土 三 真言 古義 四 真言 新義 真言律 五 禅 五山派 済家大徳寺派 済家妙心寺派 六 曹洞 七 時宗 八 日蓮 九 一向  十 本山修験 十一 当山修験 十二 社人 」 と各宗派ごとの書き上げになっている。
東照宮の内容の記述があり寺院名の記載がないものや、地名等の誤りも多く、写本である可能性が高いように思われる。
 調査方法は本末関係を通じて、各宗派別に勧請の年代・由緒・存在形態等を書き上げさせたものである。調査の主体は記載されておらず、記述の内容も各宗派により偏りがあるが、この様な大規模な東照宮所在調査を実行できたのは幕府以外に考えられない。成立の年代については、真言律の霊雲寺の記述に、「但別段ニ御造立と申訳ニ茂無之候得共、明和五寛政元御紋附改之節書出置候趣故見合ニ記置之」とあることから、寛政元年(一七八九)以降であろう。又、新義真言宗で東照宮の記述がある下総国の観行院は、朱印地三石を持ち境内は三町であったが、嘉永三年(1850)の大火で焼失しているため、それ以前の調査と考えられる。
この様に、現段階では史料の性格・成立に関しても課題が多く残されている。これらの課題に少しずつ追求する中で、幕府が、寛政期以降に東照宮の所在調査をした権力意図は何かについても考察していきたい。会員の皆様にいろいろと御教示頂ければ幸いです。
(1)『内閣文庫所蔵史籍叢刊 祠曹雑識』(汲古書院、1981年)。享保・明和期の東照宮調査については別稿を用意したい。
(2)『国立博物館ニュース』四四二号、1983年。 (中野光浩)
【事務局だより】
 「情報公開法」がいよいよ施行されました。官公庁を中心とした、行政に関わる多くの情報が日の目を見ることを期待しています。歴史学の世界では、時として大変な労力を傾けて行われ、史料整理されたものが、所蔵者や関係機関との見解の相違で多くの人々の閲覧に供しないか、関係者のみ閲覧が可能であるということが多々あります。史資料を介在した人々の関係のあり方、ともするとモラルというべきものが問われる時代にさしかかったといことでしょう。慎重のうえにも慎重を期して行われてきた史資料の調査の「むずかさし」です。しかし、調査させていただく側にも、閲覧という「公開」に踊らされて調査を行ってきたという甘えもあったことも事実でしょう。これについては、調査者は自戒すべきです。こうした史料調査と公開という問題についても、研究会で肩肘を張ることなく考えてみたいと思いますが、いかがでしょうか。
 『会報』第7号をお送りいたします。今回は、お忙しい時期にご無理を申し上げて、花園大学の竹貫元勝氏に、昨年、開館されました花園大学歴史博物館のご紹介をしていただきました。竹貫氏は、初代館長として、開館特別展示として江戸期の禅僧白隠を取り上げられたとのことです。近年、多くの大学で取り組まれている大学付設の博物館施設に関わる情報としてお読みいただければと存じます。また、これもご無理を申し上げましたが、高橋秀栄氏に神奈川県立金沢文庫のご紹介をかねて、所蔵史料の『覚禅抄』についての原稿をお寄せいただきました。今回は、博物館特集のようになりましたが、今後も『会報』にて、社寺史料を所蔵されている博物館・文書館・美術館などの特集記事をを逐次掲載したいと考えております。場合によっては、編集部からご無理な原稿依頼を差し上げるかと存じますが、何卒、ご協力の程お願いいたします。『会報』は、情報交換を中心とした会員通信の意味もありますので、葉書一枚やE-mail(seisan@sakura.cc.tsukuba.ac.jp)でも結構ですので、近況なり動向を編集担当(根本宛)にお送り下さい。 
 『社寺史料研究』第4号の刊行に向けて編集をすすめています。多少、例年に比較して作業が停滞しておりますが、遅くとも7月までにはお手元に届くようにしたいと思います。切にご容赦をお願いいたします。
 本年度の大会・総会は、6月2日(土)神奈川県立歴史博物館で開催予定です。特に若手の方々の発表を募集しておりますので、事務局までご連絡下さい。
 研究会の円滑な運営のために、情報をお寄せいただくとともに会費納入(会費2,000円、郵便振替0014-2-50247、社寺史料研究会)のご協力をお願いいたします。また、会の運営に若手の方々のご協力を切にお待ちしています。会が発足して、5年になりました。今後の体制をそろそろ検討せねばならない時期かと思います。第7号になりました『会報』で初めて出てしまいました、余白は編集子をはじめとする「執行部」の老害の現れでしょうか。次号では、こうしたことのないように若返りをはかりたいと思います。
事務局
〒234-0055 横浜市港南区日野南3-9-3 西川武臣方  
tel 045-835-0506
第6号(2000.10)
【会員の近況と史料についての情報 】
●『日本宗教史研究文献目録』第2巻の刊行をめぐって
 『日本宗教史研究文献目録』第2巻が、2000年2月に刊行されました。本目録は、1995年に刊行された第1巻をうけたものです。文献目録の刊行は、日本宗教史研究会が昭和46年に編集した『日本宗教史研究入門』(笠原一男編、評論社)にさかのぼることができます。これは、いわゆる戦後の宗教史研究を時代別・著者別に整理し、1945年から1970年に至るまでの研究状況を知ることのできるものでした。この書は、研究史として戦後の日本宗教史のみならず日本史の研究者がどのように宗教に対峙してきたが読みとれるものです。1950年代の新宗教時代の到来をうけて、1960年代から70年代のにかけての日本宗教への本質的理解が希求されている状況の成果です。いわゆる宗教(史)ブームの先駆的な刊行物といってえます。そのため日本宗教史研究だけでなく多くの分野における「入門講座」なり、「研究史シリーズ」の嚆矢的存在となったといっても過言ではありません。その後、宗教史研究を時代別・著者別に整理して概観するという作業は、1978年から刊行が開始された『日本宗教史研究年報』第1号に継承され、1986年の第7号をもって幕をとじました。『年報』は、巻末に著作論文目録を掲載するために、日本宗教史研究年報編集委員の名のもとに全国の宗教史研究者へ直接にアンケートを配布するという地道な営みから生まれたもので。しかし、諸般の事情によって、1986年の第7号をもって廃刊のやむなきにいたりました。日本宗教史研究年報編集委員は、廃刊の善後策を検討するなかで、先の『日本宗教史研究入門』の後継的なものとして、これまでの『年報』の成果を集成するような宗教史研究の文献目録の刊行を新たに企画し、1971年から87年までの研究を集成した『日本宗教史研究文献目録』第1巻としてまとめました。『日本宗教史研究入門』の後を襲うべく昭和46年以降の研究成果の集成を、『年報』の版元であった佼成出版社のご協力を得て、圭室文雄・宮田 登の二氏と大濱を中心に日本宗教史研究文献目録編集委員会を立ち上げ、岩田書院を版元として刊行の準備に取りかかり、文部省出版助成を得て刊行の進捗をはかることができました。これは、第2巻も同様です。
 その第1巻 の刊行から早くも五年経過したこともあり、第2巻では、研究文献の所載年代は、編集の都合もあり1987年から1997年までとしました。第1巻と同様に、編集委員を中心に基礎データの収集をはかり、有元修一・鈴木良明・根本誠二・古家信平の各氏をはじめとす多くの方々の助言と協力をあおいで完成にいたった次第です。データ収集の基本姿勢は、第1巻と同様ですが、単行本だけでなく雑誌掲載論文、中でも地域史に関わる雑誌掲載論文にも可能な限り眼くばりをなしたために思いの外に時間を要しました。収集には、編集委員の「視野」を以てしたために、異論があるかもしれませんが、「アナログ」的な手法を駆使したことの限界であり、来るべき「IT」時代の21世紀では通用すべくもなく、こうした目録の出版としては、最後の企画やもしれません。しかし、3人の編集委員のアナログ的な「複眼」をもって貫かれた編集方針は、これからも否定されるべきではありません。むしろデジタル的に集成された情報を如何にアナログ的な「複眼」をもって解析していくかが問われています。その意味からも、『日本宗教史研究文献目録』第2巻を単に参考文献を探すためだけではなく、1980年代か90年という宗教的・精神的状況としての「カオス」的な現代日本文化の深層をかいま見る手段として、じっくりと味読いただければ幸いです。 (大濱徹也)
【事務局だより】
 会報第6号をお送りいたします。今回も、会員の方々へ会報への投稿をお願い致しま した。いわき市の佐 藤孝徳氏から、研究活動のご様子をご報告いただきました。また、大濱徹也氏から、近時、刊行されました『日本宗教史研究文献目録』第2巻の紹介についての原稿をご寄稿いただきました。なお、本目録は、岩田書院のご厚意によって、社寺史料研究会の会員であると申し添えていただければ2割引(第1・2巻ともに。定価は、第1巻12,000円、第2巻13,800円です)にて販売していただけるとのことです。
 『社寺史料研究』第4号の刊行に向けて編集をすすすめています。2001年1月までに、原稿をお送りいただけれ幸いです。体裁は、会誌に掲載されている投稿要領をご参照下さい(可能な限りフロッピーでお送り下さい)。
 秋季の例会については、事務局のい準備不足で、別なる形で会員の情報交換の機会を 設定したいと思います。何卒、ご協力をお願いいたします。
 会の円滑な運営のために、情報をお寄せいただくとともに会費納入のご協力をお願いいたします。
事務局
〒234-0055 横浜市港南区日野南3-9-3 西川武臣方  
tel 045-835-0506
第5号(2000.4)
【会員の近況と史料についての情報 】
●鹿沼市史編さん委員会編資料集の紹介
1 『鹿沼市史 資料編 古代・中世』
 平成11年3月、『鹿沼市史』第1回配本として、『資料編 古代・中世』が刊行されました。本書は、鹿沼の古代から中世に関わる文献資料を中心に掲載してあります。歴史的にみると、鹿沼は鎌倉から室町時代にかけては日光山、戦国期には壬生氏が領有した地域であり、日光山関係資料や壬生氏の資料を網羅的に収録することにつとめました。また、輪王寺文書や壬生氏発給文書を中心に写真を多数掲載しております。
 なお構成は、第一部編年資料、第二部記録資料、そして、第三部参考資料の三部となっております。第一部では、内容の理解を助ける綱文と詳細な解説を一点ごとに付けました。第二部には、これまであまり目にふれることのなかった日光山の行事などに関わる記録資料や、戦国末期から近世初頭にかけて鹿沼関係の資料がほとんど見られなかった中で、鹿沼町の成立や周辺部についてさまざまな情報を提供してくれる高野山清浄心院の「下野国供養帳 第一・第二」を全文掲載しています。
2 『鹿沼市史叢書 五 高野山清浄心院 下野国供養帳 第三』
 本書は、『資料編 古代・中世』に収録された高野山清浄心院「下野国供養帳 第一・第二」につづく、「供養帳 第三」を全文掲載した資料集です。「供養帳 第一・第二」は戦国期を中心とするもので、今回翻刻されたのは近世初頭の記事が主体となっております。「供養帳」には、下野の多くの地名や人名が登場してきます。本書と、『資料編古代・中世』の「供養帳 第一・第二」は、戦国期から近世初頭の鹿沼や下野の歴史に新たな情報を提供してくれます。
問い合わせ先 
鹿沼市史編纂係 
〒322-0027 栃木県鹿沼市貝島町652-22 
tel 0289−65−6741
値段
 『鹿沼市史 資料編 古代・中世』 一冊3.000円+送料590円
 『鹿沼市史叢書 五』一冊1.000円+送料310円 (皆川義孝)
●埼玉県の『神社明細帳』なるもの
 『神社明細帳』は、近代の神社の戸籍とされるものである。明治12年の法令によって作成されたものを主として、都道府県の文書館・図書館などに蔵されている。また、終戦後散逸を逃れて各神社庁・関係者のもとに蔵されたものも知られる。終戦時まで書き加え・訂正・朱書きが行われ神社行政の基本的な簿冊であった。神社由緒や明治期の数度の神社合祀の史料として、自治体史の編纂等にも一次史料として使用される頻度が高い。しかし、各郡レベル以下の明細帳の所在や行政処理の過程など不明な点も多い。埼玉県の『神社明細帳』の児玉郡分としては不備もあるが、下記の数種の明細帳が知られる。
○戸長・祀職の控 (児玉町小平区有文書他・各神職家文書他)旧様式
○児玉郡役所蔵本 (神川町肥土 神職 土師秀夫氏蔵) 旧様式
○埼玉県の社寺兵事課本 (埼玉県立文書館蔵) 新様式
○内務省神社局 ―神祇院本― (史料館蔵) 新様式
 また、明治末期には市町村役場にも明細帳が備え付けられていたし、郡役所蔵本との関係が深い旧埼玉県神職会児玉郡支会蔵本(所在不明)もある。そして、前述の明細帳を基本として大正期には児玉郡神社一覧や一覧表などの便覧も作成された。これらからは、明治中期以降、神社行政の地方役所への権利委譲がおこなわれた様子がわかる。国文学資料館 史料館や東京・群馬・静岡・埼玉・秋田・奈良・京都・愛知・長野・福島の各機関所蔵の明細帳も管見の限りその変遷過程は同一ではないように思われる。
 一例を挙げると史料館の蔵本は、内務省神社局・神祇院から文部省を経たのものである。明治期の作成から大正2年の新様式への改正、そして大震災にて烏有となり再提出・清書したものが、この史料館蔵本だといわれる。しかし、各府県の罫紙使用の明細帳の混在や、その一方和歌山県文書館に内務省罫紙使用の神社明細帳の存在など不可思議な点も多い。和歌山県は明治40年代の合祀政策が強力に勧められた地域であるが、神祇院の文書疎開・終戦始末処理の昏迷、また戦中に各府県蔵本で神祇院本を補ったということでも解明できない問題があろう。解決には、各時期の数種の明細帳への書き込みの詳細な比較調査が必要であって、手がかりは市町村制施行・合祀・昇格など、個々の明細帳比較の問題になろう。
 『埼玉の神社』(埼玉県神社庁神社調査団)刊行の調査の折にも、神職家の所蔵文書中に明細帳の控に類するものが散見されたが、神社・神職には近代の文書について注意が配られていないのも事実である。地方史の視点から明細帳の宗教行政文書としての事務処理変遷の研究調査も重要な点になろう。
 最後に、昭和20年後半には都道府県の神社庁・支部・神社本庁にも同種の(新)神社明細帳が備えられたが、宗教法人法施行のためのもので総括的なものであることを付け加えたい。(金鑚俊樹)
●情報紙「あずま」の発行に
 現在、東京都東部を中心とした文化財・郷土資料館の情報紙「あずま」(隔月刊)を発行しています。ようやくこの2月で1年経ちました。都内各地にはご存じのように区ごとに資料館がありますが、まだまだ一般の人たちの認知度は低く、資料館で開催している特別展、企画展などの情報もほとんど告知されないまま終了してしまっているのが現状です。資料館には私たちの仲間たちが意義ある地道な活動を行っていますが、すこしでもそれをサポートできればと始めました。機会があったらご覧ください。板橋区、豊島区、北区、文京区、台東区、荒川区、墨田区、江東区、中央区、江戸川区の資料館、それに江戸東京博物館に置いてもらっています。
 また私の現在の研究テーマは相も変わらず雑多です。
1 中世末期から近世初頭の墓制と祖先崇拝の起こりについて
2 社寺棟札の史料論的研究について
3 中世末期から近世初頭の石塔造立意識の変化について
などを目論んでいます。
 特に、棟札の史料論的研究は、できれば今年中にも何らかの成果を挙げたいと考えております。現在、佐倉の歴民博で発刊された棟札銘文集成をもとに史料整理を行おうと思っております。文献調査も全然進んでおりません。近々、試論をまとめてみたいとは考えておりますが、私事が立て込んでおり、どこまでできるか不安です。棟札に関する史料、研究でお気付きのものがございましたらお教え下さい。(水谷 類)
文化財情報紙『あずま』編集室問い合わせ先
〒103-0014  東京都中央区日本橋蛎殻町2-7-3 有限会社東伸企画内
tel 03-3666-7541 fax 03-3666-7539
編集:水谷 類直通電話 090-8087-5357
※本誌は、無料配布。定期購読希望の方は、年間郵送料・発送手数料として1200円分の切手(80 円切手で15枚)を編集室までお送り下さいとのことです。
【事務局だより】
 会報第5号をお送りいたします。今回は、会員の方々からの近況報告を御お寄せいた だきました。水谷 類氏は、昨年11月7日(日)に鷲宮町郷土資料館で、お話しをし ていただいた方です。お忙しい節にご無理を申し上げまして、ご投稿いただきました。 本会の活動と密接に関わるものでしたので、特にお願いしました。改めてご投稿に御 礼申し上げます。
 ついでながら、今後も身近な情報・ご意見でも結構ですので、会報へのご投稿をお願いたします。
 『社寺史料研究』第3号の刊行を鋭意進捗中です。5月27日(土)の大会・総会までにお手元届くようにできると思います。大会・総会−5月27日(土)午後2時から開催予定−につきましては、例年通り神奈川県立歴史博物館を会場に予定しております。発表ご希望の方は、4月中旬までに事務局の方へご連絡下さい。 
 新年度となりましたので、会費納入にご協力下さいますよう、お願いいたします。
事務局
〒234-0055 横浜市港南区日野南3-9-3 西川武臣方  
tel 045-835-0506
第4号(1999.10)
【会員の近況と史料についての情報 】
●「ええじゃないか」への関心
 私は大学時代「おかげ参り」と「ええじゃないか」に興味を持ち、卒業論文では現在の神奈川県域における「ええじゃないか」について書きました。卒業後三年間は歴史とは全く関係のない企業で働いていました。一昨年から足柄上郡大井町の町史編さんや青梅市御岳神社の神主・御師宅の古文書調査に週一〜二日のペースで参加しています。これまで自分の関心のある事柄を調べていますが、卒論以来論文を書いていないのが現状です。卒業論文が最初で最後の論文にならないよう、これから頑張りたいと思っております。
 大学卒業から数年たった今でも、私にとっての一番の関心事は「ええじゃないか」です。現在、「ええじゃないか」時における神社・寺院・修験等の動きについて調べているところです。先日、『座間市史資料所在目録』Wをみていたところ、旧修験者宅の新田家文書の中に慶応三年十二月二五日「火生三昧諸入用控帳」(「慶応三年九月ヨリ諸国一流諸神又仏等御礼御降りに付」と補題が記されていました。)がありました。「ええじゃないか」のなかで修験の活動がうかがえる史料の一つとして、近いうちに読んでみたいと思っております。また、氷川神社神主の日記(東角井家文書『大宮市史資料編』二収録)には慶応三年十一月一日の条に勢州桑名の油屋から、氷川大明神の御札が桑名に降下したので、お祭りをしたとの手紙が届き、これより氷川神社でも祭礼を行い太々神楽を奉納した旨が記されています。同じようなことが他でもあったのかどうか、史料を探してゆきたいと思っております。(坂本孝子)
●社寺史料の周縁を読み解く
 周知のように、法界寺は日野資業が永承6年に創建し、薬師堂(明治期に奈良伝燈寺から移築)に安置されている薬師如来を本尊としてきた。創建当時は天台宗であったというが、現在は真言宗醍醐派の寺院。また、嘉禄期に再建された阿弥陀堂には定朝様式の阿弥陀如来坐像を安置している。阿弥陀堂は、檜皮葺屋根と裳階のある桁行5間、梁行5間の宝形造で、その内陣上部の四方に巡らした各小壁の内側には飛天の壁画が、外側には阿弥陀坐像が描かれている。さらに、円柱の四天柱にも連珠文などともに阿弥陀をのぞく金剛界曼陀羅の三十六尊などが描かれている。
先日、法界寺を訪れることができた。以前から是非にと考えていたので感慨もひとしおである。阿弥陀堂の堂宇の中は荘厳で、私にとってまさに理屈抜きで最高の浄土空間であった。そもそも藤原家の一族であった日野家ー浄土教信仰盛んなりし頃に創建されたーの氏寺であったのだが、私のような一庶民がこの空間に触れられるようになったのはいつこことなのか、何を契機としてそのようになったのか。近在の村々との関係や法界寺の地域に占める位置はどうだったのか。各時代の人々は法界寺の諸堂、諸仏、壁画を観て何を思い、考えたのか。どのような精神世界を生きていたのか。疑問は尽きない。
阿弥陀堂、阿弥陀如来坐像、壁画どれも一級の資料であるが、これらの資料と法界寺に残っているであろう文書や周辺地域に残る文書などの史料、伝承などを含めて総合的な検討はできないものであろうか。他の地域でも寺院そのものが資料であろうし、それらを核としての総合的な検討ができることを期待している。(須永一弘)
【事務局だより】
 このたび改めて、作成いたしました社寺史料研究会への「入会のご案内」です。ご一読下さい。多くの方々にお誘いください。

社寺史料研究への入会のご案内 
 社寺史料研究会では、随時、会員の募集を行っております。以下の活動方針にご賛同いただける方々のご参加をお待ちしております。
T 研究会の活動方針         
 社寺史料研究会は1995年に結成された。会員の職場はさまざまであるが、地方史・地域史に関心を持ち、ともに研究と調査をそれぞれの立場で進めてきた。一方、われわれは県史・市町村史などの編纂にもかかわってきた。そうしたなかで共通していだいた疑問は、地域の具体的に明らかにすべき歴史があまりにも政治や経済に重点がおかれ、地域の人びとの信仰や生活に深く関係したと考えられる社寺に残された史料が無視されることが少なくないという事実である。こうした面を欠く地域の歴史研究、地方史及び地域史で果たして地域の人びとが築き上げてきた歴史を全体として理解することが出来るのであろうか、地域の歴史の研究はこれでいいのだろうか。
 また、市町村史の編纂の過程で発見された史料が公開されず編纂に関係した研究者の手元に死蔵され、一般の利用が困難であるという例も耳にする。もっとも、われわれにも問題があった。社寺の史料と地域の歴史とがどのように関係するかについて、教団のこれまでの研究成果を地方史や地域史のレベルに即して理解する努力が足りなかったことは反省すべき点であった。省みれば研究上の弱点は多い。こうした点を乗り越えていくためにはそれぞれの社寺に所蔵されている史料の現状を多方面から明らかにするとともに、地域の史料との関連についても考察を深めていかなくてはならない。さらに、その成果をお互いに共通する情報として公開し活用する必要があるといえ、このささやかな研究会を「社寺史料研究会」とした次第である。
 以上の立場で1995年以来、これまで活用されなかった社寺関係の史料を中心に研究会を続けてきた。そこで紹介された未知の史料や研究成果も蓄積されてきた。そうした成果を公表することで、研究者が共通して活用できる情報を提供するとともに、批判もいただきたいと考えている。

U 社寺史料研究会への参加及び『社寺史料研究』への投稿についてのご案内
(1)社寺史料研究会への参加希望の方は、随時、事務局(〒234-0055 横浜市港南区日野南3-9-3西川武臣宅 )までお申し出下さい。なお、会費(年額2,000円)の振り込みは郵便振替でお願いいたします。
振込先口座番号 00140-2-50247 加入者名 社寺史料研究会
(2)『社寺史料研究』への投稿については、以下の要領でお願い致します。
@論文
400字詰原稿用紙に換算して(以下同様)、40枚から50枚(図・表・註を含む)でお願い致します。
A研究ノ−ト・史料紹介 同20枚から30枚
B社寺史料の刊行及び研究の動向・書評等5枚から10枚
C原稿は一ます一字、楷書、完全成稿でご投稿下さい。尚、ワープロ原稿は、A4判、論文※研究ノート・動向・書評・史料紹介の解説部分は、50字×19行、史料紹介の史料部分は、27字×20行でお願い致します。フロッピーでの入稿の場合は、フロッピーをテキストファイルで保存し、ご使用の機種等を明記して、打ち出し原稿とともにお送り下さい。
D註は、末尾に通し番号で、付して下さい。表については、掲載の場所を明示して下さい。
E投稿原稿の掲載にあたっては、事務局で審査をさせていただきます。
F原稿掲載分には、掲載号5冊を進呈させていただきます。

 会報第4号をお送りいたします。今回は、先日、代表・事務局長等を中心にまとめ上げ ました「入会のご案内」の全文を掲載しました。これを以て今後、広く会員を募り、会 の活動の基盤を確かなものにするとの決意の表明にかえたいと思います。多くの方々に ご覧頂きたいと思います。10月、11月は、いわゆる学会の大会のシーズンです。地 方史研究協議会の大会は大阪堺市で10月18日〜20日まで、仏教史学会は10月2 3日〜24日に行われます。本会も例会を開催する予定です。何卒、ご参会くださいま すようお願いい たします。
 『社寺史料研究』第3号の原稿を募集中です。12月までにお寄せください。執筆の要領は、上記をご参照ください。
 『社寺史料研究』第1号・第2号の販売は、「一応」、順調のようですが、尚、一層の努力をお願いしたいとの「声」もあります。 
事務局
〒234-0055 横浜市港南区日野南3-9-3 西川武臣方  
tel 045-835-0506
第3号(1999.3)
【会員の近況と史料についての情報 】
●群馬県大間々町周辺の修験道史料
 群馬県大間々町は、桐生に近いためもあって、機業などを中心とした社会経済史や経営史、あるいわ幕末の一揆などの研究のなかでしばしば言及され、関連史料の調査・研究が行なわれてきた。それらの研究において使用されてきた史料は、桐原郷倉文書や高草木家文書など数千点に及ぶような膨大な文書群、あるいは藤生家文書ような機業の経営文書などであるが、宗教関係の史料はきわめて僅かしか含まれていないものであった。
 そのため、かつて群馬県史の近世部会によって行なわれた悉皆調査においても、そうした膨大な村方文書や機業などの個別経営文書に主力が注がれ、社寺関係の史料にまで十分な配慮をするだけの余裕がなかったようである。それは県史の資料編にはその地域の特色をもっともよく示す史料を選択し、翻刻しなければならないという要請があり、大間々といえば糸市や機業という固定したイメージから、なんとしてもその方面の新資料を確保していという目標が生まれたのも無理はなかった。当然、大間々町は社会経済史の史料の宝庫というイメージができあがり、宗教史料はあまりないものといつとはなく思いこんでしまった。
 ところが、昭和62年から大間々町誌編纂事業が始まり、いままで調査が入っていなかった家々の文書が発掘されるようになると、意外と多くの宗教史料が残されていることが明らかとなってきた。とりわけ、社寺史料といえるかどうかわからないが、旧修験の家に多数の史料が残されていることが判明したのである。点数も数百点程度であり、版木や守札などを含む一見雑然とした史料が多かったが、整理を進めていくうちにそれらが本山派の里修験の活動を具体的に示す史料群であることが理解された。
 たとえば、大間々の神明宮の斉藤巌家文書は、その存在自体は県史の調査の際に知られていたのであるが、当時は調査の目標が別のところにあったため、かならずしも十分に調査されなかった。未整理の文書が多数残されていたが、その大部分はかつて大泉院を称した里修験であった頃のもので、補任状などの修験道史料であった。また、町史編纂室から刊行されてる『大泉院日記』は、雑多な日常のできごとを綴ったものであるが、里修験の生活の実態をつぶさに知ることができる希有な史料である。町史の本編においてさまざまな形で利用されている他、西垣晴次編『群馬県の歴史』でも近世社会を描く史料として活用されているが、まだまださまざまな情報を引き出すことのできる史料であることは疑いない。今後の利用が期待されるところである。
 また、浅原の小林一郎家文書はやはり本山派修験の旧満光院の史料であるが、文書以外に多数の典籍・守札・版木などが含まれていた。それらをどう整理するかが課題となったが、守札については図版を作成し、版木については新たに刷り起こして図版を組んだ。版木は、保存の観点からすれば新たに刷るなどはもってのほかの所業であろうが、幸い保存状態も良好で、無理なく刷ることができた。とはいえ、こうした方法が正しいのかどうか、ほかによりよい方法があるのかどうか、今後十分に検討していく必要がある。特に文書以外の資料については、その整理方法も定まったものがなく、試行錯誤がまだ当分続くことは間違いない。しかし、文書以外の資料から明らかになる事実には、里修験の宗教活動の内実に踏み込むようなことが多く、文書からは決して得られない情報が豊富に含まれていることが知られた以上、その整理・研究法を早急に開発していかねばならないであろう。
 最近、大間々町に、群馬県では最初の町立文書館が設立された。既存の倉庫を利用した簡素なものであるが、多数の修験道史料などを閲覧することが可能となたわけで、今後の積極的な利用が期待されるところである。(時枝 務)
●近況と史料についての情報
 昨今、何かを書こうとすると、まずは部屋の掃除から始めることになる。手元にあるはずの史料や論文がどこにあるのか分からなくなっていて、それを探しだすのに、かなりの時間がかかり、見つけだしたときには部屋中の物がひっくり返っている。日頃の整理が悪いためであるのだが、どうも物忘れが激しくなってきていることも大きな原因にようである。
 例によって、ごそごそと箱の中を探していると、一冊のファイルが出てきた。大学院生の頃に手書きで写しとったものである。筆写したのはもう30年も前のことで、250字詰めの原稿用紙で42枚ある。京都の名刹の寺史に関する書で、永禄期の成立である。「縁起」の語が表題にはいっているが、内容的にはおもしろいものである。
 しかし、この史料が使用されることは、ほとんどない。それがあまり知られていないこともあろうが、いくつかの写本があるともいわれており、校定本が出ていない現段階では、軽々に使えないということも原因しているようである。
 事実、その写本が何種類あるのかも分かっていない。筆写して所持しているものは、その内の一本であることは間違いない。かつて、筆写した頃、他の写本を探したことを覚えているが、そのときにはまったく成果がなくて、写本を見つけだすことができなかった。
 その後、一、二度この史料を拙論で紹介したけれども、その所在を知ることにはつながらなかった。爾来、その史料に関しては、とくに調査をすることもなく年数を経るに至った。
 ところが、昨年、偶然にもそれを見つけることができた。これで二本を管見したことになるけれども、推測するところでは少なくとももう一本ありそうである。
 それは編者が三人いて、各々所属する派を異にしており、管見し得た二本は三者の内の二人に関係があるところの所蔵であったからである。
 「如上件々者、為令知後人、相尋古徳老和尚吟味之上、記録焉」とあり、永禄期の頃、寺史で問題になっていた事柄について、それを明らかにしておくことを目的に記された書であることを知るが、管見した二本を概観すると、写本によくある単純な誤写の範疇を出る相違があることに気付くのである。
 ここでは、その内容にまで踏み込むだけの準備をしていないので、これ以上の深入りはしないが、二本における書名の数字の相違、記載内容の違いがどのような理由で出てきているのであろうか。その辺のことから考えてみる必要があるが、もしかすると、所属する派を異にする三筆者が一つの基本原稿(定本)を作り、三筆者それぞれが、それに自派に関係することがらを加筆して清書したのかもしれない。だとすると三本あることの可能性が一層高くなり、しかも従来いわれてきたような写本ではなく、別本、あるいは異本といった方がよい可能性もある。
 筆者、成立年次、跋文が同じで、記載内容に多少の違いがあるこの史料は、少なくとも一本は同一人の筆跡であることを知るが、30年前に筆写したものについては、写真もコピーもないので、その確認ができない。
 暇ができれば、筆写したものの原本を探し、可能性のあるもう一本をさがし出して、この史料の校訂をしたいと思っている。 (竹貫元勝)
●修験道史料について
 ここ数年、近世期修験者の宗教活動に興味をもっております。修験者の宗教活動といっても、村落における神社別当としての活動、村人にたいしておこなった呪術的行為、大峯へ入峰したのかしていないのかなど、従来から着目されてきた修験者の活動を改めて追求しようとしているのではありません。それら以外、またはそれら宗教活動の前提となる、いわば修験者自身のためにおこなう宗教活動についてです。しかし、なにも従来からの研究対象となり、また近世期修験者の特徴とされてきた活動について、もう分析すべきことはない、と考えているのではありません。いわゆる「里修験」について、現段階までの研究成果によってできあがったイメ−ジがありますが、それはまだ豊かにひろげることのできる余地があり、見過ごされてきた修験者の活動があるのではなかろうかという考えからです。私はこの活動の解明に興味を抱いています。
 従来着目されてきた活動以外、または従来着目されてきた活動の前提となる宗教活動として何を考えているかというと、まず各種作法の伝授があげられます。里修験の大きな特徴とされるのが村落における祈祷師としての役割です。修験者は村人の依頼に応じて狐を落としたり、六算除、各種の秡、護摩供養など、主に現世利益にかかわる呪術的行為をしていたわけですが、これらの作法(術法)はどのようにして一個人の修験者がおこない得たのかが、ここでは問題とし得ると考えています。
 どういうことかといいますと、旧修験者宅には本山からの補任状や村落での活動をしめす文書の他に、先に述べた術法の次第(各種祈祷をおこなう手順)を記した聖教類が残されており、それらには誰から伝授されたのかを記した奥書がある場合があるのです。もちろん代々修験道を職としている修験寺院がほとんどであり、親子関係を師弟関係として、それら聖教が個々の寺院において相伝または保有されています。しかしそれとは異なるパタ−ン、すなわち個々の修験寺院に聖教がもたらされるパタ−ンがあります。
 管見のものでは、埼玉県内の旧本山派(聖護院派)修験寺院に残されている聖教があります。この旧修験寺院に残されている聖教のうち、「足止之秘法」「六算祭秘法」「飯綱大権現法」の例について見てみると、まず「足止之秘法」は浅草伝法院から江戸霊岸島の本山派修験に伝法されており、それが入間郡の本山派修験に伝授され、最終的にこの寺院に伝授されたことが奥書に記されています。また「六算祭秘法」は奥州仙台の先達良学院が武蔵国秩父郡の本山派修験に伝授したもので、それがさらに先の入間郡の寺院、次にこの寺院に伝授されています。「飯綱大権現法」にいたっては総州関宿の本山派寺院から伝授がはじまり、この寺院に伝授されるまでに本山派寺院ばかり6院の間を通過しています。
 これらの例を細かに調べると、師弟関係、本末関係に関係なく聖教が移動していることがわかります。聖教をめぐって修験者は盛んに「収集伝授活動」ともいうべき活動をしていたことが考えられます。すべての修験者がこのような活動をしていたとは考えていませんが、村人の期待に応えるために修験者間でおこなわれた活動であることを示していると思います。
 他にも修験者間の結びつきを考えてゆくうえでの材料となり得る活動があります。本山クラスでおこなわれるのではない、地域的な修験儀礼です。例えば武蔵国では近世後期になると年に1回、三峰山で採燈護摩がおこなわれ、武蔵・上野の修験者が出掛けている。また上野国では吾妻郡の岩櫃山で主に上野国の中毛・北毛修験者が集まってやはり採燈護摩修行をしている形跡があります。
 このようにみてくると、これまでのイメ−ジ、すなわち近世期の修験者「里修験」の村での顔は、修験者としての一面に過ぎないことがわかります。村人と直接の関わりのないところで、修験者は修験者として各々の地域を舞台にいろいろと動きまわり、宗教活動をしていることが窺えると思います。
 これまでの研究対象とならなかった修験道における活動ということでいくつかの例をあげてみました。後者の修験儀礼については自治体史に収載されている史料から追うことができる場合もありますが、前者の聖教奥書については全く不可能です。これは修験道研究史を顧みれば当然のことですし、また聖教を資料集などで公開するには場合によっては種々の制約、問題が出てくると思います。近世期の修験寺院が所有した聖教類を有効に使う方法を考えなければと感じています。(久保康顕)
●「杉崎静代氏蔵文書」について
 小生は、昨今、文部省科学研究費の交付を受けて、群馬県勢多郡黒保根村大字水沼・「杉崎静代氏所蔵文書」の検討を行っております。同文書は別名「星野家文書」としても知られ、近世には名主、年寄、郡中惣代等を、近代には県会議員、衆議院議員等をそれぞれ務めていた旧家の一大文書群であります。そして、三万点にも及ぶ厖大な公私の文書の中には、政治、経済、社会、文化、宗教等、各方面にわたる極めて優秀なる史料が、多々内包されております。小生は現在かかる史料の整理・採訪に従事致しておりますが、何分、上州一国を代表する大文書の故、作業の目途がつくのは聊か先のこととなりそうであります。それでは簡単ではありますが、小生の研究の近況報告までに。なお、「杉崎静代氏蔵文書」中の優品は、『黒保根村誌』全五巻(黒保根村役場、平成9年)及び『群馬県史』資料編15(群馬県、昭和63年)等の文献に多数掲載されております。昨年、長逝されましたハル=松方=ライシャワー女史とも縁の深い同家は、近代蚕糸業史、貿易業史の上でも特筆される事業に関わった名家であります。(富澤一弘)
●『近世高尾山史の研究』刊行について
 戦後、間もない頃から、東京都多摩地域の研究をはじめて50年近くになる。テーマはいろいろで江戸幕府の代官や八王子千人同心、それに甲州道中などある。しかし、次第に興味をもち関心を深めてきたのは寺院や神社の所蔵文書である。私が勤務していた法政大学の多摩キャンパスに、地方資料室ができて地域の研究をはじめたのは昭和61年であるが、その後、教員や大学院生の諸君の共同研究によって『高尾山薬王院文書目録』や『高尾山薬王院文書』全三巻を刊行することができた。
 高尾山薬王院文書は、2,573点で、これを13項目に分類したが、そのうち全三巻に活字化したのは714点である。こうして6カ年の歳月を経て完了した、高尾山薬王院文書の内容は多岐にわたっているが、大学院のゼミナールで、この文書を基礎史料として研究発表を行い論文集としたのが本書(名著出版、1998年10月刊行)である。
 寺院文書の整理から始まり、研究論文を集録した本書の刊行まで12年が経過したが、その内容は高尾山薬王院文書の概要を記したものの他、10論文が収録されている。これを第1章「高尾山信仰の展開」、第2章「高尾山薬王院と諸寺院間の秩序」、第3章「高尾山と幕府・紀州藩」の三分野から考察している。
 高尾山薬王院有喜寺は、新義真言宗智山派の大本山である。つまり、智山派智積院末の田舎本寺であり、末寺・門徒17ヵ寺の中心となっている。上方に多い本山寺院と田舎本寺の関係は法流としては密接であるが、地域の民衆と寺院の関連性をみる場合は、田舎本寺の寺院文書が、きわめて重要であり、その末寺・門徒の寺院の史料を合わせて調べることによって、地域社会の動向を解明することができるように思われる。
 地域の庶民は信仰を中心としながら、年中行事や日常の生活を通して寺院と密接な関係をもっていたといってよい。それだけに、特に近世以降の、地域の歴史において寺院の存在は注目していかねばならないと考える。高尾山薬王院文書にみられる地元の多摩地域と江戸(町人)との関係はこうした点で貴重である。また、高尾山薬王院は新義真言宗の名刹でありながら、高尾山信仰の中心である本尊は飯縄権現であることに特色がある。つまり薬王院は寺院であると共に飯縄権現を軸とした山岳信仰に支えられた修験道の霊場として繁栄がみられたのである。しかも、高尾山信仰は、庶民の他、幕府や紀州藩からも祈祷寺として信仰の対象になっており、その存在意義は大きかったということもできる。こうしてみると高尾山史の研究は、さらに異なる視座からの考察も必要であり、今後の研究成果に待たれる分野も多い。しかし、これまでの研究をまとめて上梓したことは、それなりに刊行の意義があると思っている次第である。
 なお、最近、高尾山薬王院には近代関係の史料がかなり所蔵されていることも分かり、整理中である。整理が完了したら、別の機会にその内容を紹介したいと思っている。(村上 直)
★社寺史料研究会への参加及び会誌・会報への投稿について
 社寺史料研究会への参加は、随時、事務局までお申し出ください。研究会の活動にご賛同いただける方々の参加をお待ちしています。会誌・会報への投稿は次のようにお願いします。会誌には論文・研究ノート・史料紹介・書評を掲載します。論文は400字詰原稿用紙に換算して40枚から50枚、研究ノート・史料紹介20枚から30枚、書評は5枚から10枚でお願いします。会報には会員の近況と史料についての情報などを掲載します。こちらの方は3枚から5枚程度(フロッピー原稿、大歓迎)です。いずれの原稿も事務局で簡単な審査をさせていただきます。
【事務局だより】
 今回の会報第3号は、会員の方々のご協力によって、思いもかけぬことですが、多くの原稿をお寄せいただきました。心から御礼申し上げます。社寺史料研究会は、いよいよ正念場の第二年目にはいりました。これも一重に会員をはじめとする多くの方々の熱意とご協力の賜と存じます。そして、1999年5月22日(土)には、第二回の総会・大会が開催されます。多くの方々のご参会をお待ちしています。これに間にあうべく会誌の第2号の編集作業を進捗させております。改めて執筆者をはじめとする関係各位に御礼を申し上げます。
 なお、新年度に入りましたので、会費(2,000円、郵便振替0014−2−50247・社寺史料研究会)納入の件も、何卒、ご協力の程お願い申し上げます。
事務局
〒234-0055 横浜市港南区日野南3-9-3 西川武臣方  
tel 045-835-0506
第2号(1998.10)
【会員の近況と史料についての情報 】
●古代の地方寺院の研究の現状
 今年の4月に、6年間勤務した教育委員会の文化財保護部局から、博物館に異動しました。埋蔵文化財行政の担当者と博物館考古担当学芸員という、似て非なる業務をどのようにこなしていくか、目下手探りの状況です。
 というのは、相模原市において、「考古資料=旧石器、縄文」という意識が、行政にも市民の中にも浸透しています。一方私は、平安時代の仏教関係遺跡を中心に勉強をしており、考古資料は時代が古くなればなるほどわからなくなってゆきます。正直なところ、私のような「学芸員」が市立の博物館で学芸業務を担当するのは市民のみなさんに対する背信行為ではないのか、という罪悪感にさいなまれています。また、学芸員の業務の重要な一側面である「研究活動」について、市民の要望に添うような形で「旧石器・縄文」時代の研究を行っていくべきなのか、もう自分の得意分野に沿った形で行うべきなのか、これも判断がつきません。
 私の近況はこれくらいにして、近年の古代地方寺院研究の新たな展開について、話題を提供したいと思います。
 古代の地方寺院研究は、伽藍配置や瓦(特に瓦当文様の研究)から開始されました。しかし、高度経済成長以降の緊急発掘調査の増加の中で、瓦葺きでなく、基壇も持たない仏教施設の存在が明らかにされてきました。いわゆる村落内寺院がこれですが、当初千葉県下の発掘調査で多く認められたこともあり、研究はこの地域を中心として進められています。ところが、勤務地にほど近い宮ヶ瀬ダム建設にかかる調査において、千葉県下の例に類する遺跡が調査されました。さらにこれを契機にいくつかの村落内寺院の調査成果が報告されるに至りました。こうした最近の状況に導かれ、私も私的に、神奈川県のほか秋田、群馬、埼玉、石川の各県において、類似資料の所在調査を実施してみました。この結果気がついたことがありますので、御紹介しておきます。
 まず第一には、資料が考古学的調査の結果得られる性格のものであるため、発掘調査担当者の問題意識の差により報告される内容が大きく異なっていることがあげられます。つまり、寺院もしくは仏教遺跡として報告された例は非常に少なく、大部分が一般の集落遺跡として報告されているのです。このため、各県の埋蔵文化財センター等に実地調査を行うと、従来認知されていない遺跡が職員から情報としてもたらされることになり、結果として各地に多数の寺院遺跡の存在が明らかになるといった状況があります。
 第二に、寺院遺跡の立地条件や、建物の構造は、伴出する遺物の質に直接影響を持たないようです。これはあくまでも現状での印象ですが、従来言われているような、遺跡の立地が台地上なのか山中なのか、また、建物の規模の大小などで、保持されている信仰の内容が異なることはないような気がします。むしろ端的なのは、灯明皿を出土するがしないかという点で、これは、遺跡によって明確に分かれているようです。
 これらから言えるのは、古代の地方寺院は、想像をはるかに上回る数にのぼるであろうことです。地方寺院研究のあり方を根本から再検討する必要があります。また、前述のとおり、考古学主導で研究されてきているため、先行研究や発掘報告書の中では、史料解釈の誤りや、恣意的な援用の例が散見されます。
 こうした中で今後は、文献史料を用いてのアプローチが求められていると思います。寺院の性格や、信仰の形態など、文献史料に即しての再検討が求められています。いずれにせよこうしたいわゆる村落内寺院は、古代仏教を在地の視点で論じることのできうる希少な資料として、可能性を秘めていると言えます。 (木村 衡)
●中世寺院聖教へのイメ−ジ
 イメ−ジを大切にしたいと思う。奈良に行った時の東大寺と興福寺が隣りあわせだったこと、鎌倉の鶴岡八幡宮をみたとき鎌倉の合戦が数百のメ−トルの世界だと知ったように。
 まずは箱。金沢文庫で昭和56・7年前後のころだったかもしれない。昭和5年の開館の時の箱がくたびれて、新しい箱に切り替えることがあった。古い箱から新しい箱に入れかえる作業はかなり衝撃的だった。箱にはぎっしりと詰まっていて、箱によっては巻子本ばかり、あるいは折本ばかり、場合によっては桝形本ばかりであった。特に桝形本は、関靖・熊原政男両氏のペン書きの記された覆い紙おかれていたからである。勿論、これらが鎌倉・南北朝時代の所写の所産と知るのは、ちょっとたってからであった。
 醍醐寺には、随分たってからだった。永村 真氏らの研究会に参加させてもらい、わきからだったが、これも衝撃だった。木箱一箱にぎっしりつめこまれているではないか。しかも、一枚、一点ごとに黒板勝美氏以来の仕事と思われるのだけど、一点一点に資料のナンバ−が付箋状のもに付けられている。安心したのは、密教僧も梵字を直に読むのはしんどかったのだろう。カタカナで書いた紙があり、ちょうど手の平にのる大きさだった。自分がカラオケを歌う時、字幕の文字をおいかける世界と同じ世界がある。金沢文庫にも、梵字の真言をカタカナで書いた折紙を見かけるが、心情的には共通したものだろう。さらに、驚くべきは一つの箱に鎌倉時代のものも江戸時代のものも混ざっていることだった。江戸時代の間合紙の料紙に記された聖教と鎌倉時代のものが一つの箱にに共存していたのである。
 こんな世界と違った思い出は、仁和寺の聖教だ。守覚法親王の世界の研究に参加させていただいて閲覧したのだが、一箱全部がすべて平安末から鎌倉初のものなのだ。光沢のある楮紙にすべすべした墨の色。感激は言葉に尽くせるものではない。ただ、一方ではかなりむなしかった。守覚伝来本が金沢文庫に保管されていて、その伝本と正しい書写の関係が知りたかったのに(金沢文庫にいるとそんな気になるのだが)、そんな伝本研究をしたいというような欲は、はなから目の前で否定されたのである。ただし、仁和寺にあって金沢文庫にないもの、仁和寺になくて金沢文庫に伝わっているものがある、ということに気が付くと、頭はぐるぐるとわけがわからなくなるのである。ただ、結論めくと、金沢文庫の前段階が仁和寺にあり、醍醐寺には金沢文庫をとりまく世界の広がりがあるといことになろうか。 もう一つの衝撃は、大須真福寺文庫の本である。金沢文庫につとめて間もなくのころ、無住がいた寺を尋ねたり、大須に行った。ただ、敷居が高そうで逡巡して門前のヘビだのが売られた花種屋をたずねてたりで、悲しい部分もある。ロサンゼルスオリンピックの年(サッカ−のゴ−ルのシ−ンを喫茶店にのぞきに行ったので、特に思い出深いのだけど)、やっと、ここで資料を見た。国文学資料館の山崎 誠氏らのつてだった。資料整理の加勢ながら楽しかった。金沢文庫にのこる立川流らしき文献は漢字ばかりでよくわからないが、真福寺のものは一面の料紙を合わせると「合体」するものがあった。気のきいた人なら、すぐこれをカ−ドとしてメモしているだろうが、生来のドンカン故にカ−ドにもしなかった。ただ、この寺の開山である能信の伝歴を思うと、ここには金沢文庫の資料のつぎにあらわれる世界があるのではないかと実感した。まちがいなく、京都方面から鎌倉に伝わっていると思われる金沢文庫保管の聖教は、仁和寺から撰ばれて伝わったもの、そして、醍醐寺に伝わる資料につつまれるもの、その発展形態は一つのあらわれかたが大須真福寺などの地方寺院にあるのではないかと思う。
 このイメ−ジは、実証ではなく、ほんの一部のかいま見た資料からの感想にすぎない。確かめて、そして、その先がどこにあるのかもわからない。ただ、たのみの綱は、「見る」ことぐらいかもしれない。拙い感想である。(1998年7月27日夜、福島金治)
●行基研究の動向
 今年は、行基没後1250年にあたるためか、各地で以下のような関連の事業が開催さ れる。
@シンポジウム『行基さんを考える』 10月3日(土)午後1時〜4時30分
会場 堺商工会議所ホール
問合先 堺市熊野町東1−1−9 原田事務所内
tel 0722−45−6201
A第2回摂河泉古代寺院フォーラム『行基の生涯を考古学する』
会場 堺市博物館 視聴覚室 10月4日(日)午前阿10時〜午後4時
問合先 奈良大学 坪之内研究室
tel 0742−20−3225
尚、これと相前後して堺市埋蔵文化センターで企画展『土塔出土の人名瓦』(7月6日〜9月30日)及び堺市博物館で特別展『行基ー生涯・事跡と菩薩信仰』(10月3日〜11月8日)が開催される。特別展・フォーラムは、堺市市内に所在している行基造立と伝える土塔の発掘によって、大量の文字瓦が出土するという成果をうけての企画であると聞き及んでいる。その他、奈良東大寺では行基1250年忌が11月7日(土)に行われる予定である。 (根本誠二)
★社寺史料研究例会の開催について
1998年度第2回目の社寺史料研究会の例会を、以下のように開催します。   
開催日  1998年10月11日(日)
時間  午後2時から午後5時まで
場所  伊勢崎市三郷公民館 伊勢崎市波志江町1029
tel 0270−23−1952
報告者  菊池誠一氏
報告テーマ  近世社家の執奏活動について−群馬県勢多郡宮城村「赤城神社文書」を中心に−
【事務局だより】
 社寺史料研究会も無事に第1回総会を終え、選出された役員を中心に活動が始まりました。十数人で発足した会員も順次増加しています。今回、会員名簿を同封しましたので、会員相互の親睦にご活用下さい。また、10月11日(日)には群馬県伊勢崎市三郷公民館で今年度2回目の研究会を開催します。報告者は菊池誠一氏で群馬県勢多郡宮城村の「赤城神社文書」についての報告があります。この報告については会誌第2号に収録の予定で現在編集作業を進めています。なお、研究会は、今後も随時開催する予定です。
★社寺史料研究会への参加及び会誌・会報への投稿について
 社寺史料研究会への参加は、随時、事務局までお申し出ください。研究会の活動にご賛同いただける方々の参加をお待ちしています。会誌・会報への投稿は次のようにお願いします。会誌には論文・研究ノート・史料紹介・書評を掲載します。論文は400字詰原稿用紙に換算して40枚から50枚、研究ノート・史料紹介20枚から30枚、書評は5枚から10枚でお願いします。会報には会員の近況と史料についての情報などを掲載します。こちらの方は3枚から5枚程度(フロッピー原稿可)です。いずれの原稿も事務局で簡単な審査をさせていただきます。
事務局
〒234-0055 横浜市港南区日野南3-9-3 西川武臣方  
tel 045-835-0506
第1号(1998.5)
【研究会の発足にあたって(代表 西垣晴次)】
 社寺史料研究会は1995年に結成された。会員の職場はさまざまであるが、地方史・地域史に関心を持ち、ともに研究と調査をそれぞれの立場で進めてきた。一方、われわれは県史・市町村史などの編纂にもかかわってきた。そうしたなかで共通していだいた疑問は、地域の具体的に明らかにすべき歴史があまりにも政治や経済に重点がおかれ、地域の人びとの信仰や生活に深く関係したと考えられる社寺に残された史料が無視されることが少なくないという事実である。こうした面を欠く地域の歴史研究、地方史及び地域史で果たして地域の人びとが築き上げてきた歴史を全体として理解することが出来るのであろうか、地域の歴史の研究はこれでいいのだろうか。
 また、市町村史の編纂の過程で発見された史料が公開されず編纂に関係した研究者の手元に死蔵され、一般の利用が困難であるという例も耳にする。もっとも、われわれにも問題があった。社寺の史料と地域の歴史とがどのように関係するかについて、教団のこれまでの研究成果を地方史や地域史のレベルに即して理解する努力が足りなかったことは反省すべき点であった。省みれば研究上の弱点は多い。こうした点を乗り越えていくためにはそれぞれの社寺に所蔵されている史料の現状を多方面から明らかにするとともに、地域の史料との関連についても考察を深めていかなくてはならない。さらに、その成果をお互いに共通する情報として公開し活用する必要があるといえよう。こうしたことから、このささやかな研究会を「社寺史料研究会」とした。
 こうした立場で1995年以来、これまで活用されなかった社寺関係の史料を中心に研究会を続けてきた。そこで紹介された未知の史料や研究成果も蓄積されてきた。そうした成果を公表することで、研究者が共通して活用できる情報を提供するとともに、批判もいただきたいと考えている。
【会員の近況と史料についての情報 】
●宝生寺近世文書の翻刻(『横浜市文化財調査報告書』第25の1、宝生寺近世文書)
 横浜市南区の宝生寺が所蔵する近世文書が翻刻された。同寺は古義真言宗高野山金剛峰寺の末寺で、承安元年(1171)に草創された。また、近世には幕府から伊豆・相模・武蔵3カ国の古義真言宗法談所三十四院の一と定められた寺院でもある。同寺所蔵の文書の内中世文書は既に広く知られており、なかでも嘉吉2年(1442)に作成された文書は横浜の地名が記された最も古い古文書として著名である。翻刻された文書は寺院明細帳や本末帳で利用価値の高いものと思われる。問い合わせ先同資料集を刊行した横浜市中区港町1−1横浜市教育委員会文化財課まで。 (西川武臣)
●仁和寺ほか寺院所蔵史料展覧会の開催(仁和寺・清涼寺・観智院)
 1月15日から3月18日にかけて京都の各寺院で「非公開文化財」の特別公開が行なわれた。公開は各寺院で実施され、仁和寺・清涼寺・観智院の所蔵資料を見ることができた。仁和寺においては同寺の霊宝館で展示が開催され、同寺が所蔵する平安時代から安土桃山時代までの所蔵品が出品された。主な展示品としては、高僧像(平安後期、行基や鑑真の肖像画、重文)・日本図(鎌倉時代、日本最古といわれる日本地図、重文)・医心方(平安時代、医学書、国宝)などがある。仁和寺は平安前期に開創された門前寺院であり所蔵資料には国宝・重文などが多い。また、清涼寺では平安仏である阿弥陀三尊座像(国宝)や釈迦十大弟子像(重文)などが出品された。さらに、観智院では重文指定の五大虚空菩薩像などの仏像を拝観した。同時期に妙法院・大仙院・青蓮院などの各寺院でも特別展が開催されており、日頃見れない寺院の仏像・諸資料に触れる良い機会であった。(清水つばき)
●「行基伝承」に関する報告書の作成
 私と社寺史料研究会との関係は、前身の神奈川県立歴史博物館で開催された勉強会からであるが、こうした会での情報交換をもとに、1996年3月に「行基伝承」(以下「伝承」とする)に関わる些細な報告書『奈良仏教者に関する伝承研究』(平成7年度〜平成8年度科学研究費補助金(基盤研究C)研究成果報告書、平成9年3月)をまとめることができた。「伝承」を集大成するというような大きな望みは毛頭なし得ないと思っているが、今後も会の方々の協力と助力を得て、徐々に各地の社寺史料の中から収集を行ないたい。例えば、収集すべき史料として報告書にも掲載した石川県江沼郡山中町医王寺所蔵の「山中温泉縁起絵巻」のような行基に関わる絵伝を徐々に収集したいと考えている。加えて行基の彫像や供養塔の所在については留意してきたが、近年の高僧伝の研究に見るように行基の「絵像」に関する資料の収集も考慮に入れるべきであると反省している。行基の絵像は山口県防府市の周防国分寺等多くの伝存例があるが、事前の研究の不足から注視することなく実踏調査を漫然と行なってきたように思う。いわゆる絵画史料とされてきたものであろうが、美術史を中心とした高僧伝に関わる研究成果を援用することによって歴史研究の分野からも留意すべき「史料」群となることは言うまでもない。いずれにせよ、こうした調査をはじめとして行基伝承を研究対象とすることが、「本業」の奈良仏教史とどのように関連づけられるのか、奈良仏教者に関する伝承は行基だけで語りうるのか、課題は山積みしている。いつの日にかこれらに決着をつけたいと願っている。研究会のメンバーをはじめとする多くの方々の「結縁」を切に乞い願う次第である。(根本誠二)
『社寺史料研究』創刊号の刊行について
 社寺史料研究会の機関誌である『社寺史料研究』の創刊号が1998年1月に刊行されました。創刊号は根本誠二・鈴木良明・西川武臣が編集にあたり、横浜開港資料館が所蔵する「浄土宗本末寺院明細帳」を活字化し簡単な解題を付しました。「寺院明細帳」は明治政府による神仏分離政策が展開される中で、政府が全国の寺院について調査し、その際に作成されたものですが、創刊号に収録した「寺院明細帳」は神奈川県管轄下にあった浄土宗寺院に関するものです。神奈川県においては明治5年に調査が実施され、調査結果が教部省と神奈川県に報告されました。また、各寺院にも調査結果を記した台帳が残されることがありましたが、今回紹介したものは横浜市港北区の小机町の泉谷寺に残った「寺院明細帳」の写本です。史料の詳しい分析については今後の課題にせざるを得ませんが、こうした史料が紹介されたことは少なく、貴重な史料を活字化できたと思っています。なお、創刊号の構成は次の通りです。発刊の辞、浄土宗本末寺院明細帳、浄土宗本末寺院明細帳について。総頁82頁、価格1500円プラス税。購入希望者は発売元である岩田書院(東京都世田谷区南烏山4−25−6−103、03-3326-3757)まで。なお、2号は1999年1月に刊行の予定です。
社寺史料研究会総会の開催について
1998年度の社寺史料研究会総会が、以下のように開催されました。
開催日  1998年4月25日(土)
時間  午後3時から午後6時まで
場所  神奈川県立歴史博物館、会議室(横浜市中区南仲通 tel 045-201-0926)
報告者  西川武臣氏
報告テーマ  史料としての江戸近世名所図会
討議内容   今後の活動方針・会則・投稿要領等について
尚、今回の総会にて各役員が下記の通り選出されました。
代表 西垣晴次
事務局長 西川武臣
会計 清水つばき
監事 有元修一 鈴木良明
事務局
〒234-0055 横浜市港南区日野南3-9-3 西川武臣宅  
tel 045-835-0506
社寺史料研究会への参加及び『社寺史料研究』への投稿についてのご案内
(1)社寺史料研究会への参加は、随時、事務局までお申し出下さい。会の活動にご賛同頂ける方々の参加をお待ちしています。
(2)『社寺史料研究』への投稿については、以下の要領でお願い致します。
@論文
400字詰原稿用紙に換算して、40枚から50枚(図・表・註を含む)でお願い致します。
A研究ノ−ト・史料紹介 同20枚から30枚
B動向・書評等  5枚から10枚
C原稿は一ます一字、楷書、完全成稿でご投稿下さい。尚、ワープロ原稿は、A4判、論文・研究ノート・動向・書評・史料紹介の解説部分は、50字×19行、史料紹介の史料部分は、27字×20行でお願い致します。フロッピーでの入稿の場合は、機種等を明記して下さい。
D註は、末尾に通し番号で、付して下さい。表については、掲載の場所を明示して下さい。
E投稿原稿の掲載にあたっては、事務局で審査をさせていただきます。 
社寺史料研究会会則(平成10年4月25日制定)

一、本会は社寺史料研究会と称する。
二、本会は広く社寺に関する史料の研究と情報の公開を推進することを目的とする。
三、本会は次の事業を行う。
(1)会誌・会報の刊行
(2)大会・例会等の開催
(3)その他
四、会員は本会の目的に賛同し入会の手続きをとった者とする。
五、会員は会費として2、000円を納入するものとする。
六、本会は会務執行のため以下の役員を置く。
代表 1名
事務局長 1名
会計 1名
会計監査 2名
役員の選出は総会において行い、その任期は4年とする。但し、再任はさまたげない。
七、本会は、年1回の総会を開催するものとする。
八、会則の変更は総会の決議による。


ご注文へ